46:もつれた心
「…うーん…、珊瑚は駄目だな。素材として役に立たん」
片眼鏡を目に架け、机と睨めっこしていた坊ちゃんが小さな声で呟く。机の上には刃物や彫刻刀、彫刻針、研磨材などが無造作に置かれ、その中心に無残に切り刻まれた珊瑚の欠片が幾つも散らばっている。坊ちゃんは小さな魔法石が埋め込まれている彫刻針を手に持ち、一番大きな珊瑚の欠片に針の先端を繰り返し圧し当てながら、ブツブツと独り言を続けた。
「…赤く発光するから火属性っぽいが、損失がデカすぎる…海産物だから、水属性と相殺しているのか…?」
「…」
私は坊ちゃんのベッドに腰掛け、そのまま上半身を横倒しにしてベッドに寝っ転がって、坊ちゃんの横顔を眺めていた。最初はちゃんとベッドに座っていたんだけど、坊ちゃんが研究を続けている姿を眺めているうちにいつの間にか寝っ転がってしまった。枕代わりに頭を乗せている上掛けから微かに坊ちゃんの匂いが漂い、物足りなさを少しだけ埋めてくれる。ベッドに寝っ転がったまま口を窄める私の視線の先で、坊ちゃんが珊瑚の大玉を摘まみ上げ、透かすように仰ぎ見ながら独り言ちた。
「仕方ない。コイツはこのまま贈るか…ちゃんとレポートを添えておかないと、お袋も切り刻みかねないな…」
そう結論付けた坊ちゃんは机に散在する欠片や道具類を脇に寄せると、紙を取り出し、羽ペンをインク壺に浸けて走らせる。私はベッドに横になったまま小刻みに揺れる羽を目で追った後、視線以外ほとんど動かない坊ちゃんの端正な横顔を眺め続けた。
結局、予定より一日遅れでサンタピエから戻って来た私達をフランシーヌ様は曰くありげな笑みを浮かべて出迎えたが、それ以外は何も変わらない毎日が続いた。北部戦線は相変わらず平穏で、フランシーヌ隊の面々はラシュレー領よりは過ごしやすい冬の寒さの中で鍛錬を続け、女帝の来襲に備える。その中で坊ちゃんは、フランシーヌ様やセヴラン様との行動計画の立案や定期会議の合間を縫って珊瑚に対する魔法付与の研究を続け、今日、一応の結論を出したところだった。その間、私は、鍛錬やセヴラン様との模擬戦を除けば坊ちゃんの後をついて回り、何をするわけでもなく坊ちゃんの行う様を眺め、物思いに沈んだ。
『――― リュシー、早く約束を思い出せ。お前は、俺のものだ。お前は、他の誰にも渡さない』
あの日の後も坊ちゃんの行動に変化はなく、ぞんざいな言葉を口にしながらも私に対して常に気を配り、何処へでも連れ回す以外何を強制するわけでもなく、私の自由にさせている。その、分かりづらいほど徹底した紳士ぶりに、私はいつの間にか不安を覚えるようになっていた。
…坊ちゃんは、私に何を求めているのだろう。坊ちゃんは、私を自分のものにして、一体何をしたいのだろう。
坊ちゃんが私の胸に並々ならぬ熱意を抱いている事は、知っている。何と言っても5年前の坊ちゃんの気持ちを知っているし、今も時折、坊ちゃんの視線が一点に吸い込まれるのにも気づいている。だけど、それは仕方がないと思っている。私の張りのある二つの山は否応なしに男の人の目を引くようで、視線を感じる事などもはや日常茶飯事。それに比べたら坊ちゃんの視線など、四六時中いる間柄を考えればむしろ非常に少ないと言え、如何に坊ちゃんがその煩悩を理性でねじ伏せているか、窺い知ることができる。その坊ちゃんの紳士ぶりを、以前の私は好ましいと感じていたのだけど、今の私はもどかしさを覚えている。
坊ちゃんにとって、私は何なのだろう。この胸さえ他の男の手に渡らなければ、それで好いのだろうか。
私はラシュレー家のものだ。お義父様のものであり、坊ちゃんのものだ。だから、坊ちゃんが私の胸を独占したいのであれば、私はそれに従うつもりだ。
だけど、私はそのつもりなのに、何故か心の奥底に蟠りを覚える。お義父様の時には感じる事のなかった、臣下にあるまじき我が儘が心臓にささくれを作り、チクチクと痛む。
「…おい、眠いのか?」
「…え…」
投げ掛けられた言葉に我に返ると、机の上の羽ペンがいつの間にか動きを止めていた。坊ちゃんが椅子に腰を下ろして羽ペンを手にしたまま、此方に目を向けている。
「お前も、親父とお袋に一筆添えてくれ」
「…あ、はい」
私がベッドから起き上がると坊ちゃんは席を立ち、私に羽ペンを手渡す。私が坊ちゃんに代わって席に着き、お義父様とマリアンヌ様宛の手紙を書き始めると、坊ちゃんは背板に手をついて身を乗り出し、背後から覗き込んだ。私は手紙に目を落とし、サラサラとペンを走らせながら、坊ちゃんの気配を窺う。
…何もそんな頑なに背板に手を置かなくても…肩くらい触れても好いのに…。
「…こんなもんで如何です?」
「…まあ、こんなトコか…」
私が椅子に座ったまま振り向き、坊ちゃんに手紙を渡す。坊ちゃんは受け取った手紙を一読して頷くと、手紙を私に戻した。
「…よし。コイツらを纏めて、サン=スクレーヌに送っておいてくれ」
「はい」
手紙を受け取った私は珊瑚の大玉と共に袋に詰め、部屋の隅に立てかけてあるバイソンの毛皮の束を抱え上げる。そのまま私が部屋を出ようとすると、背後から坊ちゃんの声が投げ掛けられた。
「…あ、配送が終わったら、今日はもう休んで好いぞ。夕飯になったら、また呼びに来てくれ」
「え?…いえ、別に疲れていませんし、一緒に居ますよ」
予想外の早上がりの指示に私は慌てて辞退を申し出るも、坊ちゃんは眉間に皴を寄せ、ぶっきらぼうに答える。
「…お前、また余計な事考えているだろ。俺は暫く一人で珊瑚を弄りたいから、その間に頭の整理をして来い。俺に話せないのなら、フランシーヌ様にでも相談に乗ってもらえ」
「…わかりました。それじゃ、また夜呼びに来ますね?」
「あぁ」
心を見透かされた私は大人しく引き下がり、坊ちゃんの部屋を出て行く。荷造りをして国営の郵便業者にラシュレー家への配送を頼むと、そのまま自室へと戻った。ノエミは洗濯か何かだろう、誰も居ない部屋に戻った私は、ベッドに身を投げ出す。手足を大の字に広げたまま暫く天井を見上げた後、懐に手を差し込んで小物を取り出し、空中に掲げながら呟いた。
「…また、今日も渡せなかった…」
空中に掲げた右手の先には、サンタピエの月市場で買った二枚貝の小さな小物入れが浮かんでいた。サンタピエから戻って来て、すでに10日。私は、未だにこの小物入れを坊ちゃんに渡せずにいる。
以前の私であれば、もっと気楽に坊ちゃんに渡していた。勿論、プレゼントするからには坊ちゃんに喜んで欲しいけど、自分のお給金で買える物と言えばたかが知れている以上、「まぁ、こんなモンでしょ」という割り切った感覚が根底にあった。何せお義父様やマリアンヌ様、他の高位貴族からの贈り物と比べれば雲泥の差で、比較するのもおこがましい。坊ちゃんが私のプレゼントを仏頂面で受け取り、それでも何かと使ってくれる不器用な気配りに、私はいつも可笑しさを覚えていた。
だけど、今年の私は、坊ちゃんにプレゼントを渡すのが怖い。あの時、何の気なしに買ってしまったこの小物入れを見て、坊ちゃんがどう思うか、想像するのが怖い。
坊ちゃんは、この小物入れを見て、喜んでくれるだろうか。またいつもの仏頂面で、もしかして心の中で舌打ちを堪えていないだろうか。こんな物をプレゼントされて、迷惑に思わないだろうか。今まで想像もしていなかった光景がぐるぐると頭の中を巡り、そのたびに渡すのを逡巡して、今日まで来てしまった。私は寝返りを打ち、ベッドの上に小物入れを置いて指で突きながら呟いた。
「…らしくないな、私…」
***
「フランシーヌ様、…男の人ってやっぱり…おっぱいが全てなんでしょうか?」
私が思った事を口にした後、恐る恐る顔を上げると、向かいに座るフランシーヌ様が優美な顔を渋そうに歪めていた。
「…リュシーさん、あなた、質問する相手を間違えたら、そのまま刺されるわよ?」
まぁ、私の同居人に同じ質問をしたら、間違いなく刺されるだろう。その点、フランシーヌ様はそれなりにボリュームがあるし、しっかりとしたお考えをお持ちでいらっしゃるから、きっと刺される事はないだろう。その予想は的中し、フランシーヌ様はげんなりした表情を浮かべつつも、質問に答えてくれた。
「…まぁ、ある程度はその人の拘りがあるだろうけど、それが全てではないわ。むしろ、それが全てだと言う男が相手だったら、こっちから願い下げね」
そう言い放ったフランシーヌ様は身を乗り出し、胡乱気な目を向ける。
「…で、何でそう思ったわけ?シリル様がそんな事言うはずないでしょうに」
「…」
「…自信がない訳だ、自分に」
「…」
図星を指され、私は思わず俯いてしまう。
私は平民出の、何も出来ない女だ。貴族のお嬢様方であればごく当たり前にお持ちの、身分も華美な容姿も教養も無いし、フランシーヌ様のような気品や包容力も持っていない。家事全般は壊滅的だし、ノエミのような細やかな気配りもできない。私の特徴と言えば、男勝りとしか言えないような腕っぷしの強さと、他とのバランスを何も考えていない、ただ圧倒的な存在感を放つだけの二つの丘。そんな私に坊ちゃんが求めるものと言えば、その二つの丘の占有権しかないではないか。考えれば考えるほど自信を喪失し、顔を上げられなくなった私の頭頂部に、フランシーヌ様の言葉が突き刺さる。
「シリル様が上辺だけで物事をお考えになるような御方ではない事くらい、リュシーさん、あなたが一番ご存知でしょ。そのシリル様が、5年もあなたをお側に置いているのよ?しかもその浄化の力が発覚したのは僅か半年前で、それまでのあなたは寝たきり同然。そんなあなたを、その小憎たらしい胸一つで、シリル様はおろかラシュレー家が5年も留め置くわけがないでしょう?」
刺す気はなくても、小憎たらしいとは思っているんだ。
立て続けに放たれる言葉の中にフランシーヌ様の深層心理を見つけ、顔を上げた私に対し、フランシーヌ様が説教を続ける。
「好い?リュシーさん。あなたには、自分が気づいていないだけで、良いところがいっぱいあるわ。だからラシュレー家もあなたにシリル様を託したのだし、でなければ私だってあなたの友人になったりしない。今あなたがそうやって自分を見失っても、あなたの美点を殺すだけで、何の得にもならないわ。シリル様も私も今のあなたを認めているんだから、今分からない事は、分かるまでそのまま放っておきなさい。悩むだけ、時間の無駄よ?」
「…はい。ありがとうございます、フランシーヌ様」
私はフランシーヌ様の助言を受け入れ、頭を下げた。思えば、坊ちゃんは私を自分のものにした後、5年も辛抱強く待ってくれた。それだけ坊ちゃんは私を大切にしてくれているのだし、私が完治した後も急かすような様子を見せていない。私から急かしたらそれこそ坊ちゃんはヘソを曲げるし、そもそもラシュレー家の養女になると言うお義父様とのお約束に対するジレンマもある。この問題は、サン=スクレーヌに戻るまで棚上げしよう。私が頭を上げると、フランシーヌ様はテーブルに肘をついて掌に顎を乗せ、そっぽを向きながらボソボソと呟いた。
「あと、何かある?ついでだから、聞いておくけど?」
その気の無い返事が坊ちゃんの照れ隠しにそっくりで、私は思わず頬を綻ばせる。私の笑みの意図が伝わったのか、不貞腐れるフランシーヌ様に、私は先ほど新たに湧き上がった疑問をぶつけてみた。
「…やっぱり、小憎たらしいですか?」
「それ以上質問したら、本当に刺すわよ?」
***
その後も坊ちゃんはたびたび珊瑚の研究と称して部屋に閉じ籠り、部屋を追い出された私は鍛錬に励むか自室でゴロゴロしていた。そうして10日ほど経過したある朝、私が坊ちゃんの部屋を覗くと、坊ちゃんが私を手招きする。
「おい、お前、ちょっとコッチ来い」
「はい、何でしょう?」
私が部屋に足を踏み入れると、坊ちゃんは椅子から立ち上がり、私と向き合った。坊ちゃんは唇をへの字に曲げ、朝の睡魔を追い出すように首筋を掻きながら横柄な態度で命令する。
「其処に手を出せ」
「え?こうですか?」
私が体の前に両手を揃えて差し出すと、坊ちゃんが机の上の小物を摘まみ上げ、私の手の上に置く。
「色々弄っていたら、こんなものが出来ちまった。お前、今日、誕生日だろ?やるよ」
「坊ちゃん…」
甕の月の9日は、私の誕生日だ。その日23歳になった私は、朝一番に掌に置かれた小物に目を注ぐ。
それは、渡り鳥の羽と珊瑚の玉をあしらった、アクセサリーだった。珊瑚の玉の表面には綺麗な幾何学模様が描かれ、亜麻糸を通して渡り鳥の羽を結わえた革紐に括り付けられている。珊瑚の隣には小さな魔法石が添えられ、まるで親子のように寄り添っていた。目を瞬かせる私の視界に坊ちゃんの人差し指が割り込み、珊瑚の玉を指し示す。
「その玉、弾いてみろ」
「あ、はい…」
坊ちゃんに言われるまま、私はアクセサリーを片手で摘まみ、空いた指で珊瑚を弾く。すると珊瑚の玉と魔法石が衝突し、その都度珊瑚の表面が煌めき、光の波紋が玉を一周した。私はそのあまりにも儚い、刹那の輝きに見惚れる。
坊ちゃんはもののついでのような言い方だが、この小さな魔法石一つ取っても、庶民の年収ほどの値打ちがある。珊瑚の玉だって、これまでの研究で切り刻んだ残骸ではなく、サンタピエで買ったうちの一つをこの発光のためだけにわざわざ加工したものだ。何の意味もない効能だけど、坊ちゃんは私の誕生日のためだけにこれほどの手間暇を掛け、プレゼントしてくれた。指で弾くたびに珊瑚の玉が坊ちゃんの髪と同じ橙色に輝き、私の心に火を灯す。
「…坊ちゃん、ありがとうございます。大切にしますね?」
「お、おぅ」
私がアクセサリーを胸に抱いて微笑むと、坊ちゃんはそっぽを向いてボリボリと頭を掻く。
その素っ気ない仕草が、可愛くて。愛おしくて。
これまで私の喉元でつかえていた言葉が、するりと外へ出る。
「坊ちゃん、遅くなりましたけど、お誕生日、おめでとうございます。これ、受け取って下さい」
そう淀みなく答えた私は、懐から二枚貝の小物入れを取り出し、坊ちゃんへと手渡した。
「…小物入れか…」
「はい」
小物入れを受け取った坊ちゃんは、蓋の開け閉めを繰り返しながら呟く。
「…素材を仕舞っておくのに、丁度いいか…」
「そうですね」
そう答えた坊ちゃんは振り返り、二枚貝の小物入れを机の上に置いた。引き出しを開け、中から袋を取り出すと、魔法石を二つ三つ摘まみ、小物入れへと仕舞う。再び蓋の開閉を繰り返し、独り言ちる。
「これで作業中に魔法石を紛失する事もないな…」
サン=スクレーヌから送られて来た、一粒で庶民の家が建つような魔法石を三つも納めた小物入れを見て坊ちゃんは頷き、私へと振り返る。
「悪いな。せっかくだから使わせてもらうよ」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
例年よりリップサービスが多いように感じる坊ちゃんの言葉に、私は満面の笑みを浮かべる。途端、奥歯にものが挟まったような表情で上を向いた坊ちゃんの姿に、私は笑いを堪え、坊ちゃんに背を向けた。
「さ、坊ちゃん。朝ごはん、行きましょうか。早くしないと、冷めちゃいますよ?」
「ああ」
部屋の外へと向かう私の後に、坊ちゃんの足音が続く。
さり気なく坊ちゃんの手を取って、引っ張ればよかったかな。
そんな子供じみた未練を感じながら、私は坊ちゃんの部屋を出て、食堂へと向かった。




