45:交差
…えっ!?
耳元から流れ込んだ坊ちゃんの言葉が、私の心を掻き乱した。肩に置かれた掌から坊ちゃんの体温が注ぎ込まれ、私の体を沸騰させる。
…ぼ、ぼ、坊ちゃんっ!?い、今、何て…っ!?
心臓がけたたましい音を立てて掻き鳴らされ、坊ちゃんの言葉が頭の中を駆け巡った。そして、坊ちゃんの言葉は私の記憶の底から5年前の情景を引き摺り出し、欠けたピースを埋め合わせて、目の前に色鮮やかに映し出す。
『――― リュシー・オランド!お前の名を賭け、宣誓しろ!一つ!俺と共に、必ず生きて帰れ!二つ!生きて帰ったら、お前は俺のものだ!お前は絶対に、俺から離れるな!』
今より遥かに甲高い声に乗せて放たれた、少年の魂の慟哭。身分もプライドも全てかなぐり捨て、ただただ私だけを求める、強烈なまでの情熱。
――― そして5年経った今もなお、些かも衰える事なく、プライドと言う分厚い岩盤の下でマグマのように蠢き続ける、真っ赤に滾る欲望。
今まさにその岩盤の隙間からマグマが僅かに噴き出し、小さな囁きと共に私の体内へと注ぎ込まれた。マグマは私の心臓に居座って絶えず蠢き、私の心臓を暴走させる。
ぼぼぼ、坊ちゃんっ!?ままま、待ってっ!?
私は身を縮め、必死に寝たふりを続けながら、坊ちゃんの囁きによって勝手に暴走を始めた自身の体に狼狽した。心臓はより一層伸縮を早め、体の外に飛び出す勢いで暴れ回り、押し流された血液が全身を駆け巡って体温が急上昇する。瞼に力を籠め、体の中からマグマが飛び出さないよう必死に歯を食いしばっていると、肩に置かれた坊ちゃんの掌に更なる力が加わった。
坊ちゃんっ!?待って待って待って!い、今、何かされたら、私…っ!
坊ちゃんが肩に加えた圧力に押し出され、体内で混ざり合った二人のマグマが、双丘の谷間から表面へと溢れ出た。理性の隙間がこじ開けられ、中から滲み出た熱い想いが喉元を抜け、吐息となって口から漏れる。
「…ぁ…」
――― なのに、坊ちゃんはその吐息に気づかないまま私の肩から手を離し、私への情熱の供給が突如途絶えた。
…え?
突然の熱源の喪失に、私はベッドに横になったまま目を見開き、呆然とした。谷間から溢れ出たマグマが行き場を見失い、拍動を繰り返す心臓によって押し流され、無秩序に体の表面に広がっていく。理性の隙間から顔を覗かせていた熱い想いが引き、外から冷気が流れ込んで切なさへと変化する。
…え、坊ちゃん?ちょ、ちょっと待って?
私は困惑し、考えの纏まらないまま、淡い期待を抱いて寝たふりを続ける。だけど、坊ちゃんの手が再び戻って来る事はなく、やがてベッドの軋みと共に背後で布団が沈み込み、暫くすると規則正しい寝息が聞こえて来た。
「…嘘…」
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
私はベッドに横たわったまま、ぐちゃぐちゃに掻き回された挙句放置された心の惨状に、愕然とした。胸全体へと広がったマグマが体をこじ開け、剥き出しになった心臓が誰かに鷲掴まれる事を願って艶めかしく脈打つほど、切ない。
温もりが欲しくて。否応なしに自分を求める荒々しい欲望が待ち遠しくて。心の中にぽっかりと空いた穴を誰かに埋めて貰いたくて。
…だけど私に火をつけた人は、私を放置したまま、一人で勝手に寝息を立てている。
「…坊ちゃん…」
私は寝返りを打ち、坊ちゃんの背中に目を向けた。坊ちゃんの背中は5年前より大きく、引き締まり、男性としての魅力に溢れている。私は身を寄せ、坊ちゃんの背中に両手を添えると、大きく張り出た二つの膨らみを圧し当てた。胸全体に広がるマグマの熱が坊ちゃんの背中に吸い取られ、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「…どうしよう…」
私は次第に鎮まりを見せる自分の鼓動を感じながら、途方に暮れる。
私は、5年前の約束と坊ちゃんの想いを知ってしまった。だけど、私の初恋の人はお義父様で、その恋が叶わぬと知った後もこの身をお義父様に捧げると誓っている。
そして私はお義父様の命によりラシュレー家の養女となり、政略の駒として、あるいは生贄として、この身を捧げる事になった。
それなのに、私は坊ちゃんに誓ってしまった。坊ちゃんのものになると、坊ちゃんから決して離れないと、誓ってしまった。
お義父様にこの身を捧げると誓ったのに、お義父様との恋が実らないからと、無節操にも、その御子息である坊ちゃんのものになると、誓ってしまった。
心はぐちゃぐちゃで、体は雁字搦め。私の両手を掴んで逆方向に引っ張る二人の男は帝国有数の公爵家で、しかも実の親子。
追い詰められた私は、目の前の引き締まった背中に顔を寄せて目を閉じると、思いっ切り息を吸い込んだ。嗅ぎ慣れた男の人の匂いが肺を満たし、切なさが和らいで、胸が熱くなる。
「…坊ちゃん、私、どうしたら好いんですか…?」
背中の持ち主は私に答えようとせず、やがて私は背中にしがみ付いたまま、深い眠りへと落ちていった。
***
…クン。クンクン。
「…おい、お前、何をやってる?」
「…んぁ?」
私が目を瞑ったまま、朝一番の匂いを肺に詰め込もうと鼻を押し付けていると、正面から坊ちゃんの声が聞こえて来た。薄っすらと片目を開けると、そこには視界全体を埋め尽くす、坊ちゃんの引き締まった背中。私の左手は正面へと回り込んでおり、掌から坊ちゃんの胸板の感触が伝わって来る。一瞬で目が覚め、私は坊ちゃんに抱きついたまま、息を呑んだ。息を呑むついでに坊ちゃんの匂いを思いっ切り吸い込んでしまい、むせ返るほどの汗の匂いが肺の中を満たし、私の思考を惑わせる。
「ぼぼぼ、坊ちゃんっ!?おおお、おはようございますっ!」
「…」
私は慌てて飛び起き、ベッドの上で正座すると、坊ちゃんの背中に向かって繰り返し頭を下げた。坊ちゃんは私に背を向けてベッドに横たわったまま、中々起き上がろうとしない。その耳は真っ赤で、私が挨拶をしても頑なに正面を向き、決して振り返ろうとしなかった。
カンカンカン。
「おーい、お客さん達、飯が出来たぞっ!起きてくれ!」
階下から、鍋を叩く音と共に宿屋の主人の声が聞こえて来る。
「ぼ、坊ちゃん…ご、ご飯…行きましょうか…」
「そ、そうだな」
私の呼び声に、坊ちゃんが正面を向いたまま身を起こす。
途中、坊ちゃんが僅かに振り返って背後の私に目を向け、私はベッドの上で正座したまま顔を真っ赤にして俯き、視線を合わせまいと下を向いていた。
「…お、おはようございます…」
「おぅ、おはよう」
私達が食堂に赴くと、朝食の準備をしていた店主が闊達な挨拶を返してきた。私達は食堂に点在するテーブルの一つに陣取り、向かい合わせに腰を下ろす。他の三人の宿泊客はすでに席に着いており、先に朝食に手をつけながら、時折、唯一の二人組の私達に興味深げな視線を向けていた。私は三人の視線に抗えず、坊ちゃんと二人で顔を赤らめ黙ったまま俯いていると、宿の主人が朝食を差し入れて来る。
「あいよ、お待たせ」
「…あ、ありがとうございます…」
日持ちのする堅いパンとチーズ、ひよこ豆のスープ。昨日と同じメニューが目の前に並び、私達は大人しくスプーンを手に取り、スープを口に含む。すると、主人が私達を見下ろしながら、おもむろに質問して来た。
「…昨日は、楽しめたかい?」
「「ブッ!」」
スプーンを咥えたところで言われたもんだから手で押さえる事もできず、私は鼻腔へと遡上するスープの流れを感じながら、正面に座る坊ちゃんと見つめ合う。私達は急いでスプーンを吐き出し、主人に背を向け、壁に向かって繰り返し咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ!」
「ごほっ、ごほっ…ごごご、ご主人っ!?」
振り返って席を立ち、真っ赤な顔で拳を振り上げる私の姿を見て、主人が口の端を吊り上げる。
「思い出深い場所になれて、光栄だ。またコッチに来る時があったら、遠慮なくウチを使ってくれよ?」
「ごごご、誤解ですっ!昨晩、私達は別に何も…っ!み、皆さんも、信じて下さいよっ!?…ほ、ほら、坊ちゃんも何か言って下さいって!何で黙っているんですかっ!?」
私が顔を赤らめ拳を上下に振りながら喚いても坊ちゃんは黙ったままで、主人と三人の宿泊客はそんな私達の姿を生暖かい目で見つめている。
結局、私が誤解を解こうと一人で奮闘しても主人を楽しませるだけで、私は主人の誤解を解く事を諦め、赤い顔で頬を膨らませたまま、宿を後にした。




