44:肉薄
「「え?」」
宿の主人の言葉を聞き、坊ちゃんと私の声が重なった。私が背後へと振り返ると、坊ちゃんは口を開けて呆けていたが、やがてそっぽを向いてボソボソと呟く。
「…ま、まぁ、仕方ねぇだろ。空きがねぇんだからよ…」
「そ、そうですね」
坊ちゃんの言葉に、私は内心の動揺を抑えながら頷き、主人に答える。
「それでは、二人、お世話になります」
「あいよ。厩舎はこっちだ」
私は馬から荷物を下ろすと坊ちゃんに荷物番を頼み、主人の案内に従って厩舎に馬を繋ぐ。入口に戻り、坊ちゃんと二人で荷物を抱えると、主人が階段を指差した。
「部屋はこっちだ。ついて来てくれ」
主人に従って2階に上がると、奥に向かって板張りの廊下が伸び、右側に4枚、扉が等間隔で並んでいた。主人は手前から2番目の扉を開け、中を指し示す。
「此処を使ってくれ」
「お邪魔します」
主人に頭を下げて部屋へと足を踏み入れた私達は、内装を目にした途端、再び声が重なった。
「「え?」」
板張りの部屋は狭く、昨日宿泊した部屋の半分くらいの広さしかなかった。家具は、奥の壁に取り付けられた荷物棚に置かれたランタンと、大きさだけは昨日と同じくらいの質素なベッドが、――― 一台きり。
「…え?え?」
私は狭い部屋の中を何度も見回し、やがて恐る恐る背後へと振り返る。坊ちゃんは私の真後ろに立ちはだかっていたが、その呆けた顔は今日買った珊瑚よりも真っ赤だった。その坊ちゃんの赤みが伝播し、自分の顔が瞬く間に熱を帯びていく。
「…それで、二人とも飯は要るのか?」
「…あ、はいっ!おおおお願いしますっ!」
「分かった。食堂に来てくれ、すぐに用意する」
真っ赤な彫像と化した坊ちゃんの後ろから主人の質問が飛び、我に返った私は裏返った声で答える。主人は階段を下りて厨房へと向かい、残された私達は部屋の入り口で向かい合ったまま、立ち尽くした。私は俯き、顔を真っ赤にしながら板張りの床に向かって呟く。
「…ととと、とりあえず、ごごご、ご飯、いただきましょうか…」
「あああ、あ、そ、そうだな…」
坊ちゃんは答えた後も暫くの間その場に立ち尽くし、私も坊ちゃんが動き出すまで下を向き、床を凝視し続けた。
「あいよ、お待たせ」
「あ、ありがとうございます…」
「…」
食堂で、二人でテーブルを挟んで座ったまま私達が黙っていると、主人が食事を運んで来た。日持ちのする堅いパンとチーズ、ひよこ豆のスープと言った、庶民が口にする質素な料理が目の前に並ぶ。料理を運び終えた主人が厨房へと消えた後も、私達は料理に手を付けようとせず、俯きがちで黙ったまま、スープから立ち昇る湯気を眺める。別に庶民の料理が口に合わないわけではない。私は元騎士だし、坊ちゃんだって野営や軍事訓練でこれ以上に粗末な食事を何度も口にしている。
…ただ、食事の後に予想される光景が頭を占め、処理が追い付かないだけで。
「…ぼ、坊ちゃん、そろそろいただきましょうか…」
「…あ?…ああ…」
やがて間が持たなくなった私が音を上げたように語り掛け、坊ちゃんも上の空で答える。私はゆるゆるとした動きでスプーンを手に取り、スープを掬って口へと運んだ。塩だけで味付けされたスープは、それでもその熱が体を温め、堂々巡りに陥っていた心の緊張が解れる。坊ちゃんも食事に手を付け始め、他の誰も居ない食堂で一言も喋らず、二人で黙々と食事を摂っていると、厨房から戻って来た主人が洗い終えた皿を棚に並べながら、声を掛けて来た。
「あんた達、行商人かい?」
「え?ええ」
「この辺りで見た事ねぇな」
「この地方に来るのは、初めてでして」
「ふぅん…」
主人の問いに、事前の口裏に合わせて応じていると、皿を並べ終えた主人が顎に手をやり、坊ちゃんと私の顔を交互に見やる。
「…新婚かい?」
「「ブホッ!」」
唐突な質問に、私達は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を手で押さえた。坊ちゃんが横を向いて繰り返し咳き込み、私は口元を押さえたまま急いで否定する。
「げほっ、げほっ!」
「わ、私達は、別にそういう関係では…」
「だが、宿に泊まるたんびにいちいち部屋を分けてたら、商売上がったりだろ?それとも、何かい?どっちかすでに、別のお相手が居るのかい?」
「そ、そういうわけでは」
「なら、好いじゃねぇか。初心な年でもあるまいに」
慌てふためく私と、顔を真っ赤にしたまま正面を向いて固まる坊ちゃんを見た主人が、口の端を吊り上げる。
「どうせくっつくんだったら、早い方が好いぞ?何だったら、上、使って好いからよ。ただ、他の客の迷惑にならんようにな?」
「ごごご、ご主人っ!?」
宿の主人は私達を散々引っ掻き回した後、親指を立てながら会心の笑みを浮かべ、厨房へと戻ってしまう。残された私は、厨房に向かって手を伸ばしたまま真っ赤な顔で硬直し、長い間テーブルへと向き直る事ができなかった。
***
その後私達はお互い一度も顔を上げる事なく、俯いたままボソボソと食事を摂り、食堂を後にした。戻る途中、厨房の陰でニヤつく主人の顔が視界の隅に写り込み、私は赤い顔で俯いたまま頬を膨らませ、横目で睨みつける。下を向いて黙ったまま階段を上がり、薄暗い部屋の中に入ると、私は背後へと振り返り、視界に映る床と坊ちゃんの爪先に向かって口を開いた。
「…ぼ、坊ちゃん。ご主人の冗談を真に受けないで下さいね?わ、私は今晩、床で寝ますので…」
「ば、馬鹿。そんな事して、風邪でも引いたらどうする。お前もベッドで寝ろ。」
「だ、大丈夫ですよ、一晩くらい。…そ、そうだっ!旦那様のプレゼント用に買ったバイソンの毛皮っ!アレに包まれば、寒くなんて…」
「――― リュシー」
「っ!?」
寒さを凌ぐ名案を思い付き、顔を上げた私は、突然名を呼ばれた。社交の場を除き、この5年間ずっと「お前」呼ばわりして来た坊ちゃんが、私の名前を呼ぶ。
顔を上げた私の視線の先で、坊ちゃんが真っ直ぐに私を見つめていた。壁際に据え置かれたランタンが放つ弱々しい光を受け、坊ちゃんの端正な顔が暗がりの中に妖しく浮かび上がり、私の鼓動が飛び跳ねる。
「…お前、俺の事がそんなに信用できないのか?俺がお前の嫌がる事なんて、するわけがないだろう?」
「ピ…」
この前、ピーマン無理矢理食べさせたじゃないですかっ!
動揺のあまり唐突に過去のトラウマが蘇り、私は危うく口に出しそうになった。慌てて口元を抑えて俯いた私に坊ちゃんの手が伸び、私は背中に腕を回されて飛び上がる。
「ぼぼぼ、坊ちゃん!?」
「ほら、お前、奥に行け」
坊ちゃんが私の背中を押し、私はなし崩し的にベッドへと上がり込んだ。私はベッドの上で膝立ちになり、壁際に追い詰められながら背後へと振り返って、しどろもどろで答える。
「…そ、それじゃぁ、失礼します…」
「ああ」
振り返ると、坊ちゃんもベッドに片膝をついて上がり込もうとしており、私は慌てて壁際に張り付き、坊ちゃんと距離を取って背中を向け横になった。ベッドが軋み、布団が背中側へと沈み込む。毛布と共に嗅ぎ慣れた男性の匂いが上から降り注ぎ、私の緊張を和らげる。
…あ。この匂い、久しぶりだ。
5年前、黒衣の未亡人の前に倒れて以降、熱痛にうなされ、寝込むたびに嗅いできた、坊ちゃんの匂い。傷が治って以来、数ヶ月ぶりに懐かしい匂いに包まれ、暴れ回る心臓が次第に落ち着きを取り戻す。
実は私は、坊ちゃんの前で寝る事に戸惑いを覚えない。瘴気に体を蝕まれていた4年半、坊ちゃんの前で寝る事が、私の日常だったから。
…ただ、同じベッドで坊ちゃんと一緒に寝るのが、初めてなだけで。
「…おやすみ」
「はい、おやすみなさい…」
背中越しに聞こえる坊ちゃんの声が再び私の鼓動を掻き立て、私は布団に包まったまま、内側から打ち付ける拍動を体全体で感じ取っていた。
「…んが」
「…おい、もう寝ちまったのか?」
微睡む頭の中に自分のいびきが響き渡り、私は目を覚ました。背後から坊ちゃんの声が聞こえ、私は急いで寝たふりをする。
「すぅ、すぅ…」
「…ちっ。こっちは寝付けないと言うのに、いい気なもんだ…」
危ない危ない。親しき仲にも礼儀ありと言うし、これでも一応うら若き乙女なんだから、いびきなんて聞かせられない。何とか誤魔化す事ができ、私が布団に包まったまま胸を撫で下ろしていると、坊ちゃんの呟きが続けて聞こえて来る。
「…お前はそれで好いのかも知れないが、俺は義弟なんて、絶対に認めないからな…」
…え?
私は寝たふりを続けながら、坊ちゃんの発言に目を瞬かせる。すると、ベッドの軋む音が聞こえ、布団が再び背中側へと沈み込んだ。坊ちゃんの気配が真上から降り注ぎ、慌てて目を瞑った私の肩に、坊ちゃんの掌の感触が広がる。寝たふりをしたまま身を固くし、動揺を押し殺す私に坊ちゃんが顔を寄せ、耳元で囁いた。
「…リュシー、早く約束を思い出せ。――― お前は、俺のものだ。お前は、他の誰にも渡さない」




