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37:行き違う二人

「うわあぁぁぁぁぁっ!しまったあぁぁぁぁぁっ!ご存知なわけないじゃんっ!私から伝えるって言ったんじゃないかよぉぉぉぉぉっ!」

「…何ですか、こんな夜更けに…五月蝿いなぁ…」


 突然、真夜中にその事実に思い至った私は、大声を上げてベッドから跳ね起きた。隣のベッドで寝ていたノエミが目を擦りながら不平を漏らし、私は慌てて彼女に頭を下げる。


「ご、ごめんね、ノエミ。もう大声出さないから」

「勘弁して下さいよ、もう………すぅ、すぅ…」


 私が謝ると彼女は不満を口にしながら床に就き、すぐに規則正しい寝息を立て始める。私は彼女が寝静まったのを見届けると、ベッドの上で座り込み、頭を抱えた。


 どどどどうしよう!?お義父様に託されて、あんな自信満々に請け負ったのに、聖女審判にかまけてすっかり忘れてたよ!


 私は自分の迂闊さを呪うと共に、坊ちゃんの不機嫌そうな顔を思い出して、暗澹たる想いを募らせる。サン=スクレーヌを出立する前、坊ちゃんにお義姉(ねえ)ちゃんが欲しくないか何度も探りを入れたけど、露骨に嫌な顔してたもんなぁぁぁぁぁ…。そのままリアンジュまで来ちゃったし、今更お義父様に「無理でした」なんて言えないよぉぉぉ…。


 退路を断たれた私は難題を全て明日へと放り投げて暖かい布団に潜り込み、夢の中へと逃避する。


 ――― シリル様から求められたら、あなたはどうするつもり?


 微睡む頭の中をフランシーヌ様の言葉が横切り、私は胸の痛みを振り払うように寝返りを打った。




 ***


 ―――


 親父、俺に隠れてリュシーに何を吹き込んだんだ?答えろ!


 ―――


 シリルへ


 お前に隠し事などしていないよ。彼女とちゃんと腹を割って話し合いなさい。


 オーギュスト


 ―――




「クソぉ…。アイツ、一人で何を抱えているんだ?」


 伝書鳩を通じ、遠くサン=スクレーヌから届いた短い返事を読んだシリルは、手紙を睨みつけながら苦々しく呟いた。


 リュシーはラシュレー家の忠臣であり、かつ直言直行型で裏表がなく、腹芸は苦手だ。である以上、彼女が当主オーギュストの言葉を騙るはずがなく、彼女の言っていた「オーギュストがシリルに話していない事」は確実に存在すると、シリルは考えていた。だがオーギュストは、それに対する自身の関与を否定した。オーギュストの、自分の息子に対する一貫した姿勢を知り尽くしているシリルは、父の言葉に裏はないと判断する。


『――― ご存知ではないのですか…?』


 怒りに任せた衝動的な発言だったとは言え、()()()以来、シリルが初めて彼女を求めた事に対する、彼女の予想外の反応。彼女自身の好悪の念とは別に、何かが自分とリュシーとの間に立ちはだかっている。


「…クソ、わっかんねぇ…」


 シリルは顔を顰め、ガシガシと頭を掻きながらボヤいた。敵が明確であれば容赦なく牙を剥くところだが、未だ敵が明確になっていない以上、今はまだ大人しくするしかない。シリルは溜息をつき、不承不承の態で心の蟠りに蓋をする。慣れない感情がささくれを作り、その不快感が彼を苛立たせた。


「…何でこの俺が、こんな気持ちにならなきゃならないんだ…」




 ***


「…あ…えっと、坊ちゃん、おはようございます…」

「…」


 翌朝。


 廊下で坊ちゃんと鉢合わせした私は、その眉間に刻まれた深い縦皴を見て、涙目になった。


 あぁ、もう。坊ちゃん、今日は一段とご機嫌斜めですねぇ。こんな日は何を言っても怒られそうだけど、坊ちゃんに話し掛けなかったら、私の侍女としての存在意義が本当になくなってしまう。


「きょ、今日は一段と冷えますねぇ…」

「…」

「ぼ、坊ちゃん、最近ちゃんと眠れていますか?」

「…」


 坊ちゃん、何か返事して下さいよ。


 すると坊ちゃんは黙ったまま手を伸ばし、私の手首を掴むと、自室へと引き入れようとした。前振りの無い行為に私は驚き、坊ちゃんの性急な行動を制しようと、思いつくままに口を挟む。


「坊ちゃん、早く行かないと朝ごはんが」


 ジロリ。


 藪蛇だった。


 睨みつけられた私は観念して坊ちゃんに従い、部屋へと足を踏み入れる。坊ちゃんの部屋はノエミが毎日掃除をしている事もあって、清潔に保たれていた。私は坊ちゃんの指図に従って部屋の中央に(しつら)えた椅子に座り、坊ちゃんも反対側の椅子に座る。私達は小さなテーブルを挟んで向かい合い、黙ったまま見つめ合った。


 …き、気まずい。


 沈黙に耐え切れなくなった私が身じろぎをすると、坊ちゃんが腕を組んだまま視線を逸らし、そっぽを向いて独り言のように呟いた。


「…この前は、悪かったな…」




「…あ、いえ…。此方こそ、失礼な事を申しまして…」


 素直じゃない坊ちゃんの陳謝に、私は椅子に座ったまま姿勢を正して頭を下げる。プライドが高く、意固地な性格の坊ちゃんに先に頭を下げられるとは思わず、私は何となく坊ちゃんに負けたような気がした。部屋の空気が弛緩し、坊ちゃんが再び私の目を見て尋ねる。


「怪我はなかったか?」

「ご心配なく、これでも元騎士ですから」

「…そうだな、余計な気遣いだったか…」

「そんな事ないですよ?坊ちゃんに気に掛けていただけて、嬉しかったです」


 私がはにかむと坊ちゃんは視線を逸らし、ポリポリと頬を掻く。その子供じみた行動を見せる坊ちゃんの姿に、私の頬が自然と緩む。すると坊ちゃんは指を下ろしてテーブルの上で手を組むと表情を改め、私の目を真っすぐ見て問い質してきた。


「…なぁ、お前、一人で何を抱えているんだ?」

「え?…い、いえ、何も抱えておりませんが」


 坊ちゃんの真っ直ぐな眼差しに、私はドキリとする。坊ちゃんは私を気遣うような目を向け、私は坊ちゃんのいつもと異なる姿勢に戸惑い、鼓動を早めた。


「…なぁ。お前にとって、俺はそんなに頼りない主人か?自分の悩みを打ち明けられないほど、狭量な男か?」

「そ、そんな事ないですよ!」


 私は即座に頭を振り、坊ちゃんの考えを否定する。坊ちゃんは確かに性格がキツくて口が悪く、気安く相談するには敷居が高すぎるんだけど、でも私やノエミの話をちゃんと聞いてくれるし、親身になって答えてくれる素晴らしい主人だと思う。


 だけど、今回ばかりは坊ちゃんに相談するわけにはいかない。




 だって、…如何にして坊ちゃんに「お義姉(ねえ)ちゃん」って呼ばせるか、なんだもん。




 私はもう一度頭を振り、坊ちゃんに向かって力なく微笑む。


「…ですが、今回ばかりはご相談するわけには…、それが坊ちゃんのためでもありますし…」

「何故だ?俺自身の事であれば、なおさら俺が向き合うべきだろう!?」

「いけません、坊ちゃん!」


 眉間に皴を寄せ、唇を噛んで詰め寄る坊ちゃんを、私は鋭い声を上げて制した。立ち上がってテーブルに両手をつき、身を乗り出したままの体勢で硬直する坊ちゃんに、私はできるだけ優しい声で語り掛ける。


「…世の中には、例えご自身の話であっても、決して耳に入れてはならない事だってあるのです…。坊ちゃん、わかって下さい。私は、坊ちゃんに嫌な思いをして欲しくないのです…」

「…」


 私の憂いを交えた懇願に、坊ちゃんはテーブルに身を乗り出したまま、顔を強張らせる。直後、坊ちゃんの顔が歪み、テーブルについていた右手を伸ばして私の左手首を掴んだ。


「…クソっ!」

「坊ちゃんっ!?――― あっ!」

「おわっ!?」


 坊ちゃんが右手を引き上げた事で一本脚のテーブルがバランスを崩し、坊ちゃんの体が左に傾く。


「坊ちゃん、危ないっ!」


 向かいに座っていた私は素早く身を乗り出して右手を伸ばし、倒れ込む坊ちゃんの下に己の体を滑り込ませる。仰向けになった私の視界に坊ちゃんの体が迫り、私は覚悟を決めて目を瞑る。私の暗黒の世界に横転したテーブルのけたたましい音が鳴り響き、すぐにそれは静寂に取って代わった。


「…()つぅ…おい、怪我はないか?」

「え、えぇ…何とか…」


 予想していた上からの衝撃は襲って来ず、薄っすらと目を開けると、坊ちゃんが床に手をつき、テーブルから私を守るように覆い被さっていた。




「…坊ちゃん…」


 私は床に仰向けになったまま、至近距離に浮かぶ坊ちゃんの顔と、カーテンのように流れ落ちる橙色の髪に見惚れる。坊ちゃんが私を見下ろしたまま息を呑み、引き締まった男性の喉が生き物のように(うごめ)いた。


「…リュシー…」

「っ!?」


 坊ちゃんが私の名を呟き、私の心臓が飛び跳ねた。坊ちゃんが目を閉じ、顔を寄せて来るにつれ、私の鼓動が早さと激しさを増していく。


 ぼ、坊ちゃん、ままま待ってっ!?


 このままなし崩しに一線を越えたら、きっと私達は元の関係に戻れなくなる。事の是非を問う以前に、ともかくこの状態を何とかしなければならない。私は急いで手を上げ、互いの唇の間に滑り込ませると、考えの纏まらぬまま、思いつくままに声を張り上げた。


「坊ちゃん、いけませんっ!――― 私達、二人きりの姉弟(きょうだい)なのにっ!」




「何っ!?」


 ドンドンドン!


「シリル様、大丈夫ですか!?今物凄い音がしましたが!…ぁ…」


 私の制止の言葉に坊ちゃんが驚いて頭を上げ、朝食に呼びに来たであろうノエミが扉を開けて飛び込んで来る。ノエミは床の上で折り重なっている私達の姿を見て硬直し、顔を赤くしながら部屋を出て行こうとした。


「し、失礼いたしました…」

「ノエミ、誤解よ!二人して転んだだけだからっ!」


 私は慌ててノエミを呼び止め、床に手をついて身を起こす。鼓動を落ち着け、立ち上がってスカートについた埃を払うと、未だ床に膝をついたまま呆然としている坊ちゃんに手を差し伸べる。


「坊ちゃん、大丈夫ですか?」

「…お前、今の話は…本当か?」


 坊ちゃんは私の手を取ろうとせず、驚愕の表情を顔に貼り付かせ、私に目を向ける。私が本当にラシュレー家の養女になれるのか、それはお義父様がお決めになる事だ。私はままならない未来に想いを馳せて寂しそうに頭を振り、私に答えられる範囲で、坊ちゃんの問いに答える。


「…私には、分かりません。真実をご存知なのは、ただ一人…旦那様だけです…」

「…」

「坊ちゃん、参りましょう。…朝ごはんが、冷めてしまいます…」

「…」


 私の言葉に坊ちゃんは答えず、床に膝をついたまま私の顔を見上げている。私は坊ちゃんに力なく微笑むと踵を返し、入口で立ち尽くしているノエミの前を通り過ぎ、部屋を出て行った。

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