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36:すれ違う二人

「…あ、あの、シリル様…本当にこれを私に…?」


 ノエミが両手を体の前に差し出したまま、掌の上に置かれた銀細工を見て固まっている。どうやら坊ちゃんが自分にプレゼントを贈るなんて、想像もしていなかったらしい。やがて彼女はおずおずと顔を上げ、正面に立つ坊ちゃんと目を合わせるが、その頬は薄っすらと赤みが射し、目が潤んでいる。よしよし、もう一押し。坊ちゃん、其処で一気に行くんだ!


「ノエミ、そのブレスレットを常に身に着け、危ないと感じたら迷わず起動させろ。プレートに埋め込んである二つの魔法石に触れれば、護身用の魔法陣が起動する。稼働時間は20分、それまでに味方の許に駆け込め」


 あ、坊ちゃんの馬鹿。いきなり使用方法から入って、どうするのよ。同じ説明するにしても、まず最初に「お前を失いたくないんだ」とか、ちゃんとアピールしないと()ちるものも()ちないじゃない。こっちからじゃ背中しか見えないけど、その様子じゃぁ、どうせいつもの仏頂面してるでしょ。ちゃんとノエミの目を見て、お前が欲しいんだって訴えなきゃ!


「お気遣いありがとうございます、シリル様。肌身離さず身に着け、安全な場所でお帰りをお待ちしています」


 あぁん、もう!ノエミも坊ちゃんのペースに合わせるんじゃない!私ら下っ端が坊ちゃんからプレゼントされたら、お返しはもうアレしかないでしょう、アレしか。丁度おあつらえ向きにベッドもあるんだし、坊ちゃんの袖を掴んで上目遣いでクイクイっと引っ張れば、欲求不満の坊ちゃんならきっとすぐ我慢できなくなるから。一度コトに及べば、後はもうズルズルよ。あ、私の事は気にしないで。後戻りできない段階まで見届けたら、後は安心してあなたに任せるから。出刃亀みたいなマネは、しないわよ?


「…あの、ところでシリル様…」

「何だ?」


 坊ちゃんと見つめ合っていたノエミが右手を上げ、ワクワクしながら部屋を覗き込んでいる私を指し示す。


「…あの人、どうにかなりません?」

「放っておけ。どうせ下らん事を考えているんだろ」

「下らなくないですよっ!此処で一発コトに及べば、お世継ぎ問題、万事解決じゃないですかっ!」


 坊ちゃん、もうちょっと跡継ぎの事、真剣に考えて下さいよ。


 私がお義父様とマリアンヌ様の心中を察して訴えると、坊ちゃんが突然私へと振り返った。怒りにも似た炎を瞳に湛え、床を踏み荒らす勢いで私の許へと押し寄せて来る。そのあまりの剣幕に私が呆然としていると、坊ちゃんが私の手首を掴んで部屋へと引き摺り込み、坊ちゃんに振り回された私は背中を強かに壁に打ち付け、呼吸が止まる。顔を(しか)めた私の前に坊ちゃんが立ちはだかり、壁に両手をついて退路を塞ぐと、眉間に深い皴を刻んで私を睨みつけた。


「…言ったな?」

「…え?」

「此処でコトに及べば、跡継ぎ問題が解決すると」

「え?ええ…」




「――― お前が相手でもか?」




「…え?」

「…」


 思いも寄らない言葉に、私は壁際に追い詰められたまま、目の前に立ちはだかる坊ちゃんと見つめ合った。その瞳の、怒りを湛えた炎の中に、4年前の泣きそうな少年の目の光を見つけ、私の心臓が飛び上がる。私は坊ちゃんの視線に射貫かれ、鼓動が高鳴り体温が次第に上がるのを感じながら、しどろもどろに答えた。


「…あ、あの…私がお相手するわけには…」

「何故だ?」

「な、何故って…」


 私はバクバクと波打つ心臓を必死に抑えながら、思考をフル回転させる。


 私がラシュレー家の()()になり、政略結婚の駒にされるか対邪神様用ホウ酸団子として差し出されるのが確定している以上、此処で私の純潔を散らすわけにはいかないのは自明の理。にも関わらず、坊ちゃんがそんな発言をされるとは、…まさか!?




「――― ご存知ではないのですか…?」




「何っ!?」


 コンコン。


「リュシー殿、お待たせした。そろそろ修練をお願いできるだろうか?」


 入口の扉がノックされ、セヴラン様の声が聞こえて来る。私は壁際に追い詰められたまま、入口に向かって大声を上げた。


「はぁーいっ!セヴラン様、少々お待ち下さい!今参りますのでっ!」

「おい、お前っ!一体何を隠しているっ!?」


 坊ちゃんが、腕の下をすり抜けて逃げようとする私を掴まえ、問い質して来るが、私は坊ちゃんの腕を振り払い、視線を合わせないようにして言い放つ。


「だ、旦那様がお話になられていない以上、私から明かすわけには参りません。失礼します!」

「あ、おいっ!待てっ!」


 私は坊ちゃんを振り切って入口へと駆け出し、勢い良く扉を開ける。突然の出来事に、セヴラン様が目を瞠った。


「はぁ、はぁ…お、お待たせしました」

「…リュシー殿、如何した?」

「な、何でもありません、セヴラン様。さ、参りましょう」


 セヴラン様に気兼ねしてか、坊ちゃんの追撃は聞こえて来ない。私は入口の棚に置かれた籠手(ガンドレット)を掴むと、セヴラン様と共に部屋を後にした。




 ***


「…あの、シリル様…後を追わなくてよろしいのですか?」

「…」


 拒絶するように閉ざされた扉の前で立ち尽くすシリルに、ノエミが恐る恐る尋ねる。シリルはノエミの問いに答えず、扉を睨みつけていたが、やがて振り返るとノエミの許に戻って来た。


「…ノエミ、ブレスレットを付けて、其処に腰を下ろしてくれ。チューニングする」

「え…あ、はい」


 ノエミは躊躇いつつもシリルの指図に従い、ベッドに腰掛ける。シリルはベッド脇に椅子を引き寄せて腰を下ろし、片眼鏡(モノクル)を架けると、ノエミの左手首を掴んでブレスレットを覗き込んだ。試運転を繰り返し、その都度細長い針でブレスレットを突くシリルに、ノエミが意を決して尋ねる。


「…あの、シリル様は…その…リュシーさんの事が………好き、なのですか?」


 ノエミの問いに、細長い針の動きが止まり、再び動き出す。


「…あぁ…」


 針と共に放たれた言葉にノエミは息を呑み、呼吸を落ち着けると言葉を続ける。


「…でしたら、もう少し素直になられた方がよろしいのでは?あの人、筋金入りの朴念仁ですよ?」

「…女には分かるまいよ…」


 顔を上げたシリルは、細長い針を布で拭いながら苦々しく呟いた。


「…男には、どうしても意地を張りたい事があるんだ」




 ***


 ――― キン。


「くっ!」


 硬質の音と共に剣が空中で弾かれ、何もないはずの空間に水色の波紋が広がる。私は顔を顰めながら急いで首元のチョーカーに手をやり、護身群の発動を止める。後退して腕を下ろした私に、対峙するセヴラン様が剣を下ろして溜息をついた。


「…気が散っているな、リュシー殿。悩み事でもあるのか?」

「…ええ、些か。申し訳ありません」


 大柄でパワー型のヴァレリー様とは異なり、細身のセヴラン様は剣技に優れている。純粋な戦闘力で言えばセヴラン様がリアンジュで最も強い剣士であり、私は連日のようにセヴラン様相手に模擬戦を繰り返していた。対戦成績はほぼ互角といったトコだが、今日はすでに四連敗を喫している。こんな状態で戦っても相手に失礼だ、今日は諦めよう。


「すみません、今日は切り上げさせて下さい」

「分かった。では、また明日頼む」

「はい、ありがとうございました」


 私はセヴラン様に深く頭を下げると、館へと足を向ける。観戦していたフランシーヌ様が私の許に駆け寄り、並んで歩きながら尋ねてきた。


「リュシーさん、どうしたの?私で好ければ、相談に乗るわよ?」

「…」


 フランシーヌ様の言葉に、私の足が止まる。私は俯き、一歩先んじて振り返ったフランシーヌ様の視線を感じながら、地面に向かってポツリと呟いた。


「…男の人って…相手が誰でも、好いのでしょうか…」




「…シリル様がそんな事を?」

「…」


 フランシーヌ様の問いに私は答えず、立ち止まったまま地面を見つめる。するとフランシーヌ様が私の手を取って館に入り、自身の部屋へと引き入れた。彼女は私と手を繋いだまま振り返り、部屋に置かれた飾り気のない椅子を指し示す。


「リュシーさん、其処に座って?散らかってて申し訳ないけど」

「失礼します…」


 私はフランシーヌ様に頭を下げ、指し示された椅子に腰を下ろす。部屋の中は小ざっぱりとしていて適度に置かれた小物が心地良い生活感を醸し出しており、私はサン=スクレーヌにある自室の混沌(カオス)ぶりを思い出し、そのあまりの落差にしょげ返った。


「日を追う事に寒くなるわね…」


 そう呟きながらフランシーヌ様は暖炉に火をくべ、やがてパチパチという音と共に部屋の中に暖気が広がる。彼女は上着を脱ぐと机を挟んで私の向かいに腰を下ろし、頬杖をついて答えた。


「…さっきの話だけど、人それぞれじゃないかしら。確かに貴族や豪商の中には何人も妾を囲う人も居るし、毎日のように違う女を買う男の人も居るわ。陛下もお立場上血筋を残さなければならないから、私や皇后陛下の他にも側妃がいらっしゃるしね。

 …けど、全員がそういうわけではなくて、一人の女性だけを求める男の人も沢山居るわ。勿論、経済的理由とか、結果的にそうなったという人も居るでしょうけど、その人の気質に則り自ら律している人だって、確実に居る。そういう自ら律している男の人は、私達女が望まない相手に身を差し出さないのと同じ様に、決して己を曲げないと思うの」


 そう答えたフランシーヌ様は、掌に顎を乗せ、何もない空中を眺めながら、独り言のように言葉を続ける。


「…私はまだシリル様との付き合いが浅いけど、縁談を片っ端から断っているくらいだから、多分あの人もそっちのタイプだと思うのよね。だから、リュシーさんのさっきの台詞をシリル様が発するとは、到底思えなくて。…ねぇ、リュシーさん。何でシリル様がそんなコト言ったの?」


 そっぽを向いていたフランシーヌ様の目が此方を向き、私は何故か肩身の狭さを感じて身を縮める。


「…えっと…ノエミと好い雰囲気になっていたのに一向に手を出さないもんだから、言ったんですよ。『此処で一発コトに及べば、お世継ぎ問題、万事解決じゃないですか!』って。そしたら坊ちゃん怒っちゃって…『お前でも好いのか?』って…」

「…」

「…あの、フランシーヌ様?」


 部屋の中に何故か沈黙が広がり、不安になった私が顔を上げると、正面に座るフランシーヌ様があんぐりと目と口を開けたまま固まっていた。直後、私と目が合ったフランシーヌ様は掌に額を打ち付け、盛大な溜息をつく。


「…っはあぁぁぁぁ…」

「…あ、あの、私、何か変なコトでも…?」


 不安になった私が声を掛けると、フランシーヌ様は顔を手で押さえたまま、指の間から私をジロリと睨みつける。


「…そりゃぁ、シリル様も怒るわよ。リュシーさん、あなたが悪い」

「な、何で?」

「あなた、シリル様にこう言ったのよ?…『種馬になれ』って」

「え…?」


 私はフランシーヌ様の言葉に呆然とし、慌てて否定する。


「わ、私はそんなつもりじゃ…!ただ、早くお世継ぎをと…」

「おんなじよ、リュシーさん。誰が相手でも好いから、早く子を作れって言っているんだから」


 私の反論を一刀両断したフランシーヌ様は、横を向いてブツブツと呟く。


…………(しかも惚れた女に)…………(言われたんだから)…………(、怒りもするわ…)

「あ、あの、フランシーヌ様?」

「リュシーさん」

「はいっ!」


 小声で何か呟いていたフランシーヌ様が私に目を向け、私は急いで姿勢を正す。フランシーヌ様は人差し指を立て、勢い良く前後に振りながら私を叱り付けた。


「さっきも言った通り、シリル様は一途な方よ。そんなシリル様に望まない女を無理矢理抱かせて、あの人が幸せになれると本当に思っているの?」

「い、いえ…」

「あなたが本当にシリル様の幸せを望んでいるのであれば、シリル様の気持ちも考えてあげなきゃ。これは、お世継ぎ問題とは別の話よ?」

「はい…」

「大体、あなた、シリル様にそう言われて、どう思ったの?」

「…え?」


 質問の意図が分からず、目を瞬かせる私に、フランシーヌ様がごまかしを赦さない勢いで追及して来る。


「理由が何であれ、シリル様から体を求められたら、あなたはどうするつもり?受け入れるの?拒むの?」

「あ、アレは単に売り言葉に買い言葉であって…」

「それでもシリル様があなたを求めたのは、事実じゃない。ご自身の言動がどれだけ重い意味を持つか、熟知しているはずのあの人が、そう言ったのよ?それを聞いたあなたは、どう感じたの?」

「そ、それは…」




『――― お前が相手でもか?』




 フランシーヌ様の追及の目と坊ちゃんの怒りの目が重なり、さっきの言葉が頭の中で木霊する。私は激しく脈打つ胸を押さえ、顔に熱を感じながら、ぼそぼそと呟いた。


「…あ、あり得ません…坊ちゃんと私が…だなんて…」

「…」


 私は坊ちゃんより4つも年上で、すでに行き遅れと言われてもおかしくない。坊ちゃんと顔を合わせれば始終小言と眉間の皴が付きまとい、色気の「い」の字も漂わない。第一、私は使命を全うするためにこの純潔を守らねばならず、坊ちゃんの戯れには付き合っていられない。


 ――― だから私は、体の内側から打ち付けるこの鼓動を、止めなければならない。




「…まぁ、あなたが本当にそう思っているのなら、私は何も言わないけどさ…」

「…」


 溜息の混じったフランシーヌ様の言葉に、胸が締め付けられる。胸を押さえ、俯いたまま机の木目から目が離せない私の耳に、フランシーヌ様の呟きが流れ込んだ。


「…あの人も、色々と大変ね…」




 ***


「…しかし、あの女史、凄いですねぇ!セヴラン隊長と、ほとんど互角じゃないですかっ!」


 修練を終え、支度部屋に戻って来たセヴランの許に若手騎士が駆け寄り、興奮気味に訴える。鎧を外して汗を拭っていたセヴランは、若手の顔を一瞥すると、ぶっきらぼうに答えた。


「…アレが互角なものか…」

「あ…そ、そうですよね。幾ら相手が巧者(こうしゃ)でも、女性相手に隊長が本気を出すわけが…」




「…気づいてないのか?――― 彼女、まだ一度も剣を抜いてないぞ?」




「…え?あの人、格闘家じゃ…」

「剣士だよ、本職は」

「…」


 セヴランの言葉に、若手騎士の顔が蒼白になる。セヴランは呆然とする若手を捨て置き、タオルで頭を拭きながら自嘲気味に笑みを浮かべた。


「…幾ら制御不能とは言え、私も舐められたものだ…」

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