34:一人の女として
「…え?あの、カサンドラ様、代わってって、どういう…?」
「姉様!?一体、どうされたのですか!?」
困惑する私の許にフランシーヌ様が駆け寄り、私に縋りつくカサンドラ様の肩を抱いて引き剥がそうとする。しかしカサンドラ様は身を捩ってフランシーヌ様の手を振り払い、決して離すまいと私にしがみ付いたまま、赤い髪を振り乱して訴えた。
「お願い、リュシーさん! 1年で好いのっ!1年で好いからっ!私と代わって欲しいの!でないと、私…私!…うぷっ…」
「姉様っ!?」
突然、私にしがみ付いていたカサンドラ様が手を離し、口元を抑えて蹲った。慌ててフランシーヌ様が手を回し、繰り返し背中を擦っていると、やがてカサンドラ様は地面に嘔吐する。周囲に饐えた臭いが広がり、カサンドラ様の荒れた息遣いと、フランシーヌ様の戦慄く声が漂う。
「姉様、まさか…!」
「はぁ、はぁ、はぁ…リュ、リュシーさんっ!」
地面に両手をついて深呼吸を繰り返していたカサンドラ様が、再び身を起こして私に縋りついた。彼女は口元を手で拭うと膝立ちとなって私の服を掴み、揺さぶりを繰り返す。カサンドラ様は棒立ちのままの私を見上げ、救いを求めて泣き喚いた。
「リュシーさん、お願い!一人で好いのっ!一人で好いからっ!――― 私、あの人の赤ちゃんが産みたいのっ!」
「…姉様、これでもお飲みになって下さい」
「ありがと…」
私達は泣き喚くカサンドラ様を宥め、気を落ち着かせると、部隊に小休止を命じた。気を利かせた騎士達がやや離れた所から見守る中、私達は焚火を囲んで腰を下ろす。カサンドラ様はフランシーヌ様に頭を下げて白湯の入ったカップを受け取り、傍らに座るヴァレリー様に体を支えられながら、湯気の立ち昇るカップに向かってポツリと呟いた。
「…ヴァレリーとは、もう10年の付き合いになるわ…。先代が不死王との戦いで命を落として以降、帝国は20年以上聖女に恵まれず、その間多くの人が魂喰らいの餌食となった。そんな中で神官の娘として生まれた私は、教会にその力を見い出されて聖女となり、帝国中の期待を背負って北部戦線に来たの。
ヴァレリーはカサンドラ隊の部隊長として傍らを離れず、右も左も分からない私を献身的に支えてくれたわ。独り親元を離れ、知り合いも居らず多くの人命が失われる戦場が恐ろしくて子供のように涙を流していた私を、彼は毎晩のように慰め、気を紛らわせてくれた。私はそんな彼を兄のように慕い、やがて一人の男性として惹かれるようになったの。
5年ほどして私はついに彼と結ばれ、愛し合うようになったけど、私は彼の子供を作らないよう、細心の注意を払ったわ。私はこの国で唯一、魂喰らいを斃せる力を持つ聖女だった。魂喰らいとのイタチごっこは何年も続き、その間私は何の成果も挙げられなかったけど、北部戦線の犠牲者は激減していたの。私が魂喰らいを追い回していれば、多くの人命を救う事ができる。である以上、私が妊娠して動けなくなったら、また犠牲者が増えてしまう。私は彼の子供が欲しかったけど、その気持ちに蓋をして魂喰らいを追い続けたわ。
…だけど、ついに深窓の令嬢に追いつき、斃した事で、気が緩んでいたのね…。ある日私は体の不調を覚え、やがて妊娠した事に気づいたの。
私は自分の妊娠を知って、絶望したわ。彼の赤ちゃんを宿したけど、お腹の子が大きくなって動けなくなったら、多くの人々が命を落としてしまう。私が皆の命を救うためには、この身に宿った愛する人の赤ちゃんを殺すしかない。…でも、そんな事、できるわけがないじゃないっ!」
「…姉様…」
両手で顔を覆い厭々と頭を振るカサンドラ様を、ヴァレリー様が沈痛な面持ちで抱き寄せ、フランシーヌ様が悲し気な表情で見つめる。私はカサンドラ様に襲い掛かる、あまりにも理不尽な苦悩に絶句した。
愛する人の子を産みたい。多くの女性が持つであろう自然な願いと、それを赦さない己の立場。誰一人責める者が居ないのにも関わらず、相反する二つの狭間で彼女は人知れず退路を断たれ、追い詰められていた。その苦悩は、おそらくヴァレリー様にも、本当の意味では分かち合えない。自分の決断が必ず他の誰かの命を奪う事になると思えば、責める相手は自分しか居ないのだ。胸に痛みを覚える私の前で、カサンドラ様の顔を覆っていた両手がゆっくりと離れる。
「…そこに、黒衣の未亡人討伐の報が飛び込んで来たの」
そこには、居なくなった親を見つけた幼児の泣き顔が、貼り付いていた。
「カサンドラ様…」
「…リュシーさん」
私が思わず両手を差し出すと、カサンドラ様が膝立ちで擦り寄り、私の胸元に飛び込んで来た。両手で私の襟を掴み、その上に頭を乗せて祈るように身を震わせる。
「私には、女神様が齎した天恵としか思えなかったわ。これで私が居なくても、赤ちゃんを殺さなくても、多くの命が守られる。ねぇ、リュシーさん、お願い。1年、1年で好いから、私の代わりに北部戦線を守って欲しいの。私、もう32よ?今この子を産まなかったら、もう二度と赤ちゃんなんて望めない!お願いします、リュシーさん!私にはもう…あなたしか頼る人が居ないの!…うぅぅ…」
私は、胸元にしがみ付いたまま子供のように泣き出すカサンドラ様を抱き締め、豊かに波打つ赤い髪を撫でながら優しく答える。
「勿論じゃないですか、カサンドラ様。確かに北部戦線の動向は帝国の未来を左右する重要な問題ですが、カサンドラ様の幸せと引き替えにして得るべきものではありません。帝国の未来は、皆で切り開くべきものです。カサンドラ様は10年もお一人で北部戦線を支えてきたのですから、誰よりも幸せになって貰わなければ困ります。ご安心下さい、カサンドラ様が居ない間、私と坊ちゃんが留守を預かりますから。…それで好いですよね、坊ちゃん?」
「…フン」
私がカサンドラ様の髪を撫でながら坊ちゃんに目を向けると、坊ちゃんはそっぽを向いて不貞腐れる。
「…好いも何も、俺に下された指令は『カサンドラ様の指示に従え』だ。俺がどうこう言う話じゃない」
「…だそうですよ?」
「リュシーさん…」
期待した通りの、素直じゃない坊ちゃんの答えに私は顔を綻ばせる。すると、傍らで口元を抑えて震えていたフランシーヌ様が声を張り上げた。
「…姉様!私も一緒に残ります!」
「…フランシーヌ?」
「フランシーヌ様?」
フランシーヌ様の言葉に、私とカサンドラ様が振り返る。フランシーヌ様は私達の許ににじり寄ると、カサンドラ様の手を取って両手で押し包み、身を乗り出して訴えた。
「私の浄化の力は弱く、アンデッドを祓う事はできません。でも、その代わり、私には溢れるほどの回復の力があります。私もリュシーさんも、聖女としては半端者です。だけど、二人が一緒に居て互いを補えば、きっと姉様の代わりを務める事ができます。陛下には、私から伝えます。だから、姉様は安心して、赤ちゃんの事だけを考えて下さい!」
「フランシーヌ…」
フランシーヌ様の涙ながらの訴えに、カサンドラ様が唇を震わせる。私は目の前で顔を寄せ合う二人の姿に慈しみを覚え、二人の背中に手を回して抱き締めた。
「というわけで、カサンドラ様、遠慮なく私達に命令して下さい。北部戦線を守れと。1年後、元気な赤ちゃんを胸に抱いて戻って来るのを、楽しみにしています」
「…リュシーさん、フランシーヌ…ありがとう…ぅう…ありがとう…」
カサンドラ様の目に再び大粒の涙が溢れ、頬に幾筋もの線を引いて流れ落ちる。
私達三人は焚火の傍らで子供のように身を寄せ合い、涙と共に1年後の再会を約束した。




