19:帝都への招聘
うぅぅ…。どうしよう。坊ちゃんが私の事を「お義姉ちゃん」って呼んでくれない。
お義父様からの呼び出しを受け、坊ちゃんと二人で向かう道すがら、私はお義父様の失望される御顔を思い浮かべ、半泣きになった。あれから何とか「お義姉ちゃん」と呼んでもらおうと、私は幾度もさり気なくド直球で坊ちゃんに話を持ち掛けたが、坊ちゃんはその度に機嫌が悪くなり、ここ数日は不機嫌さを隠そうともしない。お義父様にあんな大見得を切ったのに坊ちゃん一人説得できないようでは、将来嫁ぎ先を篭絡してラシュレー家の傀儡として意のままに操る事なんて、夢のまた夢。自分の将来が対邪神様用ホウ酸団子一択に絞られ、観念した私が邪神様に操を立てようと固く誓ったところで、坊ちゃんがお義父様の部屋の扉に手を掛けた。
「親父、入るぞ」
「坊ちゃん、言い方」
苦言を呈する私を無視し、坊ちゃんが部屋へと入る。後を追って私も入室すると、お義父様とマリアンヌ様がソファに腰を下ろしており、お義父様が向かいのソファを指し示した。
「シリル、リュシー、二人とも其処に座ってくれ」
「…」
「失礼します」
お義父様の言葉に坊ちゃんは黙って座り、私も坊ちゃんの隣に腰を下ろす。私が腰を落ち着けると、マリアンヌ様が尋ねてきた。
「リュシー、右手の具合はどうかしら?」
「すこぶる順調です、マリアンヌ様。だいぶ動きも滑らかになってきましたし、筋力をつけるための運動も始めています。かつての特訓を再びできるようになって、ほら、右手も泣いて喜んでいます」
「ちょ、ちょっと。ソレ、泣いて喜んでいるというより、ひきつけ起こしてない?」
マリアンヌ様が、至るところに青筋が浮き上がり、5本の指がビクンビクン痙攣している私の右手を見て、顔を引き攣らせる。今日はまだ、片腕立て伏せ50回と感謝の正拳突き500回しかしていない。この程度で音を上げる右手を見ると、我ながら情けなくて涙が出る。後でもっと追い込まねば。傍らで頬をひくつかせるマリアンヌ様を見てお義父様が苦笑し、再び私達に目を向けた。
「…大聖堂からリュシーへ、招聘の手紙が正式に届いたよ。可及的速やかに帝都までお越しいただきたい、とな。今、迎えの使者達を待たせている。リュシー、その右手は後何日あれば概ね元に戻る?」
「そうですね…後1週間も追い込めば、応急で使えるようにはなるかと」
「分かった。使者達には君の療養を理由に、それまでお待ちいただこう。リュシー、君は焦らず回復に努めてくれ」
「はい。旦那様、お気遣いありがとうございます」
私がお義父様の配慮に内心で身悶えつつ感謝を述べると、お義父様は一つ頷き、坊ちゃんへと目を向ける。
「シリル。せっかくだから、お前も行って来い。向こうでの社交は、任せる。レイモンとロクサーヌが支援してくれるだろうから、問題なかろう」
「分かった」
「え?坊ちゃんも一緒にいらっしゃるんですか?」
私が驚きの声を上げると、坊ちゃんが呆れたような表情を見せ、指摘する。
「お前、生まれてこの方、ラシュレー領から出た事ないだろうが。聖女認定される時には、皇帝陛下にもお会いするんだぞ?危なっかしくって粗相でも起こしたら敵わんから、俺がついて行ってやる」
「あぁ!それもそうですね。坊ちゃん、すみません」
「フン」
迂闊にも思い至らなかった私が素直に頭を下げると、坊ちゃんは鼻息を荒げ、そっぽを向いた。だけど、私には分かっている。ただ単に、坊ちゃんは照れているだけだ。いつもと変わらない坊ちゃんの不器用な心遣いにこそばゆさを感じ、私の頬が自然に緩む。
こうして坊ちゃんと私は、治療を名目とした1週間を利用して準備を進めた。随員は、帝都から来た使者と10名の騎士の他、ラシュレー家からも10名の騎士と、坊ちゃんの身の回りの世話にノエミが帯同する。それを聞いた私はすかさずノエミの許に駆け寄り、小声で後押しした。
「…坊ちゃんがムラムラしていたら、遠慮なく襲われなさいよ?」
「ぴぇ!?」
1週間後、私達は帝都へ向け、サン=スクレーヌを出発した。
***
サン=スクレーヌを出立して10日。帝都オストリアへの旅程の折り返し地点を越えた一行は、路肩に馬車を停め、休憩を取っていた。警護の騎士達も馬から降り、思い思いのひと時を過ごしている。
シリルは馬車から降り、少し離れた場所で屯する数人の騎士達の様子を、仏頂面で眺めていた。シリルの傍らにノエミが近づき、水の入った革袋を差し出す。
「シリル様、お水、お飲みになられますか?」
「ああ、貰おう」
革袋を受け取ったシリルは上を向いて口を開け、水を流し込んで喉を潤す。飲み終えたシリルは手で口を拭いながら革袋を差し出し、ノエミが受け取って慎ましやかな胸に抱え込んだ。二人はそのまま並んで、屯する騎士達を眺める。
やがてノエミが革袋を胸に抱えたままシリルに顔を寄せ、遠慮がちに尋ねた。
「…あの…シリル様…」
「何だ?」
尋ねる方も答える方も、騎士達の方角から目を離さない。ノエミは横目で騎士達を眺めたまま、この旅の間に急速に膨らんだ疑問を、口にした。
「…リュシーさん、何でアレで、未だに侍女やってるんですか?」
「…」
尋ねられたシリルは質問に答えようとせず、憮然とした表情で沈黙を保つ。聞いたノエミもそれ以上追及する事なく、二人はそのまま騎士達の方角を眺める。
二人の視線の先には、一組の男女が対峙していた。男は胸甲を身に着け、長剣を両手で構えて切っ先を女へと向けている。一方、相対する女はお仕着せの地味なワンピースに身を包み、無手のまま右手だけを体の前に掲げていた。
女が地面を蹴り、男へと突進した。それを見た男は切っ先を左下に落とし、すかさず右上へと斬り上げる。誰もが両断される女の光景を想像したが、女が左足の力を抜き、右肩を引いて体を捻ると、男の剣が斜めに傾いた女の上を空しく走った。男は振り上げた剣を翻し、女へと振り下ろそうとするが、女は左足に力を入れ、前傾姿勢で男の左の懐へと潜り込もうとする。男は飛び退って剣を振れるだけの距離を取ると、女に向かって剣を振り下ろした。
だが女は直前で方向転換し、男の右側へと飛んだ。振り下ろされた剣筋と並ぶように女が男の右の懐へと飛び込むと、右掌を突き出して男の顎を掴む。同時に女の右足が男の右膝裏を刈り、男は剣を振り下ろしたまま、女に顎を押し込まれるような形で後ろへと倒れ込んだ。仰向けに倒れ込んだ男の、剣を持つ両手が女の右手に抑え込まれ、上空を見上げる男の首のすぐ脇に女の右の踵が振り下ろされて、地面に突き刺さる。
「…あーあー…」
顛末を見終えたノエミが、嘆くように呟いた。
「…あの人、ついに左手封印しちゃいましたよ。この間まで右手が動かなかったのに。シリル様、どうします?護衛の騎士、もうすぐ二巡しますよ?」
「…俺にどうしろって言うんだ?」
ノエミに問われたシリルは、地面に倒れ込んだ男に手を差し伸べる己の侍女の姿を眺めながら、不機嫌そうに問い返した。
***
「ありがとうございました。また今度、お願いしますね?」
「あ、ああ…」
仰向けに寝ている対戦相手に手を差し伸べ頭を下げると、彼は顔を強張らせながら私の手を取り、起き上がった。おかしいな。組手の御礼に、いつもより3割増しの笑顔を浮かべているのに。うら若き乙女だもん、別に取って食ったりしないよ?
休憩の度に繰り返してきた組手も、もうすぐ三巡目に入る。右手は応急で仕立て上げたけど、実戦感覚がまだ足りてないので、護衛の騎士の皆さんに協力をお願いした次第だ。初めは帝都から来た使者さん達に両手を合わせ笑顔でおねだりしてたんだけど、当初は鼻の下を伸ばして応じてくれたのが、今では顔を引き攣らせ、己のプライドを賭けて打ち掛かって来てくれる。手にする得物は真剣だし、緊張感があってよろしい。対する私はいつものワンピースなので当然斬られたら御陀仏なんだけど、ホントにマズいと坊ちゃんの護身群が発動して防御するので、身の危険はなかったりする。今のところ一度も発動させていないのが、自慢だ。
うん、大分こなれてきた。私は右手を回しながら仕上がりに満足する。籠手を持ってきてないから剣を受け流すしかないんだけど、騎士の皆さんは比較的重装備な事もあって、剣筋が短調で読みやすい。これがお義父様相手だと、凄まじい数の刺突に阻まれ、懐に飛び込む道筋さえ見つけられなかったりする。右手も治ったし、またお義父様にお相手して貰いたいな。色んな意味で。…あれ?何ですか、坊ちゃんもノエミも、その目は?
私は白い目を向ける二人に首を傾げながら馬車へと乗り込み、護衛の騎士達と共に帝都へと出発した。
…蛇足だが、結局坊ちゃんは旅の間、一度もノエミを襲わなかった。解せぬ。




