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18:当主との茶会

「失礼します。リュシーさんをお連れしました」


 扉を開けて会釈するノエミの傍らを通り過ぎ、私は一人で部屋に足を踏み入れた。背後で扉が閉まり、おそらくノエミは坊ちゃんの許に戻ったんだろうけど、私は彼女に気を回す余裕がない。私の心臓は先ほどからバクバクと破裂しそうな勢いで鼓動を繰り返し、押し出された血液が体温を否が応でも上げ、顔が真っ赤になっている。私は気を抜いたら過呼吸を引き起こしかねない肺を叱咤し、大きく深呼吸をすると、盛大に噛みながら部屋の主人に御礼を述べた。


「だだだ旦那様、こここ此度(このたび)はおおおお招きに(あずか)り、あああありがとうございます!」


 言い終えた途端に歯がガチンと噛み合い、口内でのた打ち回る舌を抑え込むように唇が真一文字に引き絞られた。頭蓋の中に溜まった熱がプシューッと言う音と共に、唇の端とこめかみから湯気となって立ち昇っているような錯覚を覚える。私のガチガチの挨拶の前に、旦那様は穏やかな笑みを零しながら私の前へと進み出て、年齢と包容力を感じさせる、乾いた大きな右手を差し出した。


「そう硬くなるな、リュシー。今日は家人ではなく、客人として招いているのだから、楽にしなさい」

「きょ、恐縮でございます…」


 私は旦那様の微笑みに見惚れ、おずおずと左手を伸ばして、旦那様の右腕に添える。部屋の中央に据え置かれたテーブルまでの僅かな距離だけど、私は確かに旦那様のエスコートを受け、旦那様の隣を歩いていた。脳みそが沸騰し、頭の中で何かがボコボコと爆発している。あ、もう駄目。死にそう。死にます。皆さん、さようなら。




 私が満願成就の上で死に瀕するハメになったのは、お婆ちゃんの事がきっかけだった。右肩の傷が癒えた私は旦那様とマリアンヌ様に御礼を言いに伺ったが、その時にお婆ちゃんの話が出た。お父さんは物心ついた時にはすでにお婆ちゃんと離れ親戚の下で育てられたため、全く知らなかったようだが、お婆ちゃんはこの国でも腕利きの治癒師(ヒーラー)だったらしい。国や各領主が抱える騎士や兵士とは別に、民間には護衛や魔物討伐等を生業とするハンターという職業があるが、お婆ちゃんはその最高峰であるS級ハンターの一人だったそうだ。実子である父でさえも知らなかった事実を聞いて私は呆然としたわけだが、旦那様はそんな私に「君のお祖母さんの話は、また別に時間を設けよう」と仰られ、今日という日を迎えた次第である。お婆ちゃん、会った事もない孫に最高のプレゼントを贈ってくれて、ありがとう。これでもう私は、心置きなくあの世に逝けます。


 旦那様はわざわざ私のために時間を割き、応接の一間に賓客をもてなす茶器を揃えて、私を出迎えて下さった。それを迎え撃つ私だって、もう、準備万端ですよ。私の手持ちの中で唯一のドレスを押し入れの奥から引っ張り出したし、日頃はつけない香水だって惜しみなく使っている。アクセサリー類は、坊ちゃんとマリアンヌ様からいただいた護身群をそのまま代用。ネックレスはないけど、大きく胸の開いたドレスから顔を覗かせる私の巨峰と首元を妖しく飾る漆黒のチョーカーの組み合わせが、特定の人々に絶大な破壊力を齎す事を私は知っている。主に坊ちゃんとか。下着だってこの日のために仕立屋に駆け込んで作って貰った特注品だし、これでもう、何か間違いがあっても大丈夫ですよ。いや、旦那様にはマリアンヌ様がいらっしゃるから、そんな事が起きないことは重々分かっていますけどね、あらゆる事態を想定し、万全の対策を施すのが淑女というものじゃない?


 旦那様はテーブルまで私をエスコートして下さった後、手ずから椅子を引いて下さった。おおぅ。只の椅子なのに、旦那様が引いて下さっただけで腰に稲妻が走ったんだけど。私が椅子に腰を下ろしたまま、もどかし気にお尻の位置を変えていると、旦那様が向かいの席に着く。いつもは私の同僚でもある執事が一礼し、ティーカップに紅茶を注いでくれた。


 テーブルにはティーカップの他にスコーンやケーキ、果物が小分けに並べられ、白を基調したクロスの上を彩っている。紅茶を注ぎ終え、執事が引き下がると、旦那様がティーカップに指を掛けながら微笑んだ。


「リュシー、改めてお祝いさせてもらおう。4年間、よく頑張った。おめでとう。遠慮せずに、好きなだけ食べなさい」

「ありがとうございます、旦那様。これも全て、旦那様をはじめ、ラシュレー家の皆様のおかげです」


 私は旦那様に頭を下げながら、御言葉に甘えてケーキに手を伸ばす。ケーキは貴人の催しに供されるものと同じで、滅多な事では味わえない上品な甘さが口の中に広がった。私が左手でケーキを口に運んでいると、旦那様が尋ねてきた。


「右手はまだ、元通りとはいかないのか?」

「はい。流石に4年も動かしていませんでしたので言う事を聞きませんし、握力も全然なくなってしまいまして」


 右手が完治してから数日しか経過しておらず、まだ関節を(ほぐ)して可動域を広げている段階だ。右手では未だティーカップを持つ事さえ、自信がない。私は旦那様の質問に答えながら甘味に舌鼓を打ち、暫くの間、他愛もない話が続いた。


「…さて、そろそろ気分もほぐれてきた頃だろう。君のお祖母さんの話をしないとな」


 旦那様がそう答えながらソーサーにカップを置き、私は口の中に残っていたスコーンを飲み込んで、背筋を伸ばす。旦那様はティーカップに残された琥珀色の液体を眺め、昔を懐かしむように語り始めた。


「君のお祖母さんと初めて会ったのは、私が14の時だった。その時彼女は、28だったと思う。4人の仲間とパーティを組み、当時まだ隣国と激烈な戦いを繰り広げていたラシュレー家の募兵に応じ、傭兵としてサン=スクレーヌに来たんだ。彼女の治癒魔法は他の者に比べ抜きん出ており、ラシュレー家の者も数多く助けられた。

 1年後、私は成人を迎えて初陣を果たした。当時から私は剣に秀でていたが、私はそれに驕り、戦功に(はや)って味方から突出してしまった。私と護衛の騎士達は敵に包囲され、騎士達は私を守るために敵の刃の前に次々と身を投げ出し、打ち倒された。私はそれを見て、臍を噛む思いだった。自分が大局を見ず無謀な突撃をしたばかりに、部下達が望まない死を迎えていく。その元凶を招いたのは私だったのに、取り返しのつかない結果は全て部下達が受け持ったんだ。やがて、敵の刃は私にも襲い掛かり、私も深手を負って死を覚悟した」


 ティーカップを見つめる旦那様の顔が悲痛に歪み、唇を噛み締める。私から見れば軍神としか思えない旦那様の苦悩する姿に、私は胸が締め付けられる。痛みを覚えた胸に手を当て、前のめりになる私の視線の先で、旦那様がティーカップから視線を外し、私へと向けた。


「そこに、君のお祖母さん達が駆け付けてくれたんだ。お祖母さんのパーティは僅か5人であったのにも関わらず果敢に敵陣へと突撃し、縦横無尽に斬り払って一時的に敵を押し戻した。君のお祖母さんは仲間達が切り開いた場所に進み出て、私達に次々に治癒魔法を掛けてくれた。あの銀色に輝く短剣を掲げ、祝詞を紡いで、瀕死だった私と3人の騎士達を救ってくれたのだ。

 彼女は私達の命を救うと、私に言葉を投げかけてくれた。その言葉は、今も私の胸に焼き付いている」


 旦那様はそう答えると私から視線を外し、宙に浮かぶ何かを見つめながら、祝詞を唱えるように(そら)んじる。




「…『オーギュスト様、ご自身の立場を決して忘れないで下さい。一人を救うのは、私達でもできます。ですが、万人を救うのは、オーギュスト様、あなたにしかできません。この広大な領土に住む人々に救いの手を差し伸べられるのは、ラシュレー家の次期当主たる、あなたにしかできません。あなたは、一人に手を差し伸べるのではなく、万人に手を差し伸べて下さい』…」




「…万人に手を…」


 旦那様が呟いた、お婆ちゃんの言葉が、私の胸に突き刺さった。初めて聞いた言葉だけど、何故か私は親近感を覚える。前のめりになったまま記憶の箱をひっくり返し始めた私に、旦那様が声を掛けた。


「…リュシー。4年前、死に瀕した君は、シリルに言葉を贈ってくれたそうだ。覚えているかい?」

「私が…坊ちゃんに、ですか?」

「ああ」


 旦那様の言葉に、私は戸惑いを覚えた。当時の私はあのまま逝くつもりだったので、正直坊ちゃんと交わした誓約さえ満足に覚えていない。言葉に詰まった私を見て、旦那様が顔を綻ばせた。


「…あの後息子に聞いて、私は感銘を受けたよ。今では私も諳んじる事ができる。…『命を投げ出した皆の願いを、踏みにじらないで下さい。私の命を踏みにじって、一人で無様に生き延びて下さい。それがラシュレー家の、帝国の西方の安寧を担う公爵家の跡取りに課せられた責務です』」

「…なっ!?なっ!?」


 旦那様の言葉を聞いた途端、私の顔が真っ赤になった。確かにそんな事を言ったけど、その言葉を旦那様の口から聞かされると、黒歴史を突き付けられたようで、恥ずかしさのあまり顔から火が出る。狼狽する私を見て、旦那様が破顔した。


「リュシー。ラシュレー家は親子二代に渡って、君達から二つのものを与えられたのだよ。己の命と、…高貴な(ノブレス・)る義務(オブリージュ)を。今日のラシュレー家は、君達が育てたと言っても、過言ではない。…この場で改めて御礼を述べさせていただく。ありがとう」

「だ、旦那様っ!御顔を上げて下さい!」


 テーブルの向こう側で旦那様が頭を下げる姿を見て、私は慌てて席を立った。テーブルに手をつき、身を乗り出して、溢れ出る心の内を訴える。


「旦那様っ!私こそ旦那様に多大なる御恩をいただいております!二度に渡って命を救われ、騎士の何たるかをお教えいただき、私の進むべき道を指し示して下さいました!今日此処に私が在るのは、全て旦那様のおかげです!私こそラシュレー家に恩返しせねばならないのにっ!この4年間何もして来なかったのにっ!旦那様、どうか私にお命じ下さい!ラシュレー家のために死ねと!今日まで生き長らえた意義を為せとっ!それがどのような命令であれ、私は喜んでこの身を捧げます!」

「ならんっ!」


 私の訴えを聞いた途端、旦那様は声を荒げた。穏やかな表情を一変させ、テーブルを挟んで私の前に立ちはだかり、私を叱責する。


「私が君を救ったのは、死なせるためではない!生かすためだ!生きる事に歓びを覚え、生きて人のために為しえる事を追い求めてもらうためだ!生きなさい、リュシー・オランド!誰よりも、自分のために生きなさい!」


 旦那様と私は、しばしの間テーブルを挟んで睨み合った。やがて旦那様が苦笑し、頭を掻きながら椅子に腰を下ろす。


「…よそう。今日は君と口喧嘩するために場を設けたのではないのだから。水を差すような事を言って、すまなかったな」

「いえ、私こそ失礼いたしました…」


 旦那様の言葉を受け、我に返った私は消沈しながら腰を下ろした。せっかく旦那様と二人だけでお話しできる場だったのに。椅子の上で縮こまってしょげ返る私の姿を見た旦那様がもう一度苦笑し、傍らで驚いている執事に声を掛けた。


「リュシーと私にもう一杯ずつ淹れて、終えたら席を外してくれ」

「畏まりました」


 旦那様の命令を受け、立ち直った執事が二人のティーカップに紅茶を注ぐ。紅茶を淹れ終えた執事は一礼して退室し、部屋には旦那様と私の二人だけが残された。


「…リュシー、君に招聘が来るだろうと言う話は、前に話したな」

「はい」


 旦那様とマリアンヌ様の許に御礼に伺った時、フランシーヌ様が私を聖女に推薦するという話を聞いていた。正直自分が聖女になるとは考えもしなかったが、この前の浄化を見れば否応にも理解してしまう。目の前に全く別の人生が開けてしまって心の整理がついていない私に、旦那様の気遣いが聞こえる。


「君の人生だ。最終的には、君が選択すべき事だ。…だが、君がどれかを選ぶ前に、私は君にもう一つ、選択肢を与えたい。




 ――― リュシー、私の家族になるつもりはないかい?」




「…え?」


 思いもよらない言葉に私は顔を上げ、目を見開いた。旦那様は穏やかな笑みを浮かべ、言葉を続ける。


「君は常にラシュレー家を第一に考え、行動してくれた。あの気難しいシリルを上手く乗りこなし、マリアンヌからも娘のように慕われている。私も今日の君との会話の中で、確信したよ。聖女になれば、身分も申し分ない。君が私の娘となって、シリルと共にラシュレー家を盛り立ててくれたら、これほど嬉しい事はない。どうか、真剣に考えてくれないか?」

「旦那様…」


 旦那様の突然の告白に私の心臓が大きく跳ね、鼓動が早まった。胸が高鳴り、体の中から歓喜の声が沸々(ふつふつ)と湧き上がる。


 嗚呼、旦那様…私、私…




 ――― あなたの()()になれるのですねっ!?




 旦那様のお考えに辿り着いた私は、その深慮遠謀に感激した。そして自分の身を捧げる場所をついに見つけ、歓びに打ち震える。


 そうだよ!私がラシュレー家の養女になったら、政略結婚の上で物凄いキラーカードになれるじゃない!ちょっと(とう)が立ってるけど、公爵令嬢でしかも聖女だよ!?他国の王家は勿論、帝室にだって捻じ込める!旦那様からすれば血の繋がりはないから情に流されず容赦なく送り込めるし、私は旦那様を「お義父(とう)様」って呼べるし、まさにWin-Win。欲を言えば旦那様の娘じゃなくて妻か妾になりたいところだけど、それは流石にマリアンヌ様に申し訳ないし、この辺が落としどころよね。


 あ、いや、待てよ?まだ「生贄」って目もあるのかっ!聖女でしかも処女だもん。旨そうな生贄だって邪神がパクっと平らげたら実は中身聖女で、対消滅(ついしょうめつ)の末、双方爆発する。ホウ酸団子も真っ青の、対邪神最終兵器だ。うわ、やべ、これは意地でも純潔を守らないと。


 自分の純潔から広がる無限の可能性に私が心躍らせていると、旦那様が咳払いし、言葉を濁した。


「…あ、いや、これは少し言い過ぎたな。幾ら私が先走っても、シリルが自分の口から言わないと意味がないな」

「え…?坊ちゃんの口からですか?」

「それはそうだろう。君だって、その方が嬉しくないかい?」

「勿論ですよ!」


 旦那様の指摘に、私は心から同意する。


 あの気難しい坊ちゃんの事だ。毎日のように小言を言ってくる私が、いきなり「お義姉(ねえ)ちゃん」になると知ったら、絶対に好い顔しない。私だって幾ら政略の駒とは言え喜んで迎えて欲しいし、仲良くなければ嫁ぎ先から坊ちゃんを支援する事もできない。私はテーブルから身を乗り出し、目をキラッキラさせて熱弁を振るった。


「旦那様、お任せ下さい!私がそれとなく話を振って、坊ちゃんの口から言わせるように誘導します!」

「大丈夫なのかい?当人から催促されては、アイツも流石に口を割らないだろう?」

「そんな事ないですよ!私は坊ちゃんの事なら、他の誰よりも分かっていますから!」


 拳を振って決意表明する私の姿を見て、旦那様が相好を崩す。


「…それは頼もしいな。なら、君に任せてみよう。シリルの事、よろしく頼むよ?」

「はい!」


 あぁ、もう今日から「お義父様」ってお呼びしたい。うん、これからは脳内でお義父様と呼ぼう!まずは一刻も早く聖女にならないと。


 人生の最終目標を見つけた私は意気軒昂としながらお義父様との茶会を終え、上機嫌で坊ちゃんの許へと向かった。




 ***


 リュシーが上機嫌で部屋を辞し、後にはオーギュストだけが残された。彼は去り際にリュシーが見せたスキップ混じりの足取りを思い出して、安堵する。


「…やれやれ。これで二人が結婚すれば、ようやく一つ、肩の荷が下りる」


 ラシュレー家からすれば、たった一人しかいない直系の男子が一向に嫁取りに興味を覚えないのは、死活問題だ。コルネイユ侯爵に嫁いだ妹のロクサーヌが4人も男子を産んでいるので、最悪そこから養子を取るという手もあるが、あくまで最終手段と言える。結婚した後もいつ息子が生まれるかと悩みの種は尽きないが、少なくとも課題解決に向けて一歩前進する。シリルが成人して以降、3年も進展のなかった問題にようやく解決の目途が立ち、オーギュストは一息ついた。


 だから、彼は知らない。リュシーとの間に、未だ致命的なボタンの掛け違いが存在する事を。




 ***


「んふふふふふ。坊ちゃん。新しい家族、欲しくないですかぁ?」

「な、何だよ、その言い方。気持ち悪いなぁ…」

「欲しければぁ…、これからは私の事を『お義姉(ねえ)ちゃん』って呼んで下さい!」

「絶対ぇ呼ばねぇっ!」

「何でぇぇぇぇぇぇぇ!?」

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