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17:快癒

 シリルが気を失ったリュシーを抱えて出て行き、貴賓室にはオーギュスト、マリアンヌ、フランシーヌの三人が残された。三人はシリルの出て行った扉を暫く眺めていたが、やがてオーギュストが溜息をつき、椅子に腰を下ろす。


「…よりにもよって、黒衣の未亡人(ブラック・ウィドウ)とは。道理で誰も浄化できないわけだ…」


 ラシュレー家は西方の強国と対峙している手前、強大な軍を抱えており、それに伴い医療体制も充実している。にも拘らず、軍属の治癒師はおろか領都サン=スクレーヌにある教会の神官でさえ、リュシーの瘴気を前に手も足も出なかった。その理由がようやく判明し合点がいったわけだが、オーギュストの顔は晴れない。浮かない顔のオーギュストに、フランシーヌが声を掛けた。


「…オーギュスト様。此度のサン=スクレーヌの訪問ですが、申し訳ありません。予定を全てキャンセルさせて下さい。明日、此処を出立いたします」

「やはり、そうなりますか…」

「ええ」


 不承不承の態で頭を掻くオーギュストに、フランシーヌが瞳に決意の光を湛え、言い切る。


「リュシーさんがどうお考えになられるかに関わらず、事はすでに帝国の未来を左右するほどの問題に発展しております。大陸北部の『(あな)』から押し寄せるアンデッドとの戦いは苛烈を極めており、帝国は防戦一方で、押し返す事ができておりません。特にここ10年はカサンドラ姉様が北部全域を駆けずり回って孤軍奮闘している有様で、先日やっと深窓の令嬢(ブルー・ブラッド)の討伐に成功したばかり。姉様の次代を含め、将来の展望が全く描けておりませんでした。

 である以上、帝国は、リュシーさんの持つ聖女の力を見過ごすわけには、参りません。特にカサンドラ姉様は、狂喜される事でしょう。10年間たった一人で帝国の未来という重荷を抱え続け、つい先日まで成果をあげられずに苦しんでいたところに、突然黒衣の未亡人(ブラック・ウィドウ)を倒すほどの頼もしい味方が現れたのですから。私も同じ聖女でありながら姉様の苦労を分かち合う事ができず、忸怩たる思いを募らせておりましたから、この事実を黙っているわけには参りません」

「…」


 沈黙するオーギュストに対し、フランシーヌは錫杖を胸に抱え、切実な面持ちで訴える。


「私はすぐさま帝都へと戻り、陛下と大聖堂に報告します。リュシーさんにはおそらく、後日帝都への招聘が来るでしょう。まずは聖女候補として大聖堂での審判が行われ、その後陛下と教会の共同声明の下、聖女として認定される事になります」

「…彼女は、商人の父母を持つ、平民出のしがない侍女でしかありません。しかも、日に一度は寝込むほどの病弱な。何より彼女は、当家に尽くしてくれた大切な家人です。例え帝国の将来が対価であろうと、彼女の人生を蔑ろにする事は、当家は断じて認めない!…そう、お伝えいただきたい」

「承りました。このフランシーヌ・メルセンヌ、聖女の名に賭け、終生彼女の味方になる事を誓いましょう」


 オーギュストの強い言葉にフランシーヌは瞑想し、錫杖を左手に抱えたまま右手で印を切って宣誓すると、静かに頭を下げた。




「…あなた」


 フランシーヌとの会談を終えた二人が貴賓室を出て自室へと戻る途中、マリアンヌがオーギュストに声を掛けた。マリアンヌの言葉は続かなかったが、彼女の危惧はオーギュストもわかっている。彼はマリアンヌと肩を並べ、前を見ながら、静かに呟いた。


「…これを聞いたシリルがどう動くか、だな…」




 ***


 リュシーを横抱きに抱え上げたシリルは、オーギュスト達の声を待たずして貴賓室を出ると、お馴染みの客室へと向かった。部屋に入るとメイドも呼ばずに鍵をかけ、リュシーの身をベッドへと下ろす。リュシーの身を包むワンピースは大きく乱れ、襟元から右肩にかけてはだけており、そこから顔を出した白い肌には滝のような汗が幾筋も流れ、受け皿となった生地をぐっしょりと濡らしている。だが、リュシーの寝顔は穏やかで、日々の熱痛にうなされるような様子は見られなかった。


「すぅ…すぅ…」

「…」


 シリルは彼女が刻む規則正しい寝息を確認した後、ハンカチを取り出し、彼女の額に浮かんでいる玉のような汗を拭って行く。続けて首筋から右肩にかけ、布地に沿って汗を拭き取った。


 ハンカチを仕舞ったシリルは剥き出しの右肩に目を向け、やがて躊躇いがちに手を伸ばし、首元に中指と薬指を軽く添えた。首元から鎖骨の下を通って右肩にかけ、半円状にゆっくりとなぞり、何の異常もない事を指先で確認していく。右肩まで確認を終えると左手を伸ばし、右の襟を掴んで右肩を隠し、襟元を整えて一つ一つボタンを留める。


 全てのボタンを留め終えた後も、シリルは暫くの間ベッドの上に身を乗り出し、リュシーの寝顔を見つめていた。やがてシリルは静かに顔を寄せ、彼女の額に唇を落とす。


「…おやすみ」


 頭を上げたシリルはもう一度リュシーの寝顔を目に納めると、身を翻し部屋を出て行った。




 自分の執務室に戻ったシリルは、すぐにオーギュストに呼び出された。父母の部屋へと赴いたシリルは、オーギュストから、先ほどのフランシーヌとの会話を知らされる。


「…というわけだ。後日リュシーは帝都に招聘され、ほぼ確実に聖女の認定を受けるだろう。そうなれば、カサンドラ様に匹敵するほどの浄化力を持つリュシーの事だ、おそらく北部戦線へと送られる事になる。サン=スクレーヌには、何年も戻って来れないだろうな。…シリル、どうするつもりだ?」


 オーギュストに問われたシリルは、父親を睨みつけた。爪が食い込むほど両手を握りしめ、口を真一文字に閉ざしたまま、視線に殺意を乗せオーギュストへと向ける。


「…俺は、可能な限り、アイツの意志を尊重する」


 やがてシリルは視線を外し、床に向かってポツリと呟いた。そして身を翻して扉へと向かうと、取っ手に手を掛けたまま背中越しに宣言する。


「…だが、アイツは俺のものだ。俺の許からアイツを引き離そうとする者は、例え皇帝であろうとも、赦さない」


 そう宣言したシリルは、オーギュストの言葉を待たずして、部屋を出て行ってしまう。部屋に取り残されたオーギュスト達は、立ちはだかる扉を前にして、溜息をつく他になかった。




 ***


「…あれぇ?何で私、此処で寝てんだ?」


 寝ぼけ眼で周囲を見渡した私は、記憶との乖離を覚えて思わず呟いた。此処は、いつも私が仕事中に熱痛で倒れた時に運び込まれる客室。私、今日、何処で倒れたんだっけ?私はベッドの上に身を起こし、いつもより混濁している記憶の整理を始める。


 えぇと、今日の予定は何だっけ…?確か聖女様が来る予定で…旦那様に呼ばれて、フランシーヌ様にお会いして…っ!?


 記憶が繋がった私は慌てて下を向き、ワンピースのボタンに左手を掛けた。左手一本で一つ一つもどかし気に胸元までボタンを外し、右襟に左親指を引っ掛けて勢いよく押し出す。右肩へと目を向けると、いつも視界の隅に映り込む二つの黒い痣が見当たらない。鏡。鏡、何処かにない?私は右肩をはだけさせたまま部屋の中を見回すと、隅に置かれたドレッサーの前へと飛び出し、鏡を覗き込んだ。


「…痣がない…」


 鏡に映った私の右肩は白い肌に覆われていた。これまで首筋から右肩にかけて半円状に取り囲んでいた、黒い歯型の痣は、影も形も見当たらない。私は鏡の前で右肩を突き出し、背中側の痣も消えているのを確認すると、左手を突き上げて飛び上がった。


「…やったぁぁぁぁぁっ!傷が治ったぁぁぁぁぁっ!」


 部屋の中でぴょんぴょん飛び跳ねていた私は、気を落ち着けると大きく深呼吸をする。右肩に目を向け、覚悟を決めると、少しずつ右腕を上げていく。


 ごりゅごりゅごりゅ。


 ぐおぉぉぉぉ。この4年間、せいぜい日に一度しか動かしていなかったから、物凄い音がする。関節が気持ち悪い。しかも、腕が肩から上に行かない。だ、大丈夫かな、このまま動かして。また痛くなったりしないかな。私はおっかなびっくりで右腕を動かし、掌の開閉を繰り返す。やがて物凄い気持ち悪さや倦怠感が右肩に襲い掛かり、私は思わず右肩に左手を当てて呻いたが、いつも体を蝕んでいた耐え難い熱痛が襲って来る様子は見せなかった。私は右肩に手を当てたまま部屋を出て、足早に坊ちゃんの執務室へと向かった。扉の前に立ってノックする。


「誰だ?」

「リュシーです。入ります」


 坊ちゃんの命令で勝手に入って良いと言われている私は、坊ちゃんの返事も待たずに扉を開ける。坊ちゃんは執務席で書類作業をしていたようで、私の言葉に反応してちょうど席を立つところだった。私が機嫌良く部屋へと足を踏み入れると、坊ちゃんは心配そうな面持ちで歩み寄って来た。私は坊ちゃんを安心させたくて、満面の笑みを浮かべた。


「坊ちゃん、治りました!」

「…本当か?右手、ちゃんと動くのか?」

「はい!ほら、この通り。4年間動かしてなかったので、ごりゅごりゅ言ってますが」


 そう言いながら私は右手を前に出し、ゆっくりと掌を開閉させる。坊ちゃんは開閉を続ける私の右手を呆然と眺めていたが、やがて顔を上げ、恐る恐る尋ねてきた。


「…手、触っても好いか?」

「はいっ!坊ちゃん、握手しましょう!」


 私が右手を差し出すと、坊ちゃんも右手を差し出し、恐る恐る握って来る。私は左手も伸ばして坊ちゃんの右手を両手で包み込むと、ゆっくりと上下に動かした。


「ほらっ!坊ちゃん、私、両手で握手してますよ!?」

「…やった…」

「やりました!」

「やった」

「やりました!」

「やったあああああっ!」

「やりましたよぉぉぉぉっ!…あ痛ててて」

「あああああぁっ!?すまん!大丈夫かっ!?」

「だ、大丈夫です!」


 坊ちゃんも両手で握り返し、私達は子供のようにはしゃぎ声を上げ、両手を繋いで大きく上下に揺り動かし、部屋の中を踊り回った。あまりにも急激な動きに右腕が付いて行けず、私は思わず顔を顰める。坊ちゃんが慌てて手を離して心配そうに見るが、私は顔を顰めながらも笑みを浮かべ、手を振って答えた。


「坊ちゃん、旦那様とマリアンヌ様、それとフランシーヌ様に御礼が言いたいです!」

「分かった、親父にすぐ伝える。だが、フランシーヌ様は無理だ。実はついさっき、サン=スクレーヌを出立した」

「え?さっき来たばかりじゃないですか。確か1週間くらい此方(こちら)に滞在されるご予定ではなかったでしたっけ?」


 私はフランシーヌ様の急な帰還を耳にして、目を瞬かせた。私の反応に、坊ちゃんが呆れ顔を見せる。


「さっきじゃねぇよ、昨日だ。お前、丸一日寝てたんだぞ?」

「げ。…あ、ホントだ。汗臭い…」


 坊ちゃんの指摘に私は慌てて左腕を上げて鼻に寄せ、自分の体臭を確かめた。昨日の治療で相当汗をかいたようで、服の感触も心なしかゴワゴワする。こんな不潔な格好じゃ、恥ずかしくて旦那様の前に出られない。ただ、有難い事に、坊ちゃんは四六時中私の看病をしてくれているので、私の臭いに煩い事は言わない。


「…臭くなんかねぇよ、お前は」


 ほらね。坊ちゃんがそっぽを向き、ぶっきらぼうに答えてくれた。柄にもない事を言ったせいか、顔が赤くなっている。私は坊ちゃんの気遣いに感謝し、笑みを浮かべた。


「坊ちゃん、ありがとうございます!でも、ちょっと体を拭いて、着替えてきますね。少しお時間いただいても、好いですか?」

「ああ、行って来い」

「はい、行ってきます!」


 私は坊ちゃんに勢い良く頭を下げ、坊ちゃんの部屋を出る。せっかく旦那様の前に出るんだから、この間手に入れた香水、奮発しちゃおうかな。そんな事を考えながら、私は軽い足取りで自室へと向かって行った。

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