13:親の想い
「旦那様、マリアンヌ様、大変お騒がせいたしました。お陰様でようやく復調いたしました」
ここ数日続いていた微熱が下がり、やっと自由に動き回れるようになった私は、旦那様とマリアンヌ様の許を訪れ、深々と頭を下げた。とは言え、微熱が続いていた間も私は毎日坊ちゃんの執務室を訪れ、部屋に入って直ぐソファに横になっていたわけだけれども。別に特権濫用しているわけじゃなくて、坊ちゃんが執務室に居ろって命令するんだもの。もっとも私の部屋は私の壊滅的な家事能力のお陰で物が散乱し、部屋の空気も執務室の方が断然綺麗なので、そっちで寝ている方が体が楽だったりする。ソファに掛けられた仕立ての良いカバーはすでに私の毛布と化し、寒気がした時にはすぐにカバーを手に取り、簀巻きになって寝るのが定番だった。
ちなみに寝込んでいる間にジョエルがどうなったか聞いてみたけど、坊ちゃんは一言素っ気なく「辞めた」と言ったっきり、何も教えてくれなかった。まぁ、ラシュレー家への敵対行為とも取れる行動をしたわけなので、あまり良い結末は迎えていないと思う。
そんなこんなで私が自堕落な毎日を過ごしていたにも関わらず、旦那様もマリアンヌ様も何も言わず、私の体を気遣ってくれる。
「そうか、それは良かった。恐ろしい目に遭って、きっと体が驚いたのだろう。私達の事は気にせず、自分を労わりなさい」
「その通りよ、リュシー。あなたはまず、自分の体を大事にしなきゃ。私達は何よりもあなたの健康を待ち望んでいるの。今のあなたがすべき事は、傷を癒す事よ?治ったらあなたに存分に働いて貰うから、それまでは後の事を気にせず、私達を頼りなさいね?」
「ありがとうございます、旦那様、マリアンヌ様。一日も早くご期待に副えるよう、頑張ります」
あぁ、これはやはり、私を何かの生贄に捧げるおつもりだ。一刻も早く健康にならないと、これ以上待たせては薹が立って、私が純潔を捧げようとしても邪神様に受け入れていただけない。いや、邪神かどうかは聞いてないけど、悪い方で覚悟しておいた方がいざという時の心理的負担も軽いじゃない?
「右肩の調子は、どう?」
「動かそうと思えば、普通に動きます。ただ、その後必ず熱と痛みにうなされますけど」
「痣は減った?」
「多少は。けど、まだ歯形はくっきり残っています」
「早く肩も綺麗にしないとね」
「はい」
うん、やっぱり邪神だ。ワイトの食べ残しじゃぁ、誰も降臨してこないもんね。邪神様のためにも、穢れのない清い体に戻らないと。内心でガッツポーズを決め、決意を新たにする私に、マリアンヌ様の質問が続いた。
「シリルとは、仲良くやれてる?」
「え?…ええ、坊ちゃんにはとても良くしていただいています」
「部屋で二人の時は、いつも何をしてるの?」
「それがその…私、しょっちゅう体調を崩すものですから、坊ちゃんの前で横になったり…時には坊ちゃんにお水を飲ませていただいたり、とか…」
「変なコト、されない?」
「とんでもないっ!坊ちゃんは紳士ですし、分別の在る御方です。一時の迷いで道を誤るような事は、決して…っ!」
私は慌てて手を振り、マリアンヌ様の懸念を払拭する。坊ちゃんだって私が生贄になる事はご存知だろうし、下手に傷をつけて邪神様のお怒りを買っては元もこうもない。それに、ノエミとか、周囲に可愛いメイドが沢山居るんだから、その気になったら彼女達に手を出せばいいのだから。…あ。
「…そう言えば、起きたら襟元やスカートがはだけている事がよくあって…」
「え?」
「あっ!いえ、大丈夫です、マリアンヌ様!私は未だ清い体のままですから、ご安心を!」
「…………………」
「え?マリアンヌ様、何か仰られましたか?」
「うぅん、何でもないわ。リュシー、シリルに伝言を頼めるかしら?」
「はい、何と?」
「意地を張っていないで、とっとと手を出せ、と」
「畏まりました」
マリアンヌ様の伝言の依頼を受け、私は恭しく一礼する。私が四六時中傍に居るもんだから、坊ちゃんも羽目を外せないのだろう。だからと言って限界まで我慢した挙句、うっかり生贄に手を出してしまっては、元もこうもない。後で坊ちゃんには、私に遠慮せずメイド達に手を出すよう、言っておこう。
「…………………」
頭を上げると、マリアンヌ様がこめかみに手を当てて顔を顰め、何かを呟いている。胸中お察しいたします、マリアンヌ様。私はマリアンヌ様に心から同情しながら、旦那様達のお部屋を後にした。
***
「…どうやったら、4年も一緒に暮らしていながら、あそこまで意識がすれ違うのかしらね?見ている方は面白くて仕方ないけど、未だに手を出していないだなんて、ラシュレー家の跡取りとして大いに問題だわ」
リュシーが部屋を出て行った後、誰も居なくなった扉を眺めながら、マリアンヌが溜息をつく。シリルに関する定期報告という名で行われる、オーギュスト達とリュシーとの歓談はすでに4年目を迎えているが、その間一向に進展のない二人の関係に、マリアンヌは呆れていた。
片や帝国を代表する公爵家の嫡男、片や何の後ろ盾もない平民出の侍女。普通に考えれば、公爵家が二人の交際を認めるはずがない。だが意外な事に、マリアンヌはおろか当主オーギュストでさえ、この二人がいつになったらくっつくのか、やきもきしているのである。
勿論、根底には4年前の息子の命を救ってくれた事に対する感謝がある。あの時命を投げ打った20名の唯一の生き残りの忠義に、報いたいという想いもある。だが一番の理由は、シリルのリュシーに対する執念とも言えるこだわりと、リュシー自身が持つ、能力の高さにあった。
確かに侍女としてのリュシーは全くの役立たずで、騎士としての復帰も望めそうにない。だが、4年間の軍人生活が彼女の軍事に関する知見を広め、そこに亡父から受け継いだ商人としての才覚が加わった結果、彼女は軍政官としての才能を開花させていた。彼女の新たな才能を見い出したのはシリルで、3年前、オーギュストから初めて各駐屯地の越冬計画の立案を命ぜられたシリルが行き詰まった末、隣で寝込んでいたリュシーに尋ねたところ、熱にうなされながら的確なアドバイスを出した事に端を発する。以降、たびたびオーギュストが課す部隊編成や補給計画の立案は、まずシリルが叩き台を作り、それを元に隣で寝ているリュシーと二人で意見交換するという共同作業となって、結果、シリルのみならずリュシーまでがオーギュストの薫陶を受け、著しい成長を遂げる事になった。
また、シリルは4年前の「敗戦」を機に性格が変わって攻撃的になったが、息子を駻馬に仕立て上げたのはリュシーであり、しかも彼女はその駻馬を巧みに乗りこなした。オーギュスト達は自分達の息子が駻馬になった事について悲観しておらず、むしろ歓迎の意向を見せている。広大な領土を抱え、帝国の西方の防備を一手に担うラシュレー家の当主は、「自分の縄張りに踏み込んだ侵入者を噛み殺す」くらいの気概がなければ務まらない。「敗戦」以前のシリルはお坊ちゃんの側面があったため、この変貌はオーギュスト達に安心感を齎した。しかもリュシーのラシュレー家に対する忠誠心は折り紙付きで、マリアンヌとも馬が合う。
こういった点が高く評価され、リュシーはマリアンヌに歓迎された。出自の低さと虚弱体質は如何ともし難いので正妻とはいかないが、第2夫人としてなら安心してシリルを任せられる。シリルがリュシーに固執し他の女に見向きもしない以上、とっととこの二人をくっつけて、正妻はその後で考えよう。それが、嫁取り合戦において黒星街道まっしぐらのマリアンヌが匙と共に出した結論だった。
マリアンヌの愚痴めいた感想に、オーギュストは苦笑し、扉に目を向けながら昔を懐かしむ。
「…リュシーを見ていると、あの人を思い出す。周りに流されず、自分の信じる道へと進む様は、あの人に瓜二つだ…」
「…珍しいわね、あなたがその話をするだなんて…」
オーギュストの呟きを聞いたマリアンヌが目を瞠り、夫に枝垂れかかって催促する。
「私、その話、未だにちゃんと聞いた事ないわよ?そろそろ教えて下さっても、好いんじゃない?」
「そうだったかな?」
マリアンヌの言葉にオーギュストは惚けたように答え、妻のむくれ顔を見て楽しむ。やがて彼は目を閉じ、妻の顎を肩に乗せたまま静かに語り出した。
「…あれは、私が15の時だった。成人を迎え初めて前線へと出た私は、戦功に逸るあまり味方から突出し、敵に包囲された。供回りの騎士達が自らを犠牲にして必死に私を守ってくれたが、私も深手を負い、死を覚悟した。
…だが、その時あの人達が包囲網を破って、私と騎士達を救ってくれたのだ」
オーギュストの瞼の裏に、あの時の光景が浮かび上がる。橙色に染まる夕焼けの空の下に白い光の帯が燦々と降り注ぎ、オーギュストの傷がみるみるうちに回復する。彼女の仲間達が敵陣に飛び込み縦横無尽に蹴散らしていく中、オーギュストは、西日を背に受け橙色に輝く彼女の姿に魅入っていた。彼女は銀色に輝く短剣を手にし、呆けたように見つめる彼の心に言葉を刻み込んだ。
『…オーギュスト様、ご自身の立場を決して忘れないで下さい。一人を救うのは、私達でもできます。ですが、万人を救うのは、オーギュスト様、あなたにしかできません。この広大な領土に住む人々に救いの手を差し伸べられるのは、ラシュレー家の次期当主たる、あなたにしかできません。あなたは、一人に手を差し伸べるのではなく、万人に手を差し伸べて下さい…』
「…彼女は優れたハンターで、彼女が所属するチームは、当時帝国で唯一のS級ハンターとして名を馳せていた。今の私は、あの人が作ったと言っても過言ではない。私は彼女に命を救われただけでなく、ラシュレー家の取るべき姿勢を学び、自分が為すべき事を教えられた。以降、私は彼女の教えに恥じない姿勢を貫き、帝国と領民達に尽くしてきたつもりだ。
戦いが終わった後、私は彼女達にラシュレー家の食客として留まって欲しいと頼んだが、彼女達は笑いながら断った。そして、皇帝陛下の求めに応じて不死王との戦いに臨み…そのまま、帰って来なかった」
「…その彼女の形見が、リュシーの持つ、あの短剣なのね?」
マリアンヌの質問に、オーギュストが頷く。
「初めて会った時、すぐに分かった。リュシーは、あの人の孫だと。あの人と、早逝した夫との間には息子が居て、親類に引き取られていた。成長した彼は母とは異なる商人の道を選び、妻を得てリュシーを生み…そして、私の前で死んでいった…。あの人は間に合ったのに、私は間に合わなかった…」
オーギュストは自分の肩に置かれた妻の手に自分の手を重ね、前を向く。
「…ラシュレー家は、親子二代に渡って借りがある。二代続けて同じ一族の女性に命を救われ、貴族の何たるかを教えられた。…当家は、忘恩の家ではない。この借りは、必ず返す」
オーギュストの呟きとともに、マリアンヌの手を握る彼の手に力が入った。
「…あの娘のずば抜けた身体能力の高さは、お祖母様譲りだったのね。それもS級ハンターとは、驚いたわ。きっと、あなたやあの娘の剣技を超える、素晴らしい剣士だったでしょうに…」
オーギュストの話を聞いたマリアンヌは、納得した面持ちで息を吐く。右肩に傷を負い、すでに全盛期の力を発揮できないリュシーだが、それでも短時間であれば並み居る男達を相手に左手一本で渡り合えるだけの実力を残している。その、衰えてなお驚異的な力の源に合点が行ったマリアンヌが一人で頷いていると、オーギュストが振り返った。
「いや、違うぞ?」
「…え?」
「あの人は、剣士ではなかった。――― 治癒師だ」
***
「…坊ちゃん、マリアンヌ様からご伝言を預かっています」
「お袋、何て言ってた?」
「意地を張っていないで、とっととノエミに手を出せ、と」
「えっ!?ちょっと待て!何でそうなる!?」




