12:報復
「まさか、失敗するとはな…」
サン=スクレーヌを出立し、自領へと戻る馬車の中で、ベルナール・ド・ボードレールは無念そうに零した。
侍女一人始末するなど、屋敷の外に連れ出せさえすれば簡単なはず。2年近くジョエルから寄せられた情報から見ても標的が病弱なのは明らかで、そんな女が10人もの男に囲まれて無事でいられるわけがない。ジョエルから標的を無事に連れ出せたとの報告を受け、ベルナールはそう高を括っていたが、標的はあっさりと生還した。しかも嫡男であるシリルに抱きかかえられ、直々に部屋へと連れ込まれるほどの厚遇ぶりで。計画の失敗とシリルの侍女に対する執心を目の当たりにしたベルナールは早々に退散する事を決め、当主オーギュストに侍女の無事を祝う言葉を贈ると、サビーナを連れ、館を辞した。ベルナールは内心の蟠りを振り払い踏ん切りをつけると、向かいの席で俯いたままのサビーナに声を掛けた。
「サビーナ、彼は無理だ。戻ったら約束通り、私が持ってくる縁談に応じて貰うぞ?」
「…お願いです、お父様。もう一度、もう一度だけ…」
「いい加減にしないか、サビーナ」
両手をきつく握り締め、青い顔で震え声を上げるサビーナを、ベルナールが叱り付ける。
「お前もすでに19歳だ。帝都一の美姫との呼び声の高いお前でも、これ以上縁談を引き延ばせば、足元を見られる。この2年間、お前は幾度もシリル殿の許に赴いているのにも関わらず、結局彼は一度もお前になびかなかった。特に今回は、私もお前の事を想って、相当危ない橋を渡ったのだぞ?確かにお前ほどの美貌があればラシュレー家への輿入れも夢ではないと私も思っていたが、どうやら分が過ぎたようだ。彼の領内でアレだけの騒ぎを起こして、足が付かなかっただけ、良かったと思え」
「うぅぅ…シリル様…」
ベルナールの言葉を聞いたサビーナの目に涙が溢れ、やがて彼女は両手で顔を覆い泣き出してしまう。顔を伏せたまま侍女に宥められるサビーナの姿に、ベルナールは同情の目を向けると、車窓へと転じた。
自領に戻ったベルナールはサン=スクレーヌの様子を窺おうとしたが、指令役の男が死亡した事もあり、ジョエルとの連絡が取れなかった。ただ、ボードレール家に対するラシュレー家の動きもなく、ベルナールは安堵し、当分の間ラシュレー家には手を出さず大人しくする事を決める。
…だが、その平穏は、僅か1ヶ月で破られた。
***
「旦那様、大変です!帝都の邸宅が憲兵団の捜索を受け、エドワール様が拘禁されました!」
「何だと!?息子が!?」
執事が齎した凶報に、ベルナールは文字通り飛び上がった。ベルナールは泡を食って、執事へと詰め寄る。
「罪状は!?」
「そ、それが…ケクラン男爵令嬢への暴行容疑で…」
「ケクランだとっ!?あの家は件の娘が自殺して当主は廃人となり、すでに我々の言いなりだ!何故その件が露見したっ!?」
執事の言葉にベルナールは目を剥き、髪の毛を掻きむしって地団駄を踏む。
「クソ、誰かが嗅ぎつけ、暴き立てたなっ!?」
「旦那様、それだけではありません。それ以上に深刻な事態が…」
「何があった!?」
執事の不吉な言葉に、ベルナールの真っ赤な顔が一瞬で蒼白になった。
「…ケクラン男爵家は取り潰され、領地は没収。同時にラリーマの鎮薬が禁制品に指定され、一般の取引は禁止。必需品の流通は全て国の管理下に置かれる、との皇帝令が発布されました」
ラリーマの鎮薬。ここ数年、帝国の医療現場で急速に普及した鎮薬で、値は張るものの鎮痛、鎮静効果に優れている。その一方、過度の摂取で他幸感が得られる依存性の高い麻薬としても知られ、近年貴族の子弟の間で嗜好品として広まり、数々の暴行事件や死亡事故が裏で揉み消されていた。ベルナールの長子エドワールの暴行事件にも、ラリーマの鎮薬が使われている。だが、ベルナールが青くなったのは、そこではない。
「…馬鹿な!?ラリーマの鎮薬は、当家の稼ぎ頭だぞ!禁制品に指定されては、資金源が断たれる!」
鎮薬の材料でもあるラリーマの魔草は農牧に適さない特殊な土壌にしか生えず、生息域のほとんどがケクラン領にあった。ラリーマの魔草も元々毒草として知られ、毒草の生える、生産力の低い土地を領土とするケクラン男爵家は収入が乏しく、破産寸前だった。ケクラン男爵夫人がラリーマ中毒となって廃人と化し、男爵自身も寝たきりとなっており、男爵家の一人娘が己の婚期さえも顧みず、領民と共に試行錯誤を繰り返して鎮薬の開発を進めていた。
その情報を嗅ぎつけ、ケクラン男爵に融資の話を持ち掛けたのが、領地の隣接するボードレール伯爵家当主、ベルナールである。ベルナールは、ラリーマの魔草の幻惑効果がいずれ莫大な利益を生み出すであろう事を見越して、ケクラン領の取り込みを図る。ベルナールは家格が上であるにも関わらずケクラン男爵の許に足繁く通い、融資と引き換えに男爵家が持つラリーマの魔草の群生地の採掘権を得る。同時に息子のエドワードに、行きずりの暴行事件を装ってケクラン男爵令嬢を襲わせて他家との婚姻を阻み、いずれエドワードの妾として引き取る事で、ボードレール家の血を入れる事を画策する。暴行を受けた男爵令嬢が自殺し、ショックで男爵自身も廃人となった事は想定外だったが、男爵家の家人の取り込みは済んでおり、後継者の居なくなったケクラン家にボードレール家係累の者を養子縁組させる事で、乗っ取りを進めているところだった。
一方、完成したラリーマの鎮薬はベルナールの目論見通り急速に医療現場に普及し、ボードレール伯爵家は僅か数年で鎮薬市場を事実上独占し、莫大な利益を上げるまでになっていた。この資金と依存性の高い麻薬が、ボードレール伯爵家の中央に対する目覚ましい影響力を後押ししていたのである。
だが、その資金源と供給源が、突然断たれた。すでに皇帝自ら発布しており、覆す事もできない。顔面蒼白になり、頭を抱えるベルナールの許へ、別の執事が駄目押しとも言える新たな凶報を持ち込んできた。
「…司法大臣から、旦那様に対し、エドワール様の暴行事件に関する出頭要請が来ております」
「…サビーナ、お前の輿入れ先が決まった。お前は、カスタニエ侯爵家当主、ブレソール殿の許へ嫁げ」
1週間後、帝都から戻って来たベルナールの言葉に、サビーナは耳を疑った。
「え?…あの、お父様…現当主様であられますか?ご子息様ではなくて?」
「ああ。お前を後妻に、との事だ」
無念の表情を滲ませるベルナールの答えに、サビーナは色を失い、ベルナールの足元に跪いて彼の手を取ると、必死に懇願する。
「お父様、お願いです!お断りして下さい!ブレソール様は、すでに齢60に近いではございませんか!ご子息様も30歳を越え、すでにお孫様も何人かいらっしゃったはず!ご子息様の第2夫人ならともかく、現当主様の後妻では当家に何の益もありません!何より私は、お父様よりも年上の方の許に嫁ぐのは嫌です!」
「駄目だ!お前はブレソール殿の許に嫁がねばならない!」
娘の必死の嘆願を、ベルナールは喚くように拒む。
「でなければ、ボードレール家は、取り潰される!」
「…何故?」
ベルナールの口から飛び出た予想外の言葉に、サビーナは床に膝をついたまま、呆然とする。ベルナールは娘の手を振り切り、両手を固く握り締めた。
「…エドワールの暴行事件と、押収された大量の鎮薬、貴族社会に広がりつつある麻薬中毒問題が結びつけられ、歪められた。これらは全て帝国を転覆しようとする当家の陰謀との疑念が生まれ、帝都の邸宅に捜査のメスが入っている。これらの事件が無関係な個々の事案なのか、それとも当家の陰謀によるものか、その判断を下すのが、…司法大臣、ブレソール・ド・カスタニエ侯爵だ」
「そ、そんな…」
ベルナールの説明を聞き、サビーナは力なく床に座り込んだ。己の体を抱き締め、俯いて体を震わせるサビーナに、ベルナールが憐みの目を向ける。
「…エドワールが、ケクラン男爵令嬢の暴行事件をきっかけに貴族籍を剥奪された。当家とも縁を切り、後継者ではなくなる」
「…え、お兄様が?そ、それでは、ボードレール家は誰が継ぐのですか?」
「――― お前と、ブレソール殿の子供だ」
「…あぁぁ…」
「…この縁談を断れば当家は取り潰され、お前は身分を剥奪された上で、結局はブレソール殿の手に落ちるだろう。すでにお前の選択肢はない。…サビーナ、命令だ。ブレソール・ド・カスタニエ侯爵の許へ嫁け」
「…ぁ…ぁ…ぁあぁあああぁぁあぁぁぁっ!」
ベルナールの非情な言葉にサビーナは床に頭をつけて泣き喚き、その日ボードレール伯爵の館には、サビーナの嗚咽の声がいつまでも漂っていた。
***
「ロクサーヌ、カスタニエ侯爵から御礼状が届いたよ。ケクラン男爵の件、教えてくれてありがとうって。義兄上にもよしなに、だってさ」
「あら、良かったわ、レイモン。綱紀引き締めは図れるし、カスタニエ侯爵に貸しも作れたし、私はお兄様にお褒めいただけるし、三方良しじゃない?」
「私も姉上に喜んでいただけるから、四方良しだよ!あははははっ!」
「それもそうね!おほほほほっ!」
帝都に構える豪邸の一室にてカスタニエ侯爵からの手紙を片手に上機嫌で笑う、一組の男女。この帝国の宰相、レイモン・ド・コルネイユ侯爵と、その奥方ロクサーヌである。
実はこの二人、夫婦というより、ある意味、共通の「戦友」だったりする。…ともに重度のシスコンとブラコンで、互いの兄姉夫婦でもあるラシュレー公爵夫妻の強力なシンパだった。
元々、オーギュスト・ド・ラシュレーとマリアンヌ・ド・コルネイユの婚約が決まった時、弟妹たるレイモンとロクサーヌは、己の兄姉の素晴らしさを滔々と語り合って意気投合。そのまま自分達も婚約してしまったという経緯がある。おかげで帝国西方の雄たるラシュレー公爵家と、幾人もの宰相を輩出し中央に強い影響力を持つコルネイユ侯爵家は、二組の絆によってこれでもかというくらいにがっちりと結びついて盤石と化しており、ボードレール伯爵家の入る隙間など何処にもない。それどころかラシュレー家から届いた手紙に書かれた、互いの兄姉からの直々の依頼を見た二人は発奮し、嬉々としてボードレール家を陥れるべく動いた。
ロクサーヌは、ケクラン男爵令嬢の鎮薬開発に協力し、密かに恋仲でもあった平民の薬師の潜伏先を割り出して接触。情報の裏付けを図り、事件の告発を陰で支援する。一方レイモンは、ケクラン家の取り潰しとラリーマの麻薬中毒への対策の必要性を皇帝に訴え、皇帝令の発布を取り付けてボードレール家の資金源を断つと共に、平民の薬師を鎮薬生産の責任者に推挙する。その上でボードレール家の息女サビーナを手に入れようと画策していたカスタニエ侯爵に情報を流し、摘発を後押しした次第だった。達成感に満たされたレイモンが、酒杯を片手に赤い顔で感嘆した。
「…しかし、流石は愛しの姉上。愛息にたかる羽虫を一撃で仕留め、しかもあの令嬢が最も望まない婚姻を手土産に司法大臣に貸しを作ってくるとは。相変わらずの容赦の無さに、惚れ惚れしてしまうな!」
「あら、私の最愛のお兄様も素敵よ。私憤と捉えず、ちゃんと御国の事を考え綱紀を質した上で、戦場に必須のラリーマの鎮薬はしっかり官制下に置いて安定供給を図っているんですもの。何て思慮深いのかしら!」
「うむ!我々の姉上は最高だ!」
「ええ!私達のお兄様は最高よ!」
「あははははっ!」
「おほほほほっ!」
***
こうして公爵家はおろか、宰相と司法大臣をも動かし、果ては皇帝まで巻き込んで帝国の勢力図を塗り替え政策の一大転換を図るきっかけを作った本人と言えば…
「…お前、また熱出したのか?」
「…うーん、うーん…」
…今日も役立たずの侍女として、仕えるべき主人の部屋で寝込んでいる。




