最終話:役立たずの公爵夫人
「カサンドラ様、ヴァレリー様。遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
乙女の月の26日。リアンジュからはるばる1ヶ月近い道のりを経て、カサンドラ様がサン=スクレーヌへと到着した。
同行者は、ヴァレリー様とお二方のご長男であるクロード様、そして護衛の騎士が20名ほど。セヴラン様は、北部戦線の守りに残られている。出迎えた私は、カサンドラ様の腕の中でしきりに手を伸ばす赤ん坊を覗き込んだ。
「大きくなりましたねぇ、クロード様。今、お幾つですか?」
「1歳と3ヶ月を迎えたところよ。ねぇ、クロード?」
「マンマ、マンマ」
「わぁ!?もう、喋れるんですね!?」
予想以上に歯切れの良い言葉に、私はきゃぁきゃぁとはしゃぎながら小さな手を摘まみ、クロード様との再会を喜ぶ。やがてカサンドラ様がヴァレリー様にクロード様を預け、旅装を解きながら大きな溜息をついた。
「ふぅ…」
「長旅でお疲れになられましたか?浮かない顔ですけど…」
心配になった私が尋ねると、カサンドラ様はチラと私に目を向け、ボヤキを入れる。
「こんな事を言ったら、我が儘だと思われるでしょうけど…アンデッドが全く来なくなったのよ…」
「…え?それは、喜ばしい事ではないですか?」
カサンドラ様の答えを聞いた私は目を瞬かせ、思わず聞き直した。カサンドラ様はもう一度小さな溜息をつくと、言葉を続ける。
「…えぇ。それ自体はとても喜ばしい事よ。リアンジュに戻った直後くらいは、まだ残党と言うべきかしらね、幾ばくかのアンデッドの襲来はあったわ。だけど、ある日を境にぱったりと来なくなって、今では北部戦線全域を見回しても、数日に一度、レイスが単体で来るどうか。北部戦線全域が開店休業状態ね。
――― つまり、この状態が一時的なものでなければ北部戦線を構成する必要はなくなり、2万名にも上る兵士達とその後背が、一斉に職を失うというわけ」
「…あぁ、それは何と言うか…」
カサンドラ様の告白を聞いた私は二の句が継げず、言い淀んでしまう。カサンドラ様は、解いた旅装をラシュレー家の家人に手渡しながら、自分も心外だと言わんばかりの表情で答えた。
「言っている私も、何て贅沢な悩みだと思うわよ?でも実際問題、それで食い繋いで来た人々にとっては死活問題なわけだし、次男三男と言った、家業を継げない平民達の受け皿になっていたのも事実よ。
勿論、すぐに解体するような事はないでしょうね。一度この体制を崩したら、再構築するのは容易な事ではないし。数年かけて『孔』の周辺の探索を繰り返し、邪龍が再び息を吹き返さないか、念入りに確認する必要があるわ。だけど、その間も少しずつ人員整理をして規模を縮小していき、いずれ近い将来、重要拠点を除き、北部戦線は消滅する事になるでしょうね…」
「その分軍事費が浮くわけですから、北部の開拓や帰農に費やすべきではないですか?」
「そうね。私も北部に張り付く必要がなくなるから、国内巡業に戻る事になるかな?たまにはフランシーヌと一緒に回ろうかしら…」
「その事なんですけどね。フランシーヌ様、どうやら懐妊されたようですよ?」
「えっ!?そうなのっ!?」
淡々と話を続けていたカサンドラ様が、私の一言を聞いた途端、勢い良く振り返った。揚げパンから出て来た紙片を差し出すと、カサンドラ様は秀麗な眉を顰め、唇を歪める。
「…コレ、何処から出て来たの?」
「揚げパン」
「まったくもう。あの娘ったら、相変わらずしょうもない…」
どうやらカサンドラ様も、過去に同じような目に遭ったらしい。こめかみに指を当て暫く顔を顰めていたカサンドラ様は、やがて顔を上げると、腕まくりの姿勢で肩を回し始めた。
「…となると、あの娘はもう後宮から出られないわね。仕方ない、私が一人で頑張るかっ!」
「すみません。私が全くお役に立てず…」
「好いわよ、リュシーさん。あなたはもう十分過ぎるほど働いたんだから」
「総労働時間で言えば、カサンドラ様の足元にも及ばないんですけどね…」
破壊と滅却にしか能のない私が頭を下げると、カサンドラ様の眉が下がり、何とも言いようのない笑みが浮かぶ。直後、その笑顔が晴れやかなものに変わり、彼女はすれ違いざまに私の肩を叩きながら、唄うように答えた。
「…ま、何はともあれ、リュシーさん、ご結婚おめでとうっ!末永くお幸せにねっ!」
***
「お義姉様、この度は御結婚、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、エヴリーヌ様。南方のエルランジェ領からの長旅、さぞお疲れでございましょう。ごゆるりとお寛ぎ下さい」
乙女の月の28日。結婚式の前々日に、エルランジェ公爵御一家がサン=スクレーヌに到着した。御当主であるカジミール様への挨拶を終えた私がエヴリーヌ様へと振り返ると、彼女は恭しくカーテシーを披露した後、満面の笑みを浮かべ、私に向かって両手を広げる。私は微笑みを浮かべながら腰を屈めて可愛らしい姫君を抱き寄せ、互いに相手の頬に唇を添えた。エヴリーヌ様が私の首に腕を回し、耳元で囁く。
「お義姉様の花嫁姿が見られると思うあまり、私、ここ最近はドキドキして寝付けませんでしたの。馬車の中から様子を見ましたけれども、街を挙げてのお祝いムードで、こんな華やかな婚儀は生まれて初めてですわ」
「エヴリーヌ様もそう思われます?私も、いくらラシュレー家とは言え、第2夫人の婚儀がこんなに華やかになっては、後々のエヴリーヌ様の御成婚がとんでもない事になるではないかと危惧しているのですが…」
エヴリーヌ様の率直な感想に、私は結婚式が近づくに連れて心の中に湧き上がるようになった懸念を、口にする。
サン=スクレーヌの街路沿いの建物には赤と白の旗がずらりと掲げられ、この日のために沿道に植えられていたコスモスやダリアが一斉に花開き、ハヤテ様が獣王国から持ち込んだ菊の花も満開になっている。領内から参集された騎士達の鎧もピカピカに磨き上げられ、軍馬諸共鮮やかな色の布で飾り立てられている。帝国宰相、魔王国王太子、獣王国王太女を筆頭に、高位貴族が連日のように訪れ、その賑わいはまるで帝都オストリアの宮殿を思わせるほど。
いくら帝室に次ぐ権勢を誇るラシュレー家嫡男の結婚式とは言え、第2夫人の婚儀を此処まで派手に行っては、「ラシュレーの女」として財政面や後のエヴリーヌ様との御成婚の事を考えると、不安になってしまう。
そう私が零すと、エヴリーヌ様が緑玉石の目を瞬かせた。
「…お義姉様、何か勘違いされていらっしゃいません?――― お義姉様が、正妻ですよ?」
「へ?…あ、あの、エヴリーヌ様。私はしがない平民出の女で、帝室の血を引くエヴリーヌ様を差し置いて正妻になれるわけが…」
エヴリーヌ様が齎した答えに私はしどろもどろになりながら、背後に佇むマリアンヌ様へと振り返った。私と視線が合った途端、マリアンヌ様は扇子で口元を隠し、盛大な溜息をつく。
「はぁぁぁ…。リュシー、あなた、自分の持つ肩書を並べてみなさい」
「え?えっと…龍公主でしょ、公爵夫人でしょ、魔法公に征龍将軍、それと聖女の称号が3つ…」
私が上を向き、指折り数えながら自分の称号を並べ立てると、マリアンヌ様の呆れ声が聞こえて来る。
「あなたねぇ、それだけの称号を持つ人物が、他に居ると思って?家格はともかく、位で言ったら、あなたの方がラシュレー家より上なのよ?もはや当家があなたに結婚をお願いする立場なんだから、正妻に決まっているじゃない」
「へっ!?…いやいやいやっ!マリアンヌ様、あり得ませんてっ!?私がラシュレー家より上とかっ!」
私は慌てて両手を振り、マリアンヌ様の主張を否定するも、マリアンヌ様は扇子の向こうからジト目を向けて来る。
「龍公主の位が公爵より上だって、聞いたでしょ?そもそも、三大国の公爵位と聖女の称号をコンプリートするとか、その時点であり得ないから」
「ででで、でもっ!幾ら何でも次期公爵家当主の正妻だなんて、宮廷作法も満足に身についていない私が務めるわけにはっ!」
私は侍女になるに当たって最低限の宮廷作法を学んだが、付け焼刃でしかなく、とても貴族社会で通用するものではない。そもそも、ナイフとフォークを自分で持てない時点でアウトだ。「正妻」の言葉に歓びを覚える反面、「ラシュレーの女」として主家の評判を落としたくない一心で諫言するも、マリアンヌ様はそれを一蹴する。
「だから、そこをエヴリーヌにカバーしてもらうんじゃない。あなた、他の事はともかく、軍政は得意でしょ?あなたが正妻として内側を守り、帝都や貴族との交流は第2夫人のエヴリーヌが対応する。エルランジェ公の息女であり、帝室の血を引くエヴリーヌであれば、例え第2夫人であろうと軽んじられる事はないわ。それにあなたは『龍公主』という立場上、帝国に接近しすぎるわけにもいかないしね。この事は、既にエルランジェ公も了承済みよ」
「お義姉様、あと5年、ご辛抱下さい。ラシュレー家に相応しい教養を積み、シリル様の許に嫁ぎましたら、第2夫人としてお義姉様を陰ながら支えさせていただきます」
「…」
エヴリーヌ様が私の手を取って擦り寄り、励ましの声を掛けてくれたが、私は二人の言葉を聞いて呆然とするしかない。
…何か私、忠勤に励んでいるうちに、いつの間にか主家を追い越してしまいました。
***
乙女の月の30日。結婚式当日、雲一つない真っ青な空がサン=スクレーヌの上空に広がった。
その日だけはシリルさまと別々の部屋で朝を迎えた私は、式を迎えるため、家人の手を借りて装いを整えた。湯浴みを終えた私の許に複数の侍女が駆け寄り、肌に香油を塗り込んでいく。真っ白な下着を身に着け、ストッキングに足を通し、ガーターベルトで留める。
立ち上がると再び侍女が駆け寄り、パニエを着け、その上から純白のドレスを着せていく。プリンセスラインのウェディングドレスは、張りのある二つの丘を強調するかのように大きく切れ込みの入った上部が体の線に沿って腰元まですらりと流れ、そこからスカートが大きく膨らんで幾重にも花びらを広げ、下方に向けて大輪の花を咲かせていた。見事な刺繍を施したレースが二の腕から胸元に掛けて流れるように取り囲み、剥き出しとなった両肩を鮮やかに彩る。スカートから広がるレースが後方に大きく流れ、まるで波紋のように地面に美しい模様を描く。大粒のダイヤモンドが幾つもあしらわれたネックレスが白く細い首元を飾り、純白の煌めきを放つ。最後に複数のダイヤモンドがあしらわれたベールが掛けられ、その様子を眺めていたノエミが感嘆の声を上げた。
「リュシーさん…いえ、リュシー様…とても素敵です…」
「ありがとう、ノエミ」
薄っすらと頬を染め、呆けた顔で答えるノエミに私はにっこりと微笑むと、席を立つ。そして、ドレッサーに置かれていた、大粒の魔法石があしらわれた漆黒のチョーカーに目を向けると、はにかみながら謝った。
「…ゴメンね。今日は此処で、お留守番していてね」
マリアンヌ様と共に屋敷を出た私は馬車に乗り込み、20騎の騎馬に護られ、サン=スクレーヌで最大の教会へと向かう。沿道には大勢の人々が立ち並び、教会へと向かう私を祝福してくれた。
「リュシー様、おめでとうございます!」
「リュシー様っ!末永くお幸せにっ!」
教会へと到着した私は馬車を降り、マリアンヌ様と別れ、ノエミや侍女と共に貴賓室へと向かう。貴賓室で暫く待っていると扉がノックされ、別の侍女が姿を現わした。
「リュシー様、お待たせいたしました。ご準備のほど、お願いします」
「はい」
私は席を立ち、侍女の先導に従って貴賓室を後にする。礼拝堂へと向かう回廊を進んで行くと、やがて突き当たりに礼拝堂の扉と、お義父様の姿が見えた。お義父様はウェディングドレス姿の私を見て目を細め、穏やかな笑みを浮かべる。
「…おめでとう、リュシー。とても綺麗だよ」
「あ、ありがとうございます…お、お義父様…」
お義父様の賞賛の言葉と、初めて口にする「お義父様」という呼び名に、頬が熱を持ち、私の顔が真っ赤になる。お義父様は赤い顔で俯く私に笑みを深めると、正面を向き、右肘を突き出した。私は俯いたまま左手を伸ばし、お義父様の右肘に添える。
そして私達の前に立ちはだかっていた礼拝堂の扉が開き、私はお義父様のエスコートを受け、礼拝堂へと足を踏み入れた。
石造りの礼拝堂は吹き抜けの構造で天井が高く、建物を支える太い円柱には見事な彫刻が彫られ、荘重な雰囲気を醸し出している。礼拝堂の左右には大勢の人々が立ち並び、入口に立つ私とお義父様の姿を見つめていた。私はお義父様に引かれ、左右に並ぶ人々の間をゆっくりと進む。俯きがちの視界に、レイモン様、ロクサーヌ様、カサンドラ様、ヴァレリー様、ハヤテ様、ヒルベルト様、そしてマリアンヌ様…いえ、これからはお義母様…の姿が次々と浮かび、そして視界の外へと消えて行く。
人々の間を抜け、正面へと進み出た私達の前に低い石段が現れ、壇上に二人の男性が佇んでいた。正面には、ラシュレー領の教会を司る大司教。そしてその左手前には、純白のスーツに身を包み、右足を引いて此方へと振り返る、彼。私の姿を見て彼が身じろぎ、鮮やかな橙色の髪が純白の生地の上で揺れ動く。
私はお義父様の肘から手を離し、壇上に立つ彼の傍らへと進み出た。顔を上げてベール越しに彼に微笑むと、大きく見開かれていた彼の目が柔らかなものへと変化し、笑みを浮かべ頷きを返す。そうして彼と私は互いに視線を外し、正面に立つ大司教へと目を向ける。
「…シリル。汝はリュシーを妻とし、生涯に渡って彼女を愛し、共に支え合っていく事を女神様に誓いますか?」
「誓います」
彼が真っ直ぐに正面を見据え、大司教の問いに躊躇いもなく答える。大司教は頷き、私へと目と向ける。
「…リュシー。汝はシリルを夫とし、生涯に渡って彼を愛し、共に支え合っていく事を女神様に誓いますか?」
「誓います」
大司教の問いに私は躊躇いなく応じ、彼に終生の愛を誓う。途端、張りのある豊かな二つの膨らみの内側で心臓が大きく脈打ち、熱い想いが胸一杯に広がった。頬に新たな熱を覚え、些かの羞恥と共に自らの鼓動に耳を傾けている私の許へ、大司教の言葉が投げ掛けられる。
「続けて、指輪の交換を」
大司教の言葉に私は俯きがちのまま体の向きを変え、彼と向き合った。大司教が差し出した小箱の中から、金色に輝く二つの指輪が姿を現わす。彼が指輪の一つを手に取り、私が左手を彼の前に差し出すと彼の3本の指で支えられた指輪が現れ、私の左薬指をゆっくりと潜り抜けて行く。やがて彼の手が私から離れ、指輪だけが私の左薬指に残された。
私の左薬指が指輪に縛られると、私は小箱に目を向け、もう一つの指輪を手に取った。視界に浮かぶ彼の左薬指に指輪を添え、ゆっくりと差し込んでいく。やがて指輪は彼の掌に突き当たり、手を離すと彼の左薬指に指輪だけが残された。
「それでは、誓いのキスを」
視界の中に、ベールの端を掴む彼の手が映し出され、ベールの端と共に私の視界が上向いた。白のブラウスの襟から細く引き締まった首が映し出され、やがて長い橙色の髪に彩られた、彼の端正な顔が浮かび上がる。碧氷の光が私の目を射貫き、私は彼の瞳に縫い付けられたまま動きを止める。
「…リュシー」
彼の呟きと共に碧氷の瞳が次第に大きくなり、私の視界が彼に埋め尽くされた。私は近づいて来る彼の姿を瞼の裏に焼き付けると、目を閉じ、顎を上げてその時を待つ。暗黒の世界の中で唇が柔らかな感触を捉え、ささやかな温もりが広がる。
私には、何もできない。お茶を淹れる事も、部屋の掃除をする事もできない。それどころか、ナイフもフォークも持てず、一人で食事をする事さえできない。
だけど、それでも彼は私を選んでくれた。私と添い遂げる事を選んでくれた。
私は6年前、彼の「もの」になると誓った。そして今日、私はかつて誓った通り、彼の妻になる。
私は柔らかな感触を覚える唇を、少しだけ開いた。暗黒の世界の向こう側にいる彼に向かって、溢れんばかりの想いを言葉に乗せ、微かな吐息と共に、触れ合う唇へと送り込んだ。
「…シリルさま、だぁい好き…」
<完>
これにて完結です。
1年半お付き合いいただき、ありがとうございました。
異世界恋愛って難しいですね。結局ハイ・ファンタジーになってしまいました。
最後によろしければ★★★★★評価いただけると、とても嬉しいです。




