107:二人の聖女
「…ふぅ…」
ハヤテを主賓とした晩餐会が終わり、フランシーヌが自室へと戻って来た。宮女の手も借りず一人でドレスを脱ぎ捨てると、隣接する浴室へと向かい、湯浴みをする。生ける美術品とも評すべきバランスの取れた美しい姿態の上を幾筋もの水流が刹那の滝を描き、瑞々しい肌の上に残った水玉が宝石のように煌めく。酒精の混じった肌は些か赤みを帯び、立ち昇る湯気の中で艶めかしい照り返しを放った。
やがて湯浴みを終えた彼女は、柔らかなタオルを手に取り、全身に纏わりつく水気を拭いながら部屋へと戻って来る。タオルを一枚、体に巻き付けただけのあられもない姿で窓辺に向かい、花瓶に活けられた花束を覗き込む。その視線は、色鮮やかに咲き誇る花々ではなく、花の上をうろうろと歩き回る一匹のテントウムシの軌跡を追ったまま、離れようとしなかった。
しばらくして部屋に姿を現わしたレオポルドは、あられもない姿で窓辺を覗き込んでいるフランシーヌの背中を見て、諦めたように溜息をつく。彼女の奔放ぶりは今に始まった事ではなく、そのため彼女の部屋は宮殿の最も奥の、耳目の届かない外れに在った。レオポルドはソファに腰を下ろし、背中を向けたままの彼女に尋ねた。
「…何を見ているんだ?」
「テントウムシ」
「…」
皇帝の問いに一言答えたっきり、動こうとしないフランシーヌに、レオポルドは鼻で息を吐く。テーブルに置かれていた瓶を傾けてグラスにブランデーを注ぐと、口をつけながらフランシーヌが戻って来るのを待つ。
やがて花からテントウムシが飛び立ち、その軌跡を追っていたフランシーヌがレオポルドの許に戻って来た。テーブルに置かれていた瓶を手に取り、中身をグラスに注ぐと、タオル一枚体に巻き付けただけの姿で、グラスを煽る。昼間の、白いローブに身を包んだ聖女姿の彼女と異なる、人目を憚らない大胆な姿を、レオポルドはソファに腰を下ろしたまま黙って見上げる。そのレオポルドの視線の先でフランシーヌのグラスが下ろされ、彼女のヘソの前で宙に浮いたまま、両の指で弄ばれた。
「…陛下、ありがとうございました」
左手でグラスの底を掴み、右中指でグラスの内側をなぞりながら不承不承の態で頭を下げるフランシーヌの姿に、レオポルドの口の端が吊り上がった。彼はソファに身を沈め、勝者の余裕を醸しながらフランシーヌを冷やかす。
「…何だ、随分としおらしいな。流石に今回はやり過ぎたと思ったのか」
「些か」
レオポルドの指摘にフランシーヌは口を窄め、バツの悪そうな顔で答える。レオポルドはソファの背に頭を預け、フランシーヌの拗ねた顔を見上げる。
「お前の破天荒ぶりは今に始まった事ではないが、まさか偽勅までやらかすとは思わなかった。レイモンからその報告を聞いた時には、危うく堪忍袋の緒が切れるところだったぞ?」
「すみません」
謝罪の言葉を口にするものの、表情が伴わないフランシーヌの反抗的な態度も、レオポルドにとってはいつもの事。彼は気分を害する事もなく、悪童を立たせて説教する教師のように、言葉を続ける。
「…だが、此処でお前を咎めたら、お前どころか、帝国からラシュレーと三人の聖女がごっそりと消え、二大国との関係にも亀裂が入る。流石の余も、そんな愚策を取るわけにはいかぬ」
「すみません」
「…これで、貸しは三つだ」
「…」
レオポルドの宣言を聞いて、フランシーヌが渋面を作った。レオポルドがソファから身を起こし、タオル一枚体に巻いただけのフランシーヌの前に立ちはだかると、胸元に手を伸ばす。体に巻き付いているタオルがレオポルドによって引き剥がされ、フランシーヌの生ける彫刻とも言うべき美しい姿態が、レオポルドの前に露わになった。レオポルドの視線に己の身を曝したまま剥れた顔を浮かべるフランシーヌを引き寄せ、背中と膝裏に腕を回して横抱きに抱え上げる。嫌がる猫のように口をへの字に曲げるフランシーヌに、レオポルドが勝ち誇った笑みを見せた。
「…カサンドラの『産休』と、偽勅の件と、ラシュレー家に対する無罪放免。これで三つ。約束通り、三ヶ月は『籠の中の鳥』で居てもらうぞ、フランシーヌ」
「…メンドクサイ」
フランシーヌがレオポルドの腕の中でそっぽを向き、不貞腐れた表情を浮かべる。皇帝であるはずのレオポルドに此処まで反抗的な態度を取るのは、帝国中を見渡してもフランシーヌしか居ない。だが同時に、フランシーヌが、レオポルドとカサンドラの二人にしかこのような子供染みた態度を見せないという事実が、レオポルドの機嫌を良くしていた。レオポルドはフランシーヌを抱えたまま寝室へと向かうと、ベッドへと放り投げる。柔らかな羽毛がフランシーヌの肢体を受け止め、フランシーヌは一糸纏わぬ姿でベッドに横たわり、そっぽを向いたまま、美しい姿態をレオポルドの前に晒している。逃げ出すわけでもなく、その頬が薄っすらと赤く染まっているのを認めたレオポルドは声を立てずに笑い、フランシーヌに覆い被さりながら耳元で囁いた。
「…覚悟しろ。今度こそ『捕まえて』やるからな」
***
「ただいま、リュシー。今戻ったよ」
「お帰りなさい、ハヤテ様。遠路はるばる、オストリアまで出向いていただき、ありがとうございました」
双子の月の20日。帝都オストリアまで足を運んで下さったハヤテ様が、50日ぶりにサン=スクレーヌへと戻って来た。
サン=スクレーヌを出立した時には、カサンドラ隊、フランシーヌ隊を含め総勢140名ほどだったが、戻って来た時には620名に膨れ上がっていた。カサンドラ様とフランシーヌ様、そしてお二人の麾下の小隊の姿はなく、代わりに三国会合から魔王国救援へと向かい、その後帝都オストリアに留め置かれていた一個大隊が従っている。出迎えた私達に答えるハヤテ様の表情は明るく、皇帝陛下との面会は満足のいく結果だったようだ。お義父様が魔王国まで遠征した騎士達に労いの言葉を掛け、マリアンヌ様がハヤテ様、シズクさんを館へと案内する。そして、シリルさまと私は玄関に佇む一人のメイドへと振り返った。
「…お帰り、ノエミ。一人で帝都を切り盛りしてくれて、ありがとうね」
「…シリル様、リュシーさん…無事で良かった…」
道中、ハヤテ様から話を聞いたのだろう。ノエミは顔の下半分を両手で覆い隠したまま、涙を堪えていた。今にも泣き出しそうなノエミを安心させようと、私は右手を体の前に掲げ、殊更明るく振る舞う。
「安心してノエミ。私は右手を吹き飛ばされたし、シリルさまに至っては一度死んじゃったくらいだけど、今は見ての通りピンピンしているから」
「えっ!?シリル様が亡くなられたって、聞いてないですよっ!?」
だばぁぁぁぁぁぁ。
話を聞いたノエミの涙腺が決壊し、涙が滝のように流れる。やべ。ハヤテ様、そこまで詳細に伝えていなかったのか。私が慌てて言い繕おうと口を開いたところに拳骨が落ち、視界に火花が散る。
ゴン。
「ったぁぁぁぁぁいっ!?…シリルさまぁ、痛いですってばぁぁぁ…」
「自業自得だろうが…。ノエミ、心配かけてすまない。今はこの通り二人共元気だから、コイツの言った事は忘れてくれ」
私が頭を押さえて涙目で抗議するも、シリルさまはジロリと私に目を向け、素気無く突き放す。もぉぉぉぉ…シリルさまってば、婚約者なんですから、もっと優しく扱って下さいよぉ。私が振り返ってシリルさまに膨れ面を向けていると、ノエミが目元をハンカチで拭いながら問い質した。
「…リュシーさん、やたらベタベタしていません?」
「え、だって婚約したんだから、当然じゃない。ねぇ、シリルさまぁ」
「やり直し」
「そんな事ありませんよね、坊ちゃん」
「…何か、随分面倒臭くなりましたね、このヒト」
シリルさまの一言に反応し、姿勢を正し澄まし顔で答える私を見て、ノエミがげんなりした表情を浮かべる。
シリルさまにプロポーズをいただいて以後、常時お花畑と化した私は、目下マリアンヌ様とシリルさまの手によって絶賛矯正中だった。「ラシュレーの女」を被れば取り繕えるので、未だに侍女衣装に身を包んでいる。
マリアンヌ様が「まさかこんなに色ボケするとは…」と頭を抱える一方、お義父様は全て不死王討伐とバーターにして下さるほどの達観ぶりで、「エヴリーヌが輿入れするまでの辛抱」と6年越しの長期修繕計画をすでに立てている。なお、肝心のシリルさまと言えば、人目がある所ではピシピシと矯正して来るが、二人きりの時には思いっ切り甘えさせてくれるというメリハリの利いた使い分けをしてくれるので、私は十分に満足していた。その分、夜は坊ちゃんのお好きなようにさせているわけで。
つまり、何だかんだ言って、シリルさまとのお付き合いは至極順調だ。




