103:漂白
…私の想いが、世界を白く塗り潰した。
***
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「うわぁっ!?」
「な、何っ!?何が起きたのっ!?」
白一色と化し、何も見えなくなった世界で、誰かの声が聞こえた。私は周りの喧騒を無視し、剥き出しとなった張りのある膨らみに彼の掌を圧し当てたまま、繰り返し彼に呼び掛ける。
「シリルさまぁっ!シリルさまぁっ!戻って来てぇっ!」
己の全身から放たれる眩い光に少しずつ目が慣れ、純白の世界に色彩が戻って来た。橙色の流れるような長い髪が純白の世界に浮かび上がり、眠ったままの彼が姿を現わす。
彼の全身を覆っていた黒い瘴気のあちらこちらに罅が入り、塗料が剝がれるように空中へと浮かび上がった。空中に浮かんだ大量の黒い破片が光を浴びて粉々に砕け、やがて塵となって光の中に呑み込まれていく。彼の脇腹に開いていた大きな穴が光を浴びるうちにみるみる塞がり、やがて瑞々しい肌が姿を現わす。漆黒に塗り潰された周囲の地面からも大量の黒い破片が浮き上がり、私を取り囲む六人の男女は眩しさに顔を顰めつつ、漂白された世界を漂う夥しい量の黒い粉を目で追い続けた。私はそんな男女に構わず、黒い塗料が全て洗い流され、いつもの姿を取り戻した彼を呼び続ける。
「シリルさまぁっ!シリルさまぁっ!」
「…ん………っ!?…っ痛ぅ…」
彼が薄っすらと目を開け、すぐに眩しさに顔を顰めて、開いた方の手を翳しながら背けた。私は彼の掌を自分の膨らみに押し付けたまま身を乗り出し、半狂乱で呼び掛ける。
「嗚呼ああああああああぁぁぁぁっ!シリルさまぁっ!シリルさまぁっ!」
「その声は…リュシーか…?」
「はいっ!はいぃぃいぃいぃぃぃっ!」
狼狽える私の悲鳴を耳にして、顔を背けていた彼がゆっくりと私に目を向けた。額に手を翳して顔を顰め、薄目を開けながら私を問い質す。
「…大丈夫か、お前?」
「大丈夫じゃないですよぉおおぉおぉぉぉおぉっ!?」
空気を読まない彼の指摘に、私の涙腺が決壊した。私は彼の手を胸に圧し抱き、ボロボロと涙を流しながら、彼の無神経な言葉を大声でなじる。
「何でコレで大丈夫だと思うんですかっ!?シリルさまっ、貴方は酷いですっ!貴方は最低ですっ!私をこんなに泣かせて、わ、私をこんなに心配させてっ!…うぅぅ、シリルさまぁ…逝っちゃヤダ…私を置いて行かないで…私を一人にしないで…ぁ、愛しているのぉ…貴方の事が大好きなの…だから、私を置いて行かないでぇ…うぅぅぅ…」
私のぐしゃぐしゃの泣き顔を眩しそうに見上げていた彼の唇の端が上がり、得意気に笑い出す。
「…言ったな?…俺の、勝ちだ」
「勝ち負けじゃないでしょぉおおぉおぉぉぉおぉっ!」
私は、こんな事で彼と勝負をしていた記憶はない。だけど、彼が「私の負け」だと言うのならば、それはその通りだ。私は彼の掌を、剥き出しとなった二つの丘の谷間へと動かして上から両手で押さえ付け、自分の鼓動を彼の手に差し出しながら、喚き散らした。
「えぇ、えぇ、もぅそうですよっ!その通りですよっ!私の負けですっ!完敗ですっ!シリルさま、愛していますっ!貴方を愛していますっ!…だから、私を連れて行ってっ!私を絶対に離さないでっ!」
「…ああ、約束する」
私の告白を聞き、彼の意地の悪い笑みから、意地悪さが消えた。彼が私の手を振り払って私の後頭部に手を回し、ゆっくりと引き寄せる。私は彼の手に導かれるままに地面に両手をつき身を乗り出し、騎士の笑みを湛える彼に、顔を寄せる。
「…俺も、お前の事を愛している。お前を絶対に離さない。…リュシー、俺と結婚してくれ」
「はい…私も貴方の事を愛しています…んんっ…ん…」
私は彼のプロポーズに即座に応じ、彼と唇を重ねる。誓いの口づけはすぐに男女のソレへと変わり、私は仰向けのままの彼に覆い被さり、人目も気にせず、繰り返し彼の舌を求めた。
***
侍女の放った光は、漆黒に染まった大地を白一色に塗り潰した。
煌々と輝き続ける光の中で、地面を黒一色に塗り潰していた瘴気が無数の破片となって浮き上がり、光を浴びて粉々に砕け、消えていく。大地の至る所で墨に塗れ、折り重なって倒れていた数百名の人達も、元の色彩を取り戻した。生命の絶えた剥き出しの大地に新たな命が芽吹き、瞬く間に成長して、地平の彼方まで青々とした草木が生い茂る。草原の中で寝転んでいた大勢の人々が目を覚まし、身を起こして寝ぼけ眼で辺りを見渡す。
「…あれ?…此処、何処だ…?」
「…俺…確か、闇に呑まれて…」
「お前達っ!?無事だったのかっ!?」
「嗚呼、何という事だ…奇跡だ…」
その光景を目にしていた300名にも満たない生存者達が次々と駆け寄り、絶望視されていた仲間達と抱き合って再会を歓び合う。
カサンドラはヴァレリーに寄り添って立ち、歓喜に湧く人々の姿を呆けたように眺めていた。先ほどまで彼女を蝕んでいた、内臓が穴だらけになったような苦痛と絶望感は嘘のように消え失せ、生来の活力を取り戻している。彼女は、こればかりは元に戻っていない、鼻血塗れの顔で背後へと振り返り、眩い光を放ち、地面に横たわった男に覆い被さって激しい口づけを交わす侍女の横顔を眺めながら、ポツリと呟いた。
「…≪死者蘇生≫って…実在したんだ…」
「…姉様、これからどうします?」
侍女の横顔を眺めていたカサンドラの許にフランシーヌが近づき、濡れたタオルを差し出す。彼女はタオルを受け取り、顔を拭いながら、己の妹分に質問の意図を尋ねた。
「どうするって…何を?」
「邪龍です。このまま『孔』に攻め込めば、斃せるんじゃないですか?」
「無駄よ」
「え?」
期待を籠めたフランシーヌの質問を、カサンドラは素気無く両断した。呆気にとられるフランシーヌの前で、カサンドラが顔の下半分をタオルで隠しながら目を向ける。
「どうやって斃すの?」
「どうやってって…リュシーさんが…」
カサンドラの視線を受け、フランシーヌが居心地の悪そうな顔でおずおずと答えると、カサンドラはタオルの下で溜息をついて答える。
「…あの子、癇癪起こさないと、あの力を発揮できないのよ?どうやって癇癪を起こさせるの?シリル様を『孔』の底にでも突き落とす?」
「…そんな事をしたら、私、灰も残りませんね…」
カサンドラの答えを聞いたフランシーヌが表情を消し、遠い目を向ける。カサンドラが笑みを浮かべ、フランシーヌの視線を追って振り返ると、ようやく侍女の口づけから解放されたシリルが、オーギュストの手を借りて起き上がろうとしているところだった。
羊の月の27日。
ラシュレー軍1,335名は、魔王国を縦断して侵攻して来た不死王をサン=スクレーヌの北20キルドの地点において迎撃し、之を撃破。損害は、死者行方不明、共に0。出撃した全員が生還した。
***
その後、後退していた友軍を呼び戻し、軍の再編を行っているうちに日没を迎えた私達は、その場で一夜を明かす事になった。凄惨で苦しい戦いが行われたはずの場所だけど、その爪痕は欠片も残っておらず、周囲は青々とした草木が生い茂り、春の息吹に満ち溢れている。本人達はトラウマものかも知れないけれど、結果として死者は出ておらず、戦場で一夜を過ごす事への抵抗は見られない。私達は交代で見張りを立てながら思い思いに焚火を囲って、心地良い春の風を楽しんだ。
「…なぁ。お前、大丈夫か?」
「…え?」
私が焚火の炎を眺めながら春の夜風を堪能していると、傍らに座るシリルさまが尋ねて来た。私は焚火から視線を転じ、格好いいシリルさまの横顔に見惚れる。
「何かですか、シリルさまぁ?」
「その言い方だよ。それに、妙にひっ付いて来るし」
「え?…だって…シリルさまと一緒に居たいから…」
私は、質問に答えながらもぞもぞと体を動かし、腕を組んで難しい表情を浮かべるシリルさまに擦り寄った。指を伸ばし、引き締まった素敵なシリルさまの肘に腕を絡めようとすると、シリルさまは軽やかに腕を捻って私の手を逃れ、地面に腰を下ろしたままいそいそと私との距離を開ける。私は急いで手を伸ばし、いけずなシリルさまの袖を掴み、口を尖らせて引き留めた。唖然とした顔で私とシリルさまの一連のやり取りを目にしたフランシーヌ様が、感心するように呟く。
「…呆れた。あなた、『甘えた』だったのね…」
私も全然自覚がなかったけど、実は相当の甘えたがり屋だったようだ。思えば僅か12歳で両親を失い、その後ずっと騎士を目指し自己を律して来たのだけれど、言い換えれば、その間精神的には誰も頼れなかったわけで。きっと、愛情に餓えていたのだと思う。お義父様に対する思慕や、騎士としてずっとお義父様の傍らに立ちたいと目指してきた想いも、振り返れば父親の愛情を欲する娘の我が儘だったようにも思える。その後、成長と共に心の中に「ラシュレーの女」が形成され、何よりもラシュレー家のために働いて来たけれど、実はその心の奥底には誰かに甘えたいという想いがあって、私はずっとその想いに蓋をして「ラシュレーの女」を演じて来たわけだ。
だけど、黒衣の未亡人との戦いを境に、シリルさまが私に対して主従の枠を超えた想いを抱き、それに気づいた私の「ラシュレーの女」が揺らいで、蓋をしていたはずの想いが頭をもたげた。その後私はシリルさまと結ばれ、元の関係には戻れなくなったけれど、それでも私は「ラシュレーの女」を守るため、必死に己を律し続けた。
その最後の一線が、「坊ちゃん」だった。私がシリルさまを「坊ちゃん」と呼ぶ限り、私はシリルさまの恋人ではなく、「主人と関係を持った侍女」として「ラシュレーの女」で居続けられる。頑なに「坊ちゃん」と呼び続ける私に対し、シリルさまがした「いけず」によって、途中で「ラシュレーの女」がぐちゃぐちゃになっちゃったけど、それでも今日まで「ラシュレーの女」としてやって来る事ができた。
でも、そんな私も今日で終わり。これから私は「ラシュレーの女」の殻を脱ぎ捨て、シリルさまの恋人として思いっ切り彼に甘えるんだ。私は、おっぱいを隠すためにシリルさまが貸して下さった外套の襟を立てて顔を隠し、にへらと笑う。えへへへ…シリルさまの匂いだぁ…。緩みっぱなしの私に、シリルさまが愛の言葉を囁いてくれる。
「…リュシー、ソレ、どうにかならんか?」
あ、あれ、愛の言葉じゃなかった。私は両手でシリルさまの外套の襟を引き上げて顔の下半分を隠し、襟の中で唇を尖らせる。
「シリルさまは、こういう私はお嫌いですか?」
「いや、そうは言わないけど…何て言うか、その、もう少し抑えてくれないか?」
むぅ、せっかく心を開いた私をまた焦らすだなんて、シリルさまってばホント、いけずなんだから。
でも、そうは言ってもシリルさまにもお立場があるわけだし、こういう時はシリルさまを立てて差し上げないと。襟から顔を出した私は襟元を締めて姿勢を正し、表情をキリリと整える。
「坊ちゃん」
「…お前、『中間』はないのかよ…」
「面白過ぎるわね、あなた達」
私の返事を聞いて、シリルさまが掌に頭を載せてがっくりと項垂れ、カサンドラ様が半眼で薄笑いを浮かべた。だ、だって、シリルさまの望む距離感がわかんないんだもん。救いを求めて視線を彷徨わせると、お義父様が横を向いて笑いを噛み殺している。
「皆さん、お待たせしました」
「ありがとう、ヴァレリー」
食料を取りに行っていたヴァレリー様とセヴラン様が、保存の効く固いパンの入った籠と木製の皿、それと鉄鍋を持って戻って来た。鉄鍋の中には焼けた肉が大量に入っていて、香ばしい匂いを立てている。いつもなら戦場でこんな焼き立てのお肉にはありつけないはずだけど、戦勝祝いに誰かがその付近で狩って来たらしい。フランシーヌ様が肉を切り分けて木製の皿に綺麗に盛りつけ、フォークを添えて私に手渡した。
「はい、リュシーさん」
「ありがとうございます、フランシーヌ様」
皿を受け取った私は体を傾け、シリルさまの肩に寄り掛かった。機嫌良く鼻唄を歌いながらフォークを摘まみ、香ばしい匂いを立てる肉に勢い良く突き立てる。
プス。ふぃん。ぼっ。
「…え?」
突き立てたフォークの先から掠れた音が聞こえ、肉と皿から火の手が上がる。目の前に現れた手乗りサイズの焚火を眺めていると、皆で取り囲んでいた焚火の地面が罅割れ、中から極光のような無数の光の帯が立ち昇って、地面が次第に盛り上がる。
「…た、退避ぃぃぃぃぃぃっ!」
「リュシー、危ないっ!」
切迫したヴァレリー様の声と共に皆が一斉に焚火の前から逃げ出し、シリルさまが私の身を庇って覆い被さった。私はシリルさまに抱きかかえられたまま、目の前で突如始まった火山活動をぼうっと眺める。
…ちゅどーーーーーーーーーーん。
二人の目の前で爆発が起き、大量の土砂と火のついた薪が舞い上がった。護身群が発動して降り注ぐ土砂を弾き、私はシリルさまに抱かれながら、水色の稲光の煌めきに目を奪われる。
やがて刹那的な噴火活動が治まって静寂が戻り、シリルさまが私を解放した。私の首元を飾る漆黒のチョーカーに指を回し、護身群を止めながら、至近距離で私の顔を覗き込む。
「…リュシー…お前、まさか…」
サファイアにも似た碧氷の瞳に射貫かれ、私はシリルさまの追及から逃れるかのように視線を外し、引き攣った笑みを浮かべながら、謝った。
「…シリルさま、ごめんなさぁい…。私、フォークも持てなくなっちゃいましたぁぁぁ…」




