102:呆気ない幕切れ
…それは、十字砲火と評するのもおこがましい、稚拙な一打だった。
例えるなら、真剣を手にした剣豪同士の鍔迫り合いに、玩具の剣で割り込んだ幼児のように。縄張り争いを繰り広げる二頭の獅子の足元に飛び出した、野ネズミのように。
世界を白く照らす光の奔流と、世界を黒く塗り潰す闇の奔流。
その、世界を二分する絶対的な二色の争いに割り込んだ、眩しい、ただ眩しいだけの光。
――― そんな、ただ眩しいだけの光が、世界の行く末を決めた。
***
「…女神の七徳をもって七邪を討ち祓わん。≪七聖光≫」
巨大な咢を開き、矮小な侍女に向かって闇の奔流を放ち続けていた黒龍。
その眉間から突き出た紫色の女の上半身に七条の光が射し込み、胸に開いた穴の中の心臓を照らして、その表面を灼いた。
「ッ!?オォォォォッ!?」
人で言えば、誤って太陽を直視しただけかも知れない。鏡に反射した光が目に飛び込んだだけかも知れない。
そんな、適切に対処すれば只人でさえも大して害にならない、眩しいだけの光。只人が何も考えず反射的に行ってしまう、抗い難い生理的嫌悪。
その生理的嫌悪に負けて黒龍が顔を背け、世界を黒く塗り潰す闇の奔流が誰も居ない原野を薙ぎ払い、大地を漆黒の海へと一変させる。
「ッ!?シマッ…!?」
「――― ァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアッ!」
黒龍が慌てて顔を正面へと向ける前に侍女の声量が増し、反動で侍女の体が後退する。新たな光の奔流が斜めになった闇の奔流を押し退けて突進し、黒龍の左下顎を捉えた。黒龍の全身を覆う漆黒の鱗は数瞬の抵抗を経て崩壊し、光の奔流はバキバキと鱗と骨を噛み砕きながら駆け抜け、黒龍の左腹を大きく抉って彼方へと飛び去る。左の四肢を失った巨龍が、地響きを立てて崩れ落ちる。
「…ァ…ガガガ…」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
侍女が雄叫びを上げて突進し、断末の声を上げる黒龍の眼前に立ちはだかった。両足を広げて大地を踏みしめ、前傾姿勢を取ると、左右の腰に手を回す。右手に投げナイフ、左手に銀色の短剣。二種類の刃物を逆手で掴んで引き抜き、手の上で回して順手に持ち変える。腰を落として大きく息を吸い込むと、目の前に横たわる巨龍に向けて左右の刃物を繰り出し、底冷えするほど透き通ったアルトの歌声を奏でる。
「…コォォォォォォォォォォォォォォォォォォ…」
「…グッ!?グワァァッ!ギャアアァッ!」
右の投げナイフから繰り出される無数の閃光が巨龍の腹に開いた大穴から飛び込み、薄紅色の無防備な肉を抉り、中を焼いていく。左の銀の短剣から放たれる閃光が漆黒の鱗に弾かれて進路を変え、大地に突き刺さって無数の白煙を上げた。黒龍の苦悶の声を無視して侍女が左右の刃物を次々と繰り出すうちに、刃物から放たれる閃光の収斂が進み、次第に細くなる。小指の爪の細さから、針の細さへ。針の細さから、蜘蛛の糸へ。
そして、蜘蛛の糸より更に細くなり、視認できなくなった光は、ついに臨界を迎える。
限界を超えた圧力の前に漆黒の鱗が砕けて極小の穴が開き、光は自らの圧力に負けて、龍の体内で自壊を始めた。龍の体が膨れ上がって鱗の隙間から光の帯が立ち昇り、まるで極光のように周囲を淡く照らす。恐怖に怯える黒龍の前で侍女が顔を上げ、口の先に浮かんだ光の球が超新星の煌めきを放つ。
「…ヤ、止メ…ッ!?」
「――― ガアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
獣の如き咆哮と共に侍女の口から放たれた光の奔流が黒龍の上顎を捉え、眉間に生えた紫の女諸共頭部を抉り、斜め上空へと飛び去った。風船のように膨れ上がった胴体から漆黒の鱗が次々と捲れ、中から立ち昇った無数の光の柱が星のように瞬き、粉々になった黒龍の体を呑み込んでいく。
…やがて、眩い光が消え去った後に黒龍の姿はなく、漆黒に染まった大地と、左右の手に刃物を持った侍女の後姿だけが残された。
***
左右の掌から二種類の刃物が零れ落ち、土を掻き分ける音を立てて大地に突き刺さった。
私は、手元から刃物が失われた事にも気づかぬまま、漆黒に染まった大地を呆然と眺めていた。青々とした草が生い茂って春の息吹に満ち溢れていた草原は、今や瘴気に覆われた死の大地と化し、大勢の人達が真っ黒な姿でそこかしこに倒れて動かない。私は自分の首に絡みつく漆黒のチョーカーに手を伸ばし、無色の輝きを放つ大きな魔法石を指でなぞって護身群を止める。そして、ゆっくりと視線を転じ、背後へと振り返った。
視界の先に、七人の男女の姿が浮かび上がった。男が四人、女が三人。ロマンス・グレーの髪と口髭を湛えた壮年の男が地面にへたり込んだまま、呆然とした表情で私の名前を呼ぶ。
「…リュシー…」
赤い髪を湛えた女は大柄な男に抱き留められ、手にした錫杖を私に向かって掲げたまま、硬直していた。眉目の整った顔は大きく歪み、鼻から下は赤い髪と同じくらい真っ赤に染まって、気品の欠片も見られない。その、憔悴し切った顔に驚愕の表情を浮かべていた彼女は、振り返った私の顔を見て息を呑み、震えながら謝罪の言葉を口にする。
「…ご、ごめんなさい…私…私…」
「…う、うぅぅぅ…」
赤い髪の女の謝罪に重ねるように、金色の髪の女が嗚咽を上げる。金色の髪の女は地面に両手をついて四つん這いになり、下を向いたまま止めどなく涙を流す。橙と黒のストライプの髪と丸い耳を持つ女が唇を噛み、金色の髪の女に寄り添って繰り返し背中を擦り、腰に剣を佩いた細身の男が沈痛な表情を浮かべ、私の目を見て静かに頭を振る。
六人の男女が取った様々な反応を、私は全て無視した。私は男女に向けて足を踏み出し、静かに歩き出す。地面にへたり込んだロマンス・グレーの男の傍らを通り過ぎ、尻餅をついたまま地面を蹴って後退する赤い髪の女の元居た場所に立つと、地面に両膝をついて跪く。
目の前に、最後の一人が、仰向けに横たわっていた。流れるような長い橙色の髪を湛えた彼は、近づいた私に一切反応せず、ただ目を閉じ地面に横たわったまま、ひたすら動きを止めている。その細く引き締まった身体は、両腕と鎖骨から上を除いて全身が真っ黒に染まり、生地を裂いて大きく開かれた衣服から顔を覗かせる胸板は、絶えず繰り返すべき緩やかな上下運動を忘れ、動こうとしない。私は体を屈めて顔を寄せ、動かない彼に報告した。
「…坊ちゃん、ただいま戻りました。起きて下さい」
私の報告を聞いても彼は反応しようとせず、目を閉じて地面に横たわったまま、動かない。私は地面に投げ出された彼の左手に腕を伸ばして掌を重ね、手の甲を優しく撫でながら再び語り掛ける。
「…坊ちゃん、勝ちました。不死王は、私が斃しました。もう大丈夫ですから、もう安心ですから。…だから、早く起きて下さい」
私の度重なる報告を耳にしても彼は目を閉じて地面に横たわったまま、なおも動きを見せようとしない。
私は三度彼に語り掛けようとして口を開き、喉元に声が詰まって動けなくなった。喉の奥から堪え切れないほどの激情が込み上げ、私は口を真一文字に閉じて無理矢理激情を飲み下すと、彼の手を取って己の胸元へと引き寄せ、白日の下に晒されたままの張りのある膨らみへ圧し当てる。彼の掌が沈み込むほどに強く引き寄せ、彼がいつ求めてきてもすぐに鷲掴めるよう、しっかりと押さえながら、精一杯の笑みを浮かべ、震える声で彼を誘う。
「…ほ、ほら。坊ちゃんの大好きな、おっぱいですよ。もう我慢しなくて好いから…、好きなだけ触って好いから…だ、だから…早く、目を覚まして下さいよ…」
「…ぅ、ぅうう…」
彼は私の誘いに応じようともせず沈黙を貫き、金色の髪の女の嗚咽が大きくなった。女の嗚咽が私の激情を呼び覚まし、喉元を塞ぐ理性の蓋にびっしりと罅が入る。
あまりにもありきたりで、あまりにも日常的で、あまりにも幸せだった毎日が、私の掌から零れ落ちようとしている。
彼の後ろに付いて回って、一緒に色んな所に行って。
彼の隣でゴロゴロして。
事有るごとに不平を漏らす彼に、小言を繰り返して。
時折ヘマをやらかしては、彼にしこたま怒られて。
彼の言葉に不安を覚えて、彼の仕草にドキドキして。彼が私に向ける目を見るたびに、心の中で期待して。
彼に触れて、彼に求められて、彼に満たされて。そして、彼が毎日私を幸せにしてくれて。
――― そんな、あまりにも幸せだった毎日が、明日からはもう、二度と訪れない。
「…や…やだ、やだ…」
到底受け入れられない事実を目の前に突き付けられ、その衝撃で私の理性が粉々に砕け散った。私を形成する「ラシュレーの女」に亀裂が入って中から純白の想いが怒涛のように溢れ出し、瞬く間に「ラシュレーの女」を呑み込んで、私の心を白く塗り潰す。
…行かないで…戻って来て…帰って来てっ!
私は、白く塗り潰された想いに流されるままに彼の手を抱き締め、彼に縋りついた。彼の手を決して離すまいと強く抱き留めたまま、私は溢れ出る純白の想いの全てをその一言に籠めて、この世に解き放つ。
「――― シリルさまぁっ!帰って来てぇっ!」




