100:黒龍
侍女の右腕が闇の波動に乗って宙を舞い、粉砕された岩塊や石柱と共に大地に降り注いで、そのまま動かなくなった。
「リュシーーーーーーっ!」
「ぐぅ…っ!?」
己の家人を襲った悲劇を目にして、オーギュストが蒼白な顔で絶叫する。
右腕に引き摺られて宙に浮いた侍女は顔を顰めて後退し、未だ健在な左腕を掲げて身を守る。侍女の右腕は二の腕から先が完全に喪われ、傷口が瘴気でどす黒く染まり、黒い煙を噴き上げていた。カサンドラが悲鳴としか思えない声で、祝詞を唱える。
「め、女神よっ!七つの輝きをもって彼の者を護り給えっ!≪聖盾≫!」
カサンドラの金切り声に触発されて、未だ健在の治癒師達が立て続けに≪聖盾≫を唱え、侍女の前方に光の盾が乱立する。隻腕と化し、光の盾に二重三重に護られた侍女の前で、不死王が身を起こす。
起き上がった不死王の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。人形のような虚ろな目をあらぬ方角へと向け、胴体の動きに合わせてグラグラと揺れ動く。胸部の中心が縦に割れて大きな穴が開き、中から無数の牙が姿を現わす。そして、穴の中央に納められた鮮やかな紫色の心臓が蠢き、不規則に伸縮を繰り返しながら喋り出した。
「…嗚呼、嗚呼。全ク、何テ酷イ事ヲシヤガル。コレジャァ、マタ、乗リ換エジャネェカ…」
「…な、何だよ、ありゃぁ」
「「「…」」」
突如現れたおぞましい光景を目にして、ハヤテの全身の毛が逆立った。この場に独りでいられず、仲間を求めるように呟いたハヤテの問いに、答えられる者はいない。オーギュストもカサンドラも、ヴァレリーもセヴランも、誰一人として目前の光景が理解できる者は居らず、ただ呆然とその成り行きを見つめる。不死王が骨折した右手を上げて表情のない頭を掴み、ぐりぐりと体に捻じ込みながら、毒づいた。
「…チッ、駄目ダコリャ。使イ物ニナラン。コノ躰、結構気ニ入ッテイタノニヨォ…。マタ新シイノヲ探サネェト…オ?」
まるで頭を掻くようにガシガシと頭部を揺らしていた不死王が手を止め、ハヤテに抱きかかえられているフランシーヌへと体を向けた。心臓が不規則な脈動を繰り返し、穴の縁を飾る牙が愉悦を表すように蠢く。
「…存外、好イノガ残ッテイルジャナイカ。次ハ、アレニシヨウ。…ット、ソノ前ニ…」
そう呟いた不死王の傷口から暗闇が溢れて切断された左足の先に伸び、やがて黒い鱗と鋭いかぎ爪を持った禍々しい脚が姿を現わす。不死王は新しい脚で立ち上がると、左脚の感触を確かめるように二度三度踏み慣らした。下を向いていた心臓が正面へと直り、対峙する隻腕の侍女を視界に捉え、牙を剥く。
「…ヤッテクレタナ、貴様。一片残ラズ、消シ炭ニシテクレル」
「…ボ、一斉射撃!」
不死王の宣告を聞いたヴァレリーが全身に鳥肌を立てて叫び、魔術師達が必死の形相で詠唱する。群れを成して押し寄せる属性魔法を目にして、不死王が煩わしそうに腕を払う。
「…邪魔ヲスルナ」
途端、表面に流線形の鱗模様が描かれた透明な球体が不死王の全身を包み込み、全ての属性魔法がその球体に阻まれ、虚しく表面を彩った。侍女が腰を落とし、左の拳を正面へと突き出す。
「…フゥゥゥゥゥッ!」
パキン、パキン。
指の間に挟んだ2本の仕込みナイフから二条の閃光が放たれ、球体に着弾して表面の鱗を2枚砕く。しかし、割れた鱗の下から新たな鱗が現れ、球体は何事もなかったかのように元に戻った。左舷に浮かぶ二本の石柱が爆風を上げて不死王へと襲い掛かるが、鱗に罅を入れる事さえできず、耳障りな音を立てて弾かれて、明後日の方向へと飛び去って行く。その様子を眺めていた心臓が、苦々しく呟いた。
「…チッ、『鱗』マデ割ルノカヨ…フザケタ女ダ…」
「フランシーヌっ!目を覚ましなさいっ!ハヤテ様っ!殴りつけて好いから、その子を起こしてっ!」
「おいっ!フランシーヌさんよっ!頼むから起きてくれっ!」
カサンドラが金切り声で捲し立て、ハヤテがフランシーヌの体を激しく揺さぶって頬を叩く。狂乱としか思えない喧騒の中で、オーギュストが地面に膝をつき、愕然とした表情を浮かべて呟いた。
「…あれが…『邪龍』…」
邪龍。御伽噺で語り継がれる、太古の戦いにおいて聖龍に破れた、黒き龍。天に召された聖龍と異なり、今もなお深い「孔」の底で傷ついた体を休め、捲土重来を図る、アンデッドの産みの親。その邪龍の魂が、「間借り」していた体を破壊されて、ついに姿を現わした。強大な力の片鱗とも言うべき「鱗」の前に属性魔法は全くの無力で、世界最強とも言える侍女の閃光でさえも歯が立たない。絶望に心臓を鷲掴まれ、身動きを止めたオーギュストの後ろで、フランシーヌが目を覚ます。
「…ん…ぁ…ハヤテ…様…?」
「フランシーヌっ!リュシーさんが危ないっ!私を『切り離して』好いから、リュシーさんと『繋ぎ』なさいっ!」
「…ぇ……っ!?リュシーさんっ!?」
カサンドラに急かされ、寝ぼけ眼を向けたフランシーヌが、右腕を喪い傷口から黒煙を上げる侍女の後姿を認めて跳ね起きた。彼女はハヤテに抱き留められたまま短錫杖を握る手に力を籠め、口早に祝詞を紡ぎ出す。
「め、女神よ、潰える者と我を結び…」
「…っ!?…っくぅぅぅ…」
「カサンドラっ!?しっかりしろっ!」
「ライン」を切られたカサンドラが力尽きて崩れ落ち、ヴァレリーが慌てて駆け寄って抱きかかえる。フランシーヌが短錫杖を正面に掲げ、黒煙を上げる侍女の背中を指し示した。
「…消えゆく生命を繋ぎ止め給え。≪生命の架け橋≫。…っ!?きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「フランシーヌさんっ!?おい、一体どうした!?しっかりしろっ!?」
「…フ…ランシー、ヌ…」
≪生命の架け橋≫を唱え終えた途端、フランシーヌはまるで正面から衝撃波を浴びたように後ろに倒れ、再びハヤテに抱き留められた。ハヤテが体を揺さぶって問い質すが、フランシーヌは気絶してしまったのか、動きを見せない。カサンドラがヴァレリーに抱きかかえられたままフランシーヌに手を伸ばし、その様子を見たオーギュストが正面へと向き直って、侍女の背中に向かってあらん限りの声を上げた。
「リュシーっ!逃げろっ!逃げるんだあああああああああっ!」
***
己の主人の命令に、侍女は耳を貸さなかった。
手負いと化した侍女は、なおも我が子を守る母猫のように不死王の正面に立ちはだかり、歯を剥いて睨み付けた。右腕は二の腕から先を喪失し、傷口から瘴気が黒煙となって立ち昇る。不死王が放った咆哮によって三重六層の雷氷防御陣のうち外側の四層が剥ぎ取られ、浮遊機雷は消失して右舷の連装砲も沈黙。残された武装は、雷氷防御陣二層と左舷の石柱連装砲一基二門のみ。
それでも、侍女の闘志は衰えない。ヘーゼルの瞳に怒りの炎を湛えて目を剥き、食いしばる歯の隙間から抑え切れない殺意を吐いて、肉食獣の如き唸り声を上げる。
「…フゥゥゥゥゥッ!フゥゥゥゥゥッ!」
「…クタバレ、女」
心臓の呟きと共に、不死王の胸に開いた穴が黒い煌めきを放つ。黒い煌めきは渦を描きながら穴の奥へと吸い込まれ、心臓の周囲が紫色に輝き出した。侍女が頭を下げて前傾姿勢を取り、今にも飛び掛からん勢いで牙を剥く。
「ゴアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
不死王の胸の穴から大量の暗闇が飛び出し、漆黒の激流が侍女へと襲い掛かった。押し寄せる激流を前にして侍女は一歩も引かず、ただ獣の如き雄叫びを上げる。
「――― ガアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
そして、侍女の口から放たれた純白の光の柱が己を護る光の盾諸共一瞬で激流を粉砕し、不死王の脇腹を抉って地平の彼方へと飛び去った。




