体をどこまで機械化したら人間じゃなくなるのだろう
昔、友人の頼みで同人誌を作る手伝いをしたことがある。SF小説を何作かまとめて本にしたもので、一応読んでみたが、正直たいして面白いものではなかった。だがその中の一つがちょっと気になる内容だった。
その話の中身を簡単に説明する。要はその話は思考実験みたいなもので、ある一人の男の体をどんどん機械に置き換えていき、手や足を機械に変え内臓や骨を機械に変える。最終的に体のほとんどを機械に変えたその男は最後に脳も機械に変える。そして最後に作者はこう言う。
「さて、この男は人間なのでしょうか?」
くだらねえ。作者自身が答えを出すわけでもなく、読者にその質問を投げて、如何にも自分は高尚なことを言っていると自己満足して終わりの、意味のない内容だ。
でも、その質問自体は一考の余地がある。つまり人間の体をどこまで機械に置き換えたら人間じゃなくなるだろうってことだ。
全部機械に置き換えたら、そんなの人間じゃないだろう。当たり前だ。手や足や内臓をいくら機械に置き換えたとしてもサイボーグではあっても人間だ。しかし、流石に脳まで全部変えたらもはや人間じゃないだろう。当時の俺はそう結論した。でも、本当にそうなのか?
まあ、その境界線上にある微妙なものも存在する。例えばロボコップだ。ロボコップの主人公であるマーフィーは体のほとんどを機械化され、脳ですら大部分が失われ残っているのは大脳皮質の前頭葉の一部だけ。実際、映画の中では人間扱いされず、キロいくらの肉塊同然である。それでも最後には同僚や周りから人間として認められて終わる。
どんな酷い境遇にあっても彼は最後まで人間としての心を失わなかった。だから人間として認められた。
脳はごく一部でも人の心を持っていれば人間と認められる。納得である。
結局大事なのは、人の心ということになる。きれいにまとまったな。よし、ここで終わろう。
と言いたいところだが、そうは簡単にいかないだろう。そもそも人の心などというあやふやな物言いで片づけて良いんだろうか。もうちょっと考えてみよう。
かなり昔、(今では知ってる人もだいぶ少なくなったと思うが)エイトマンと言うアニメがあった。主人公の東八郎は事故で死亡直前にエイトマンの中の電子脳に記憶をすべて移し替えられた。
最近ではコンピューターに人間の記憶を移すというのは結構多数ある。シュタインズゲートの続編、アメリカのドラマでアップロードなどなど、探せばいくらでも出てきそうである。俺は人間の記憶というのが人の心で一番重要なものだと考える。機械に記憶を移した場合、機械に魂を移したといっても良いのではないだろうか。こうした人間としての肉体を失った存在はもはや人間ではないのだろうか。
記憶だけの存在。さっきの言い方では魂だけの存在。いろいろ難しくなってきたので、人間をコンピューターにたとえてみる。コンピューター本体が肉体で、記憶がソフトとなる。本体とソフトを繋ぐOSが本能ってことになるだろう。本来であればこれら三つが合わさってまともに機能するわけだ。
機械に記憶を移した存在は、本能が欠けている。本能ってのは生き物が生き物として存続していくための行動原理だ。それなくしては人間としての行動ができなくなる。さっき人間をコンピューターにたとえたが、本能がない状態はコンピューターのOSがない状態。さすがに動かすことは出来ない。残念だが、記憶だけの存在は人間とは言えないだろう。小説やらアニメではそこら辺をうまくやって記憶だけの存在にも人間味を持たせているが、何らかの方法で本能も取り込まなければ人間たり得ない。
逆に人間の体に、人間以外の記憶を移し替えられた存在は人間なのか。
スタートレックのある一話で、エンタープライズを乗っ取るため異星人が人間の体に異星人の記憶を持った状態で乗り込みエンタープライズを掌握したことがあった。カーク船長をはじめエンタープライズの乗組員は、あるものは酒を飲ませ、あるものはうまいものを食わせ、カーク船長は女性の異星人をたぶらかし(草)等々。そうやって、エンタープライズを取り戻した。要は食欲や性欲といった人間の本能に引っ張られる形で、異星人が人間化してしまったということだ。スタートレックの中での異星人は、メンタリティがほぼ人間なので、異星人といっても元々人間同様の存在なので簡単に解決してしまったが、実際本能というのは強力だ。
自分が知ってる限り記憶と本能を主題として描いている作品はなかったので(間接的には書かれているとは思うが)これをかいたら、もしかして面白い作品ができるかも?
論理的に考えるか。倫理的に考えるかでも答えは変わる。
長々と駄文を書いてきたが、こうした境界線を探る作業はそれなりに面白いがある意味不毛である。なので現在の俺が思う結論を述べる。
ぶっちゃけ、自分が人間だと思えば人間じゃないのかな。自分が人間である。そう思っていれば周りが何と言おうとも人間だ。と、ここでは結論づけたいと思う。
とまあ、ひとまず結論が出たのでここからは蛇足になる。
アイザック・アシモフ原作の映画でアンドリューNdr114という映画がある。人間になりたいと思ったロボットが人間になろうとする話だ。
ロボットである彼は人間の体、感覚、そう言った物を手に入れ徐々に人間に近づいてくる。最後にはロボットにありえない老衰という死を手に入れ周りの人から人間と認められる。今回の書いてきたことと全く逆のことをやっている。
でも、彼は本当に人間になれたのか?俺の考えはNOだ。彼は自分がロボットだと知っているから人間になろうとしている。だけど人間は人間になろうとしない。当たり前だ。すでに人間だからだ。周りの人に人間であることを認めてもらうことはしても、自分が人間であることは疑っていない。つまり、どんなに人間に近き周りの人々が人間だとい言っても、自分がロボットであることを知っている彼は最後の最後で人間にはなりえない。人間ではないからこそ人間になろうとするわけで、結局のところ人間はどこまで行っても人間であり、ロボットはどこまで行ってもロボットである。なんか呪いのようだ。
つまりこうだな。
神様 「ぐわっはっはは。これから貴様に人間としての生を与える。これで貴様は死ぬまで絶対に人間以外の者にはなりえないのだ」
生を与えられた者 「むう、なんて非道なことを。こんな呪いをかけるとは」
神様っていうか、なんか悪魔だねえ(草)