猫でいいから
(子猫って)
部屋で朝ごはんを取るラフジャーンとともに食事を済ませて、「いってらっしゃい」と送り出す。
「俺もできる限りの対策はするが、気をつけるように。女達の中に身分の高い者がいたから、ここまでの侵入が見過ごされたのだろう。警備にもよく言っておく」
「そうですね。私が怪我をしても、相手に怪我をさせても、問題が大きくなってしまいますし」
出がけに声をかけられ、エルナが頷いて返事をすると、ラフジャーンにじっと見つめられてしまった。
何かを窺う気配。
二人の間には昨日までとは明らかに違う緊張感があったが、エルナは力技で黙殺して笑顔で見送った。
内心はとんでもない暴風雨であった。
水と緑に恵まれた故郷を、ときに吹き荒れたあの嵐のように。
記憶が。
人間として生まれ育って生きてきた年月の記憶が。
エルナの胸の中によみがえりつつあった。
(子猫って、精神年齢いくつよ!? 私、今まであの方に……あああ思い出したくもない!!)
とんでもない。
とんでもないことをたくさんしてしまったような記憶が駆け巡る。
色々思い出した。思い出し過ぎて胸が痛い。いや、胸はどうでもいい。胸がどうこう(※大きいとか小さいとか)なんて二度と考えたくない。
(ラフジャーン殿下……、もうなんと言って詫びれば良いか!!)
昨日の夜あまりにしつこくしがみついたせいか、起きたら腕枕をされつつ抱き締められていた。温もりにすがりつけば、額や頬に控え目な口づけで応えてくれた気がする。寝ぼけて、甘えながら顎や首を舐めてしまったような覚えがある。幻覚かもしれない。幻覚ということにしてしまおう。
そうしなければ、自分がラフジャーンに愛されていると勘違いしてしまう。
ラフジャーンが愛しているのは「猫」であり、決して「人間のエルナ」ではない。
もしこれからも一緒にいたいのであれば、基本は「猫」だ。誰かを説得するために「人間の姿」は有効かもしれないが、可及的速やかに猫に戻らなければ、一緒に寝てもらえないどころか、今日明日にも部屋から追い出されてしまいそうな気配すらある。
(それは嫌)
猫としても人間のエルナとしても、今さらラフジャーンに見捨てられるなど耐えられそうにない。彼が好きなのが「猫」ならば、望むところだ。「猫」でいいから側にいたい。
「落ち着いて考えましょう……。ラフジャーン殿下が好きなのは『猫』。ただし、周りの人には『人間の姿』が有効。特に昨日来たようなご令嬢たちには効果抜群」
王宮内外では、普段は身分をたてにわがまま放題しているに違いない。しかし、「猫」相手に身分で張り合うのは難しいと考えたのか、ご令嬢たちは外見いじめに終始していた。挙句、攻めあぐねていた。
つまり、難癖つけにくい程度には「エルナ」の容姿に迫力があると考えて間違いない。胸に言及させなければ勝ちだ。
(猫に戻るにしても、うるさい人間は黙らせてからにしないと)
朝食前にラフジャーンが女官を呼び、エルナの身支度をお願いしてくれた。軽く湯を使って身体を清め、香料を肌に擦りこんでいる。髪はよく梳って一部を編み上げており、薔薇のような薄紅のドレスを着付けられていた。
王子が用意させただけあって、交易品の中でも最高級品である絹製であった。
猫のときは毛があるのを良いことに、言うならば裸で過ごしていた。(死にたい)着るものには元来さほど頓着していない。(それにしても、死にたい)とはいえ、人間にとっての衣服はただの布切れ以上の意味があるのを、いまのエルナは知っている。
(どこからどう見ても私の見た目はお金のかかった令嬢よね。これならあの女の人達だって文句のつけどころがないはず)
昨日の今日で、彼女たちから嫌がらせに出向いてくれるとは考えにくい。部屋の周りも、ラフジャーンの意向で警備が固められているだろう。
しかし、どうせ決着をつけなければならないのなら、早い方が良い。
エルナは部屋をぐるりと見回し、寄木細工のはまった窓を見る。掃き出しで庭に通じており、もちろん出て行くことが可能だ。
(宰相の娘ということは、誰かに聞けばいずれ見つかるはず)
王宮の構造は頭に入っていなかったが、以前自分が故国で暮らしていた建物と大きく違うとは思われない。強いて言えば、人目につかないよりは、さっさと人のいるところに出てしまった方が良い気がする。
ラフジャーンに話が行くまでに、かたをつけてしまいたい。
決意を胸に、窓を開け放つ。
柔らかな紅い布製の沓で、緑なす庭へと踏み出した。