魔王降臨
聞き覚えのある声だった。
(夜の闇)
身にまとっているのは、紫紺のローブ。フードをばさりと払うと、ゆるやかに波打つ黒髪があらわになる。
その顔立ちは余りにもうつくしい。笑みを湛えた目元はひどく甘い。
「喧嘩かな。もしかして、一人をみんなで取り囲んでいるの?」
声の愛想は限りなく良い。
向かい合う女たちに向けられた顔には、人好きのする微笑が浮かんでいた。
女たちは、一様に息を止めたように静まり返り、現れた人物を見ていた。
エルナだけは、緊張から顔を強張らせてその男の一挙手一投足を注視していた。
男はにこりと微笑む。光輝なる魔道王子の名で呼ばれるラフジャーンとは違う、妖艶な笑みだ。とはいえ、そこに湿っぽさや陰気さはない。あくまで、妖しいまでにうつくしいだけだ。
「久しぶりだね。元気だった?」
男は、親し気にエルナに声をかける。
エルナの黒瞳に影が差した。それを目にしただけで、男はすべて了解したとばかりに、片手で制する仕草をした。もうしゃべらなくても大丈夫だと。
そのまま大股に進み、女たちの横を素通りするとエルナの前に立つ。
一言も言う暇も与えず、その華奢な身体を包み込むように抱きしめた。
「ちょ……っ。やめっ……」
もがいても、しっかりと押さえ込んで、放す様子もない。
「いい匂いがするね。ミルラを贅沢に使っているのかな。大切にされているみたいで何よりだ」
首筋に顔を埋められた瞬間、エルナは息を飲んだ。
「おい。そこの」
地の底から響く不機嫌、空気がびしりと割れるような固い声が割って入った。
エルナをがっちりと抱え込んだまま、男は振り返る。
胸に抱き込まれたまま、エルナは相手と顔を合わせることになった。
(ラフジャーン……!)
* * *
その少し前。
涸れた水源のある地下道に入って、その日の作業に勤しんでいたラフジャーンの元に、ばたばたと駆け込んできた者があった。
「殿下。至急、地上へお戻りください」
跪くこともなく用件を告げるサラールを振り返り、ラフジャーンは不敵に微笑む。
「ようやく来たか」
すぐにサラールが先導し、ラフジャーンも後に続いて地上への階段を目指す。ほとんど走っているほどの速さであった。
階段をのぼりきったところは、水の絶えた噴水が設置された石壁の裏。
王宮内にいくつかある小さな庭の一つで、水源としては予備のようなもの。
止められても、王宮の生活にはさして支障が出ない。今すぐに大きな問題になるわけでもない。
(そういうところを狙ってくるということは、「そういう意味」だと思うんだが)
水の流れに悪さをしていたのは、魔道士が使役する妖霊であった。
捕えても捕らえても、飽きもせずに送り込まれてくる。戦闘になっても命の危機は感じていないが、とかく面倒くさい。しつこい、という苛立ちはある。何しろ相手から「本気」を一向に感じない。
戦争を仕掛ける気なら、もっと違うやりようがある。
これは単なる嫌がらせの類だ。それにしても、やり方が姑息だ。
(いい加減、本体を叩くか?)
妖霊を送り込んでくる魔道士の見当はついている。ここでちまちまとやり合っているよりも、決着をつけるときではないか。
相手の訪れが告げられたのは、そう思っていた矢先の出来事だった。
* * *
「待ちくたびれたぞ、妖霊の主。ここで終わらせてやる」
瞳を炯々と輝かせて石の廊下を走っていたラフジャーンであったが。
庭の一つを通り過ぎようとしたとき、妙なものが視界をかすめたことに気付いた。
それが何かを判別する前に、すでに足がそちらを向いていた。
タイル床を走り抜け、黒衣の男と対峙したときには表情が硬化していた。
「おい。そこの」
すでにして、声にも怒気が滲んでいた。
男は、薄紅色のドレスをまとった少女を抱き寄せたまま振り返る。
「こんにちは。魔王」
ラフジャーンは目を細めて顎を引き、男を睨み据える。
「ジンファのガルーダ殿下で相違ないな」
「ない」
腕の中で、少女がじたばたともがたいた。何か言おうとした口を、ガルーダの手が塞ぐ。
ラフジャーンが、完全に目を怒らせて一歩踏み出した。その足元を、ガルーダは鋭いまなざしで見ていた。
「魔王様、そこまで。私の用件はわかっているだろう?」
魔王呼ばわりされても、ラフジャーンは表情をまったく動かさずに相手を睨み続け、口を開く。
「そちらに私の使い魔を差し向けたことかな」
にこっとガルーダは笑みを深めた。
その次の瞬間、がらりと雰囲気を変えて激しい詰問口調で叫んだ。
「差し向けたどころか、お前、俺の寝所にいきなりイフリート投げ込んできやがったよな!? なんだあれ。離宮が一つ吹っ飛んだぞ。とんだ魔王がいたものだ!!」
「知りたいことがあったので、聞いてみようと思っただけだ。被害が出たとは知らなかった」
「真顔で嘘言うなよ。やる気でやっただろうが」
ふっとラフジャーンが初めて笑みをもらした。
「防げなかったのか?」
後ろについてきたサラールが、呆れ顔で呟く。
「精霊飛ばして探らせたって、そういうことですか……。穏便な諜報活動かと思ったら、がっつり暗殺未遂じゃないですか。マジですか……」
「俺がきっっっちり防いだから死傷者は出していないが、あれで平和的に話が進められると思っているなら、どうかしていると思うぞ!?」
ガルーダの言い分に対し、サラールは深く頷く。まことに遺憾ながら、正しいのはあちらであると言わんばかりに。
なお、エルナは押さえつけられて口を挟むことができずにいた。
観客となった女性陣はいずれ劣らぬ見目麗しい二人の白熱したやりとりを前に、魂を奪われたかのような腑抜けた表情になっていた。
ラフジャーンはそういった周囲の反応など何一つ目に入っていないようであった。
気にしているのはただ、エルナのことだけだ。
「その少女を解放しろ。さもなくばガルーダ殿、貴殿を殺す」
「解放しても殺すって顔してるぞ。それなら解放しない方がマシだな。このまま連れ帰るというのも」
んんー! むぐー! っとエルナが暴れる。
「乱暴に命を刈り取るのと、丁寧に殺すのでは雲泥の差だ。その手を離さないと支離滅裂な殺し方をしてやるぞ」
「さっきから俺に対して殺すしか言ってないように聞こえるんだが、魔王様正気か」
「殺す以外にどうしろというんだ?」
しん、とただでさえ静かであった辺りがなおさら静まり返った。
エルナだけが、んんむむむと声を上げていたが、差し当たり誰も気にしていない。
正確には、ラフジャーンだけが気にしている。
「これ以上待てない。決裂したようだ……」
さして残念でもなさそうに、ごくごくあっさりとラフジャーンは言い切った。
そのまま、額に手をあてて何かぶつぶつと言い始める。
「魔王……!」
ガルーダが叫んだ瞬間、ラフジャーンは額にあてていた手を拳にして振りかざし、宣言した。
「粗野にして乱暴なるもの」
「おい、あいつは加減というものを知らないのか!」
煉獄の天使召喚を耳にして、ガルーダはエルナから手を放しつつ咎めるように叫ぶ。
一方のエルナといえば、指を組み合わせてラフジャーンを見つめながら、潤んだまなざしで呟いた。
「さすがです、素敵……!」
「くっそ、馬鹿ばっかりだ。巻き込まれるなよ!」
優美にして光輝なる魔道王子が、まさかへまをしてエルナを傷つけることなどないだろうという絶大な信頼を胸に、ガルーダは己の術に集中する。
凄まじい竜巻が巻き起こるのを見ながら、エルナではなく、むしろ辺り全部に被害が出ないよう祈りを捧げた。
「霊鳥の翼よ、我らを守り給え! というかここお前の国だろ!?」
詠唱にぼやきをまぜながらも、バキバキメキメキと音を立てて木立を引きちぎろうとしていた竜巻を、拮抗する力で抑え込む。
突然の魔法対決に行き場をなくしていた人々が呆然と見守る中。
振りかざしていた拳をすっと下ろして、ラフジャーンはにこりと微笑んだ。
「無論、お前以外傷つけるつもりはない。おいで、エルナ」
甘やかな声に、顔をほころばせて少女は駆け出し、まるで自分を猫と疑ってもいない勢いでラフジャーンの腕の中に飛び込んだ。
「完璧です!!」
首に腕を回してしがみついてきたエルナを、しっかりと両腕で抱きしめてラフジャーンは穏やかに言った。
「来るのが少し遅かったようだ、すまない。ん、というかエルナはどうして部屋から出ていたんだ?」
「昨日の人たち、自分で締め上げようと思っていたところです。こっちはまだ途中だから、よろしければ殿下は兄上と決着をつけていてくださってもいいんですよ。私、感服いたしました。兄は本当に強大な魔道士だと思っていたんですけど、あんなに見事に真っ向から打ちのめすなんて……」
エルナの言葉を、滲むような笑みを浮かべて話を聞いていたラフジャーンは、一言、さりげなく確認の言葉を挟み込んだ。
「エルナ、記憶が戻っているね?」




