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表へ出たモネはというと、行きに感じた静かな良い暗がりに響く楽しそうな笑い声を、今は薄気味の悪い暗がりに響く不気味な笑い声に感じていた。後ろを振り向く事にすら躊躇いを持ちえて、早足に来た道を戻って行った。冷や汗が流れ息を切らしながらも潜めてようやく部屋まで戻ると、モネは扉を閉めたあと力が抜けてその場に座り込んでしまった。
息を落ち着かせようと上を向きながら、後ろから誰かが追ってきていなかっただろうかと思うと、扉の前から動けなかった。汗を拭おうとした彼女だったが、腕には赤い粉で掴まれた跡としてくっきりと残っていた。小さく悲鳴をあげたモネは、咄嗟に口を抑えた。そして耳をすましても、辺りに誰かが居る気配は無った。モネはそれでも、明かりをつけることに恐怖した。ひっそりと窓に掛かる布を下ろしてから、暗がりに目を慣らしたあとで浴室へ行くと、ほんの少しづつ水を出しながら音をたてないように腕を洗った。
腕を拭ったあと布を濡らして顔や首周りの汗を拭うと、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。ひたりひたりと、音をたてないように歩き荷物をまとめると、扉の前まで戻りワイスの上着を頭から被ると、扉の前で足を抱いて座り込み外が明るくなるのを待った。薄らと聴こえるただの虫が鳴く声も、今のモネには暗がりをさらに薄気味悪くさせる音にしか聴こえなかった。
顔を膝に埋めては時折眠ってしまったと思い、はっと窓の方を見上げるも、外はまだ暗がりのまま。夢を見ることも出来ず、横になる事も出来ない長い暗がりは、彼女にとってこれまでに無い長い暗がりだった。疲労で何も思い浮かばず、今は何も考えることが出来ないでいた。ただただ明るみを望んで顔を上げた幾度目かに、ようやく薄明るさが窓掛けの隙間から見えた。
モネは恐る恐る窓掛けの隙間から外の様子を覗くと、先日に見たような風景と変わらなかった。誰かが居る気配も無いことを感じた彼女は、そっと窓掛けを上げると、部屋の中に忘れ物が無いかと確かめて、扉を開く時も閉める時も、これ程静かにしたことは無い程にひっそりと外へ出た。靄の中で腰を下ろして靴を履くと、久しぶりに履いた靴は温かく感じた。
「おや、やっと起きたのかい」
モネがとんとんと履き心地を確かめて縁門を通ろうとした時、どこからかソムの声が聴こえた。思わず固まってしまった彼女が、怯えながら辺りを見渡すと、縁門の隅に酒筒を片手に寝そべるソムが体を起こそうとしていた。モネは肩にかかる荷物の紐を握り締めながら、近づいてくる彼を見ているしか出来なかった。
「ずっと、そこに居たんですか」
「ああ、居たよー。
君が帰っちゃうと思ったからね」
「はい。もう、下へ帰ります。
たくさんお世話にもなりましたし、招いて頂いたにも関わらず、失礼な事をしてしまいました。
ごめんなさい。でも、私にはここの暮らしは合わないと思うので。お世話になりました」
「そうか、残念だよ。
君が帰っちゃう前に、びっくりさせてしまったことを謝りたくてね。済まない事をした」
「い、いえ。びっくりしてしまいましたけれど、私の振る舞いは失礼だったと思いますし」
「お詫びに、この街の先にある場所を案内しようと思うんだけれど、どうかな。
星の降り注ぐ町が、そう呼ばれるようになった原因を作った場所だよ。皆は眠っているし、私も赤い粉はやっていない。お酒は少し、呑んでいるけれどね。下へ帰るのは、その場所を見てからでも遅くはないだろう?」
モネは伏せ目がちにしばらく黙り込んだあと、「分かりました、お願いします」と言った。そして歩き出したソムに続いて、また上へと進んで行った。長くはないにしろ短くもない道程を、ソムは振り返ること無く歩き続け、モネはただ彼の後を歩くだけで、二人に会話はなかった。逃げ出した大きな建物まで来ると、靄は晴れて辺りは透き通るような明るみだった。建物を横切り、さらに奥へと進むと樹面が剥き出しになった道へ出た。ソムは裸足のまま、モネは靴のまま進んで行くと、その道は上へ上へと続いていた。そして道なりに進むと、窪みから続く道を通り過ぎて、上へと進んで行くと、道は途切れて行き止まりだった。
「上へ続く道はね、ここまでなんだ。
これ以上行くには、ちょっと技術が必要でね。
さ、次行こうか」
引き返した二人は、道中にあった窪みの中にある道へ入って行った。その道を抜けると、モネは言葉を失った。そこには太く枝分かれしている樹の道に、頭上にも足下にもぶら下がるように赤い実が実っていた。その鮮やかで綺麗過ぎる色合いの景色に、彼女は恐怖すら感じていた。大小様々な赤い実の中を、ソムは進んで行くとモネに手招きをした。彼の隣まで行くと、見た目以上に足元の樹は靱やかで少し揺れていた。
「町へ降り注いだフェルムはね、彼はここから落ちだんだ。こんな風にね」
ソムはその言葉と共に、モネの背中を押した。足を踏み外した彼女は、辛うじて足元の樹に掴まりながら幾つもの赤い実が落ちていくのを見た。そして上を見上げると、ソムに見下されるように見られていた。
「ここを見つけてからはね、そりゃあ彼とこの実を研究したんだよ、懐かしいなあ。それでね、私はあの赤い粉を、彼はこの実が病気の治療に使える事を見つけたんだ。二人で喜んだけれど、嫉妬しちゃったなあ。今だから、言える事だけれどね。フェルムは、とても良い奴だった。あの赤い粉の薬漬けになっている私に、いつも止めろ止めろもう止めろ、と止めてくれていたんだよ。それはもう、うんざりするほどにね。だからね、ここでまたごちゃごちゃと言われた時にね、揉み合った拍子に彼は落下してしまったんだ」
話しながら、ソムはぶら下がっているモネの手を飛び跳ねて跨ぐと、その衝撃に樹はとても揺れた。必死に掴みかかるモネは、「お願い、助けて!」と、ソムを見た。
「助けたら、君は下へ降りてみんなに言いふらすだろう?」
「誰にも言わないわ!
黙っているからお願い助けて!」
「いいやあ、君は言うねえ。お友達の、ルヒ君にもね。ああ、そうだ。彼はもう、居ないんだった。樹に還ったよ。さっき行った道の上へ行くには、彼の技術が必要だったのに。一体誰の仕業かなあ、薬物依存の彼へ赤い実をあげたのは。一体っ、だれのっ、仕業っかなあ!」
ソムは何度も大きく飛び跳ねて、モネがぶら下がっている樹を揺らした。幾つもの赤い実と、必死に助けを乞う彼女の涙が下へ落ちていく中、ソムはそれを眺めながらその場へ座り込んだ。
「まあ、言いふらされても良いんだよ。だって、君が何を言ったって、誰が信じるって言うんだい?皆が軽蔑する下から来た小娘が話すことを、一体誰が信じるって言うんだい。誰が何の為に学校を作ったと、誰が何の為に樹陽の街へ幾度と出向いて居たと、誰が何の為に君をこの街へ招いたと。この時の為さ。いくら根の町と分断出来たからって、限りがあるからね。せっかく形作った物をぶち壊されない為に、常に見張って居たんだよ。ルヒが余計な事を口走らないか、根から害が上がって来ないかとね。残念な事に、君は良い子だった。さらに残念な事に、君は私達とは仲良くなれそうにない。だからもう、さよならだ」
ソムは立ち上がると彼女を見下し、樹に掴みかかりながら彼を見つめて助けを乞うモネの手を、足蹴にして蹴り外した。彼女は周りにある幾つもの赤い実にしがみつこうとしたが、為す術もなく実と共に下へ落ちた。ソムは耳を傾けすましたが、モネの悲鳴は聴こえなかった。それを残念そうに溜息をつくと、彼は呟いた。
「残念だったね。君は間違いなく薬で、私達は毒なのだろう。でも君だけじゃ、足りなかったね。君には毒が足りない。私達を殺してしまうほどの、毒となり得るものがね。ただの万能薬じゃ、猛毒には効かないんだよ」
モネの中には、もう何も思いは無かった。彼女は赤い実に囲まれながら落ちていく中で、何度も気を失った。風に煽られ、とてもとても長い時間を掛けて下へ落ちて行った。途切れ途切れの意識の中で、樹の姿をぐるりと見て回るようだった。初めて外から見るこの大きな樹は、幼い頃からおじいさんから聞いていた話よりも、ずっとずっと美しかった。途切れた意識の中では、ソムやルヒそしてワイス等と出会った事や、街の景色や賑わいが繰り返された。そして街へ辿り着く前に樹と戯れるように登った道のりを思い出していると、モネは目を覚ました。身体には、力が入らなかった。目を開けても大勢に囲まれているようで何も見えず、暗かった。聞こうとしても、騒がしい声で溢れ返っていて、何も聞こえなかった。彼女はどうしようにもなく目を閉じると、そこには樹が見えた。
「この樹は、本当に美しかった」
モネが口を開こうとすると、周りは息を潜めて静まり返った。消え入る声で言ったその言葉に、どうしてか涙を流す者もいた。赤い実に塗れたモネは、そのまま眠るように息をしなくなり、ゆっくりと樹に還っていった。そばには大昔に降り注いだ男の墓があったこともあり、星の降り注ぐ町のおとぎ話に、新たに続きが紡がれて伝わる事になった。騒ぎが落ち着いた後、モネは大勢の町のものに弔われた。そして後日、彼女の荷物を整理していると、その中には「樹」と書かれた真っ新な白紙の冊子が入っていた。モネはここに、どんな物語を書こうとしていたのだろうか。時が流れてしばらく、「樹」の白紙には彼女を尋ねて来た女性の涙と、いつかの若葉が添えられていた。
終




