修行開始
彷徨う死体とでも形容できるそれは、イリスがパチンと指を鳴らすのと同時に、崩れ落ちるようにして形を無くした。それが立っていた場所には、灰のような白い砂が残っているだけで、その砂すらも吹き抜けた風によって飛ばされ、その場に何かが残ることはなかった。
一連のことが起こる間、キリウはほとんど話すことなく、ただじっと目の前の光景をみつめていた。
そんなキリウを見て怯えていると思ったのか、努めて明るくイリスはキリウに話しかけた。
「ま、こんな感じ。大したことなかっただろ?」
イリスはキリウに力を教えると言ったが、実際にはこちらの道に歩いてきてほしくはなかった。というのは、自分について来たところで、危険なことには変わりがないのをわかっていたからだ。
教徒を始末して回っている以上、何時、どんな目に遭うかわからない。それ故にイリスは遠まわしに何度も聞いた。逃げてもいいんだぞ、と。
見捨てる、という選択肢もあったが、アリスが見えた時点で、死霊術の入口に立つ姿を見た時点でその選択肢は消えた。
故に、イリスはキリウを見極めることにした。戦うか、逃げるか。
今の光景を見て逃げてくれるようなら、イリスとしてはありがたかった。最低限の死霊術の知識と護身を教えて近場の町へと送って、ただそれまでだ。イリスもどちらかというならそれを望んでいた。
ただ、誤算があったとすれば――
「……はい、そうですね。でも、これで自分の身を守れると思わないんですが」
想像を上回る、キリウの尋常ではない意思の固さと、そして恐ろしいほどの冷静さだろうか。
ただ、イリスもこうなることをどこか予想できていたのだろう、驚きはさほどなかった。
「安心しな。他にもちゃんと教えるさ」
これから面白くなりそうだ。イリスはそう思い、心の中で一人、不敵に笑った。
「さーて、何から教えたもんかね」
イリスはそう言って、コキコキと音を立てながら首を左右に捻った。
「はいはい! はい!」
実はなにも考えていなかったであろうイリスの横で、アリスがウサギの様にぴょんぴょんと跳ねながら小さい身体で勢い良く手を上げた。
「はい、アリスちゃん。何か意見かね?」
「はーい! さっき見せたみたいに、魂を見る訓練をするべきだと思うの!」
「んー、なるほど。まずはその方針でいこう。えらいぞアリス」
「えへへー」
イリスがアリスの頭をこれでもかというくらい撫で繰り回す。「やめてよー」と口では言っているが、アリスも嬉しそうに笑顔を浮かべる。
キリウはアリスが幽霊になってしまった経緯など聞いていない。しかし、その光景は正に母と娘そのもので、生者や死者ということなど関係ないと思わせてくれる光景だった。
ようやくイリスが撫でるのを止め、気を取り直すように咳払いを一つしてから、キリウに向き直る。
「キリウ、お前はまだ入口に立ったばっかりだ。だからまだ多少、見る力にムラがあるんだと思う」
「でも、アリスは見えてますよ?」
「アリスは霊力が強いからな」
「霊力?」
「そう、霊力。霊力は生きるもの全てに宿っている。そして幽霊や魂といったものは特に霊力が強い。アリスはその中でも特別霊力が強いから見えやすいんだ。ちょっと見てな」
イリスはそう言って、自身の右手を掌が上になるようにして真横に伸ばした。
キリウが伸ばされた腕を眺めていると、先ほど見た球のように、イリスの腕が青白く光り始めた。
「見えてるだろ? これが霊力さ。死霊使い《ネクロマンサー》は霊力を感じ取って魂を見てるんだ。今キリウにはアリスしか見えてないかもしれないが、実際には周りにかなりの数の魂が浮いているぞ」
「なんで他の魂は見えないんでしょう?」
「おそらく意識を向けてないからだ。ちょっと意識を集中して周りを見渡してみろ。いいか、視覚に頼るな、感じ取るんだ」
イリスに言われたとおりに、キリウは集中して辺りを見渡す。
じっと何もない空間をただみつめてみるが、光一つ浮かびはしない。
感じ取る、という抽象的な言葉は、何の経験も無いキリウからすると何をどうしたらいいのかわからない。ただ闇雲に視線をあちらこちらに向けているだけだった。
「今日はこんなところで止めにしておこうか」
「……はい」
「そう落ち込むな、アリスが見えてるだけ上出来さ」
辺りは既に暗くなり始めており、もう日が落ちる寸前と言うところだった。
結果から言ってしまうと、結局ほとんど成果を得ることは出来なかった。
イリスがまた霊力を手に帯びさしてそれを見てみたり、アリスに自分の霊力を意図的に下げてもらったりと色々な手を尽くしたが、ある段階まで行くと、キリウの目にはぷっつりと見えなくなってしまい、現状ある程度の霊力の高さを持っていないと見えないことがわかった。
「どうしてかなー、間違いなく素質はあると思うのになー」
「そうだねえ」
イリスとアリスがうーんと首を捻る。
休み無く訓練を続けていたキリウは肉体的にも、精神的にも疲労の色が見え、その場に座り込んでふうと一つ溜息をついていた。イリスもキリウの疲労具合を察して訓練を止めたのだろう。
「まあ時間はある。気長に続けていこう」
そう言ってイリスは微笑みながら座り込むキリウの頭を撫でた。
いくら疲れていたとはいえ、頭を撫でられるというのは流石に恥ずかしかったのか、キリウは思わず俯いて、赤くなった顔を見えないように隠した。
幸か不幸か、キリウを撫でる様子を見てか「私もー」とアリスが撫でるのをねだり始めたため、キリウの頭をを撫でる手はすぐに止まった。
「案外、寝て起きたら見えるようになってたりするかもね」
励ましのつもりだろう、アリスの頭を撫でながらイリスがそう言った。
「それはそれで、今日の苦労が消えちゃう気がしてちょっと複雑ですけどね」
「はっはっは、それもそうか」
今日の訓練はここで終わり、イリスがあらかじめ用意していた夕食を食べ、少し早く床についた。
満腹感に結構な疲労もあり、キリウは猛烈に襲い来る睡魔によって、あっという間に眠りに落ちた。
次の日の朝。
キリウは呆けた様に目の前に映る物を見つめていた。
そこには、昨日いくら見ようとしても見えなかった青白い光の集団が、あちらこちらに浮いており、更に言うなら大きさや光の強さまで鮮明にキリウの目に映っていた。
喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。
その時のキリウの複雑な心境は、きっと想像に難くないだろう。