フィオナと神琉
神琉と初対面を交わしたフィオナだが、それ以降は向かい合ったまま沈黙を保っていた。公爵に渡された資料を手に、カップを手にする動作は洗練されていて、緊張もしていないように見える。逆にフィオナはカチコチに固まっていた。
後ろにアンリが控えているもののそれ以外に人はいない。公爵は、神琉とフィオナを対面させた後は、所用があると言って退室してしまったのだ。
「……」
黙っているのを良いことに、チラリとフィオナは目の前の神琉を観察する。少し長めの銀髪は後ろで束ねられているらしい。前髪から少しだけ見える藍色の瞳。今まであった皇王もそうだが、さきの公爵といい、身分が高い人は見目麗しい人が多いのだろうか。否、人ではなく魔族なのだが……。
神琉を見ていると、フィオナはふと身体が震えるのを感じた。
(……なんだろう。何か、怖い……気がする)
彼が何かをしているわけではないだろうが、彼の空気がどこか張りつめているようにも感じた。皇王へ感じた恐怖にも似ているそれが何なのかはフィオナにはわからない。そうしていると、ふと神琉が視線を上げた。
「……どうした?」
「っ‼ い、いえ……その」
自分でも素っ頓狂な声を出してしまったと思った。突然声を掛けられれば誰だって驚く。加えてじっとみていたのだから尚更だろう。フィオナの様子に呆れたのか神琉は深く息を吐いた。
「お前は何をどのくらい聞いている?」
「あ、何をって……その、どういうこと、でしょうか?」
「俺は、先ほど皇王の命だと聞かされた。お前との婚姻をだ」
「はい。私も皇王様に告げられました」
「それだけか?」
「そ、それだけとはどういうことでしょうか?」
フィオナは婚姻のことしか聞いていない。その後のことも何も聞いていないのが事実だった。だが、神琉がどのことを指して言っているのかがフィオナには理解できていない。神琉にはそれが伝わったのか、再びため息をつかれた。すると、神琉が扉の方へ声を掛ける。
「……燕、瑠衣、いるんだろう? 入れ」
「もういいのですか? 若君」
「入るよ」
扉から声が返ってきたと思うと、そこには男女の姿があった。紅い髪と瞳、髪の長さ以外が二人はとても似ていた。ツカツカと神琉の横に並ぶと、彼らを見ていたフィオナを視線があった。
「これが人間の王族ね。神琉の相手ってわけだ……あんた本気か? 魔族に輿入れなんて」
「口を慎みなさいよ、燕。若君の婚約者なのだから」
いかにも認めないようなぶしつけな視線を男、燕はフィオナにぶつけてくる。だが、反対に女性、瑠衣の方はフィオナを庇うように燕を窘めた。
「瑠衣、あとはよろしく頼む。燕は俺と来い」
「若君?」
「りょーかいっと」
「何も知らないらしい。教えてやってくれ」
「……なるほど、わかりました」
それだけ指示をすると、神琉はフィオナに視線を合わせた。
「彼らは信用できる。教えてもらうといい。俺と結婚するということがどういうことかを」
「あ、は……はい」
ぶっきらぼうに告げると、燕を伴って神琉は部屋を出ていった。フィオナにはそれをただ茫然と見送ることしかできなかった。そうして再び、残された瑠衣という女性をみる。彼女は神琉がいなくなると、フィオナの横に移動していた。そして、礼をとる。
「改めてご挨拶を。エルウィン=グラコス様、瑠衣=サールインでございます。先ほど若君と共にいたのは燕=サールイン。私の双子の弟です。私たちは若君の護衛と側近を務めておりますので、何か困りごとがあればおっしゃってください」
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「そう緊張されなくてもよいですよ。若君の奥方になられるのですから、私どもにもそれほど丁寧に接していただく必要はありません」
「あ……その、善処、します」
「そうしてください」
にっこりと柔らかく微笑む瑠衣に、フィオナは安堵を覚えた。先ほど神琉に抱いた恐怖は今はない。
「それで、そちらの侍女殿をご紹介いただけますか?」
「あっ、すみません。アンリ=フィネットです。私と共にここについてきてくれた侍女です」
フィオナは慌ててアンリを紹介する。アンリは瑠衣の視線を受けて、深く頭を垂れた。
「アンリ、と申します。これからどうぞ宜しくお願い致します」
「こちらこそ。アンリ、と呼ばせていただくわ」
「はい。瑠衣様、でよろしいでしょうか?」
「様は不要なのだけれど、まぁそちらの流儀にあわせるわね。それより、エルウィン様こちらのことをほとんど知らないというのは事実でしょうか?」
フィオナは頷く。ほとんどどころか全く知らない。ここがどこなのかさえわからないのだ。それを告げると、瑠衣は嫌な顔をせずに教えてくれた。神琉が言っていたことから想像がついていたのかもしれないが。
瑠衣の説明によると、ここはシュバルツの皇都にあるレヴィンドライ公爵邸。要するに神琉の父である煉琉の屋敷だ。公爵家の長子である神琉は、通常はここではなく領地にある神琉の屋敷にいるらしい。この家を継ぐのは神琉ではなく、神琉の弟だというが、そのあたりはこの公爵家のしきたりの範囲になるので今は覚えなくてよいと言われた。
大事なのは、婚姻のことである。
魔族の婚姻は、その血と交わることで成立となるらしい。その儀式とは、相手の血をその身に受け入れること。婚儀の際に神琉の血を飲むこと。フィオナは正直それだけなのか、と感じたが、そう簡単ではないようだ。
「若君は、歴代の当主よりも強い力をもっています。魔族の血は魔力そのもの。それを受け入れるということは、恐らくエルウィン様に多大なる苦痛を与えるでしょう。最悪、死に至る可能性もあります」
「えっ……」
死に至ることもある。ただ結婚するだけだというのに。フィオナの表情が真っ青になった。だが、瑠衣は続ける。
「ただの魔族ならば例え人間であっても問題はないのでしょう。しかし神琉様はただの魔族ではありません。皇族の血を引くだけではなく、その血を現存する魔族の中でも濃く受け継いでおいでです。エルウィン様がそれに耐えれるかどうか……知った上で婚姻の話を今一度考えたほうがよろしいと思います」
死する覚悟が必要。たかが婚姻。だが、その認識は人間と魔族では異なっていた。人間にとって魔族の血は異端であり、排除すべきもののはず。それを受け入れることで初めて魔族の嫁として受け入れられるという。そこまでの覚悟はしてこなかった。
瑠衣からもたらされた情報は、フィオナに重くのしかかる。
(考える……? でも断ることなんてできない……私にはこれを受け入れるしかない……でも、それはつまり、私は死ぬということ)
それは死をも覚悟できるか。神琉の血は普通じゃないという。だから彼に嫁ぐならば覚悟が必要。しかし、フィオナがここに来たのは嫁ぐためだ。これを受け入れられなければフィオナの家族はどうなるのか。フィオナは震えそうになる両手をぎゅっと握りしめた。
何度頭で考えても、結局フィオナは同じ答えに行きつく。
仕方がない。覚悟しなくては。でも……やはり死ぬのは嫌だ。これはフィオナの偽りなき本心である。死にたくない。それでもフィオナは死んでしまうのだろうか。
もしかすると国王はそれを知っていたのかもしれない。知っていたからこそ、フィオナを身代わりにと添えた。他人であるフィオナならば死んでも構わないと。フィオナは死ぬことを望まれていたのだろうか。初めから、そのつもりでフィオナを選んだのだと。
涙がこぼれ落ちそうになるのをフィオナは必死に耐えた。諦められるとも思った。家族のためならば、どんなことでも大丈夫だと。でも……それでも。
「……少しだけ時間を、ください」
今のフィオナにはこれが精一杯の返事だった。