背中合わせ
喧嘩をした。
内容はもう忘れてしまった。
それくらい、多分きっかけは馬鹿みたいに些細なことだったと思う。
彼は思いつく限りの暴言を吐きながら私の部屋を出ていった。
財布。携帯電話。車のキー。煙草。
彼の持ち物はそれくらいで、だから彼は、彼がいたことを証明するそれらの荷物すべてを持ち去って行った。
残された彼の所持品は一つ。私だけ。
でも、彼はもう私を取りには来ないだろう。何だかそんな気がした。それどころか、この先私のこの2LDKの部屋にもやってくることが無ければ、連絡すらしてこないのではないか。持ち物を徹底的に持ち去っている彼のことだ。今頃電話帳から私のデータを消して、更に自分のメールアドレスも変更しているんだろう。
そうだ、きっと彼はもう帰ってこない。
追いかけることはしなかった。そんなことをするのは「梓弓」に出てくる女だけで十分。あんな未練たらしいこと、する方が格好悪い。そう思って(いたのかどうかはわからないが)追いかけることも、暴言を言い返すこともしなかった。
これまでも喧嘩をすることはあった。それこそこれまでもくだらない内容の喧嘩だったような気がする。お互い沸点の低い者同士、わかり合うのは不可能だったのかもしれない。思い返せば、付き合ってこそいたものの、彼が私を好きだったかどうかは定かではない。そうだ、お互いどちらから告白するということもなく、ある時からLINEのやり取りが増えて、なんとなくお互いのことを知って、彼が私の家に来るようになって、そのまま、ずるずると、ゆるゆると。付き合ってたとも言えないかもしれない。
そういえばかなり前に言われたなぁ。いつぐらいだったっけ、半年くらい一緒に働いて、何かの会話の時に「お前は俺の好みじゃない」って。……あーあ、思い出した。思い出して勝手に傷ついて。何だかな。んー……でもやっぱり好きだったのかな。うん。多分好きだった。もう彼は私の物になんてならない。というかきっと、始めから私の物なんかじゃなかった。そうだ、所持品ですらないから置いて行ったんだ。
元カノさんの話とか聞いたなぁ。別に誰かの元カノの話なんて聞いたところで傷つきはしないけど、何だったか、えーと、結構なレベルのヤンデレだったか、かわいかったとは聞いたけど。より、戻してみようか、なんて笑ってたな。友達に行ったら「次は殺されるぞ」って言われたらしいけど。いいじゃん、戻りなよ。戻って殺されればいいさ。きっと一生私は彼が死んだことになんて気づかなくて、一生知らないままで、死ぬときにそういえば年上の彼はもう死んだのかなぁ死んだかどうか私が死ぬまでに教えてくれれば泣いてあげたのになぁハハハって笑って。
私は結局一度も彼に「好き」なんて言わなかったし、彼も私に言わなかった。明確に恋をしているなんてわからない、ただの「仕事仲間」で、彼にとってそれ以上ではなかったから、これまで私に優しかったんだろう。よく彼の運転で仕事現場に向かった。そういえば、煙草に火をつける時に少し首を傾ける仕草、好きだったなぁ。
彼を失って最初の朝。開いた窓から洗い立ての風が吹き込んで、カーテンをかすかに翻す。机に突っ伏したまま寝てしまっていたらしい。ふらつきながら立ち上がると、ふわりと煙草のにおいが鼻孔をついた。髪に移った彼の煙草のにおい。
ニコチンの香りが風にさらわれないように、窓を閉めた。