一話~出会い4~
『悪魔召喚の書』
第九十九章。
幸福は、人を堕落させる最も恐ろしい悪魔である。
生温い夜風が、獣のように唸っている。真っ暗な空には満月だけで、だが月光は太陽よりも地と人を照らしているようだ。正確には、人の欲を浮かび上がらせる。だから、月光が優しいなんて嘘だ。
そんな月光から、オレは大樹の陰に隠れて逃れていた。
息を潜める。荒い息遣いが聞こえる。複数の足音が枝葉を踏んでいる。規則性はない。ただただ乱雑に、乱暴に、地を踏み荒らしている。
この辺りを根城にしている山賊だ。今夜もどこかの村を襲うつもりだろう。
奴らにオレは見えない。オレには奴らがよく見えた。幼かったオレが最初に覚えたのが、暗視の術だった。
きっと、こういう時のために――
オレは漆黒のフードを深く被り直した。
「地の精よ、我が声に応え、姿を成せ」
冷たい地面に手を置き、囁くように唱えると、オレの周りだけが光に包まれた。
「なっ、なんだ?」
「誰かいやがんのか?」
突如明るくなった木々の合間に困惑し、奴らが歩みを乱す。と、五、六人の小さな人影が、ちょこまかと茂みから飛び出した。
「なっ、……子ども?」
「馬鹿! こんな山奥にガキがいるわけねぇだろ!」
「でっ、でも……!」
混乱する相手に、オレはにやりと笑う。
飛び出した小さな人影は、オレの言霊に応えた地の精達だ。彼らがすることは、精々服を引っ張ったり、擽ったりと些細な悪戯ばかりだが、普通の人間からすれば奇怪なことだろう。
「誰だ! 俺の足を踏ん付けたのはっ?」
「ひやぁ! せっ、背中に虫がぁ……!」
「ひゃぎゃあ! やっやめろぉ! 擽ってぇ!」
今夜の精霊達は、どうやらいつも以上に悪戯好きばかりのようだ。オレには好都合だった。
「おまえら! 落ち着け!」
頭らしい男が喚いた。だが、一度混乱したその場を統率することはできなかった。
オレは身を潜めていた大樹に手を当て、再び言霊を唱える。
「樹の精よ、我が声に応え、彼者を捕えよ」
大樹の鼓動を感じた。それは大きく、オレ自身も震わせたかと思えば、枝を勢い良く伸ばす。
「なぁ! なんだぁ!」
「ぎゃああ! 化けもんだ!」
「馬鹿野郎! そんなもんがいるわけっ……一体誰だ!」
「助けてくれぇ……!」
逃げようとする男達を、大樹の枝は次々と絡め取っていく。まるで、蜘蛛の巣に引っかかった虫のようだった。
「ただの枝だ! 剣を抜け! 馬鹿ども!」
頭の男が叫んだが、やはり効果はなかった。それに、剣もその腰にない。地の精達がすでに没収している。
「剣? 剣? 俺の剣は?」
「俺のもねぇ!」
右往左往している手下達も、武器を手探りしている内に、せっかく逃れた枝に捕まった。
「ちっくしょう! なんなんだ一体!」
何が起こったか教えてやる義理はない。
最後のひとりが大樹の太い枝に捕まった。
大樹の陰で、宙ぶらりんになる山賊達を見て、オレは一息吐く。
「絞め殺されないだけ有り難いと思え」
後は報告するだけ。
踵を返したオレを、金色の双眸が見詰めていた。
「やさしいのね、マスターって。これじゃあ人助けじゃん」
「少しは手伝ってくれよ、フェリー」
赤い猫は顔を洗った。
「手伝うことなんて何もないじゃない」
「まだ一回もフェリーの力を見たことないんだけど……」
近寄るオレから、猫の姿のフェリーはするりと逃げる。
「その内、ね」
ウィンクするこの猫は、本当にすごい悪魔なんだろうか?
てくてくと歩き出す赤い猫について行きながら、オレは思った。
「マスターが、……」
「え? 何か言った?」
フェリーの声が聞こえなかった。
「なんでもなぁい」
誤魔化すそれは、オレの不信感をわざと煽るようだった。
背後では、山賊達が助けを求めている。
安心しろ。明日、憲兵隊が逮捕という名の救助にやってくる。その後のことは知らない。
地と樹の精が、徐々に元の姿へと還っていく。
助けてくれて、ありがとう。
オレは、心の中で精霊達にお礼を告げ、その場を後にした。