三話~呪いの書と悪魔と女神の怒り6~
2021年1月18日 加筆。
嵐の前の静けさとは、まさにこのことなのだろうか。
リチャードの顔は真っ青を通り越し、血の気が失せて白くなっていた。カドフェルも数人の聖職者も、何が起こったのか分からずに狼狽している。
が、一番困惑しているのは、オレだった。
「フェリー……ど、どうしたんだよ……?」
いつも心を乱すのはオレだ。でも、今は――
「マスターさん、これは危険です」
ミセリアがオレの横に舞い降りた。厳しい表情を浮かべている彼女をはじめて見た。
「ミセリア、フェリーは一体……」
「変われないんです、わたし達は」
厳しい表情は、哀しいそれに変わった。
「フェリーさんは、以前幼い命を……」
「黙って、不幸の女神」
ゆらりと振り向く幸福の悪魔は、不幸の女神を濃い金色の双眸で見据えた。
感情のない目――本当にこれがフェリー?
オレの知っているフェリーは、嫌味が多くて、皮肉ばっかりで、猫の姿で寝過ぎていて、呆れていることが多いけど、いつも……
「マスター」
聴き慣れた彼女の声に、ぞくりと背筋が凍った。お
「あたしは、悪魔。人間とは違う」
「でも、誰よりも優しいじゃないか」
「そう?」
くすりと妖艶な笑みとオレに伸ばされた手。さっき消えてしまった幼い手のようだった。
触れたくなる。引き寄せられる。
「フェリー……」
「駄目です! 今はっ……」
「ミセリア、邪魔よ!」
「前のような過ちは絶対にさせません!」
「黙れと言っただろう!」
ミセリアの制止に、激情するフェリー。その手に真っ赤な炎が立ち上っていた。
「ぐっ……!」
瞬間、内側から内臓が引き上げられる感覚がして、頭の中に火花が散った。目の前が真っ暗になる。
「フェリーさん! 落ち着いて! マスターさんの命が持ちません!」
「代わりはいくらでも……」
「いません! フェリーさんには、ダリアさんが必要よ! それはご自身が一番分かっているでしょう!」
何が起こっているのか、オレには見えない。
でも、悲しく、激しい怒りが、抜けていく力とは反対に、流れ込んでくる。まるで濁流だった。
「フェリー……」
オレは思わず呟いた。
「オレは、……絶対におまえを独りにしない。必ず、なるんだ……おまえと一緒に、世界を変える……」
「ッ……」
フェリーが戸惑った気がした。
立ち上がれないオレを、支える手があった。
「つ、掴まってください」
「リチャード……?」
視界が揺らぎながらも戻って来る。
「君の言葉なら、必ず届く」
怯えるリチャードは、それでもオレを立たせてくれた。
「ありがとう、リチャード」
「いえ……彼女を、止めてください」
オレは、苦笑する。
「がんばってみるさ」
リチャードの表情が強張った。
しかし、嘘吐くよりはよっぽどいいと思った。
オレは、フェリーに向き直る。視界は相変わらず揺れてはいたが、辺りはしっかり見えていた。
彼女の表情と金色の瞳は――怒りに染まり、そして、泣いていた。美しく落ちるその雫に、世界のすべてが映っている気がした。
オレは、それに釘付けになる。
さっきまで『呪いの書』で荒れ狂っていた周りは、カドフェルや他の聖職者達の聖なる力で浄化されたはずなのに、それを一瞬の内に凌駕した魔力の持ち主。
「幸福の悪魔フェリーキタース」
彼女の正式な名を呼ぶのは、久しぶりな気がした。
情けないことに、声が震えていた。地に足が縫い付けられてしまったような、しかし膝に力が入らない。
『ったく、それでもあたしの主なの? マスター』
いつもみたいに、そう言ってくれよ。
オレの心ばかり読む、捻くれた赤い猫。
「我、ダリア・カーチスと契約した者よ」
オレは、掌を差し伸べた。
「我と共に行こう。我が……オレが、魔王になるのを見守ってくれるんだろ?」
怒りに満ちていた金色の瞳の奥――その向こうに見えた、彼女の微かな記憶の欠片。
小さな男の子が泣いていた。
必死で手を伸ばし、誰かを呼んでいた。
でも、声は聞こえない。
いや、彼は……彼には、声が……言葉が…………
唇の端から滑り込む塩辛さに、オレは自分が泣いていることに気が付いた。
「なんで、あなたが泣いているのよ?」
「わ、分かんない……男の子が、見えて……声のない、男の子」
金色の瞳が見開かれる。
「見たの? あたしの、記憶」
小さく溜息が聞こえた。
張り詰めていた空気が、徐々だったが穏やかなものへと変化していった。
ミセリアが、青い小鳥へとその姿を変え、オレの肩に止まった。仄かな温もりが、頬に当たる。
目の前の、人間ではないけれど、人間の女性と同じような細い腕が上がる。整った指先が、オレの掌に触れる。
幸福の悪魔が、微笑んだ。
「あなたの言の葉には、従わなければならないわね、マスター」
気付けば、むにゅっとした肉球が触れていた。
と、真っ赤な猫がふわっとオレの腕の中に飛び込む。
「うわっ!」
クスクスと悪戯っぽく笑ういつもの声が聞こえた。
「まっ、今回も一応合格ね」
「フェリー……ッ!」
オレが抱き締める前に、真っ赤な猫は、するりとすぐに腕から逃げてしまったのだった。




