一話~出会い9‐③~
「『悪魔召喚の書』第九十九章、幸福の悪魔フェリーキタース! 我に力をぉ!」
その瞬間、オレとフェリーは顔を見合わせた。瞬きの回数さえ同じだった。
「うん? どうした? 我の言霊に応えぬか! フェリーキタース! 我に幸福を!」
ネクロマンサーが叫べば叫ぶほど、魔法陣は力強く輝く。が、それが虚しく思えた。
「どうしたというのだ……? 幸福の悪魔フェリーキタースよ!」
「……だって」
「絶対ヤダ」
キッパリハッキリの拒否に、オレの方も少し心が痛んだ。
「なっ、……なにぃ! おまえかぁ!」
驚愕する元王のネクロマンサーに、フェリーはべぇと舌を出した。
「あたしは、あたしの力を最大限に使えるマスターにしか仕えない。誰があんたなんかと契約するもんか」
オレはフェリーの力を最大限に仕えるマスターになれるのだろうか。そう疑問に思っていると、横で彼女はクスッと笑う。
「マスターは面白そうだから出てきてあげた」
「『あげた』んかい!」
「マスター、今は」
思わず突っ込まずにいられなかったが、フェリーに言われてハッとする。
フェリーに振られたネクロマンサーが、顔をこれまでにないほど歪ませていた。
「ぐぬ……よかろう。力尽くでも跪かせてやるわ!」
再びマントが翻る音が嘆きの声に聞こえた。飛び出す無数の悪霊に、辺りの風が渦巻く。闇にも溶けない闇の風だ。
「マスター、あたしに言霊を」
穏やかな声音だった。
「幸福の悪魔フェリーキタースよ、我の力となり、我を助けよ!」
「OK、マスター」
なんとも軽い返事だったが、フェリーの力はどっしりと全身に圧しかかってくる。
「力の流れをイメージして」
フェリーは駆け出しながら言った。
「イメージ?」
黒い突風と化した悪霊達が、フェリーを取り巻く。が、彼女は余裕の表情だった。
「最終試験よ、マスター」
気を窺うように渦を巻く悪霊達は、風から大きな蛇へと姿を変えた。
「我が国の民達よ、今こそ無念を晴らそうぞ!」
「あたし、あんたの国に何もしてないんだけどさ」
黒い大蛇が、元王の命でフェリーを締め上げようとする。フェリーはそれを飛んで避けた。
フェリーが動く度、オレの身体に岩が落ちてくるような衝撃が走る。
これが、悪魔と契約し、力を使うということか。
「マスター、集中!」
「あっ、ああ!」
フェリーの言葉に、オレは顔を上げる。辛うじて、だった。
さっきの悪霊よりも強い力。暴れるよりも、静かに鎮座する巨大な悪魔。オレは、彼女の存在を全身と心で感じていた。
「マスター、あたしだけを見ていなさい」
フェリーの声が、頭の中で響いた。
これから先も、彼女と一緒にいたい。
ふと、そう思った。
深呼吸をする。目を開けた。赤い悪魔が、翼を広げていた。夜空を制している。
不意に視界が変わった。
「あ……」
地を見降ろしていた。
「そう、その調子」
大蛇が牙を剥く。オレはそれを空中で避けた。
オレは、フェリーの身体を動かしている。いや、もしかしたら、オレが動かされているのかもしれない。
大蛇の威嚇が耳を掠める。ひらりと赤い髪が一本落ちた。
フェリーを傷付けたくない。
「気にしなさんな。髪くらいすぐ伸びる」
フェリーは笑っていた。
「くそっ! 主から先に……!」
焦るネクロマンサーに、跳びかかる影達があった。
「なっ、なんだ! やめんか!」
マントを引っ張り、敵の足元をちょこまかと動く多数の小柄な影達は地の精だった。
「おまえの?」
肩にいる地の精に尋ねれば、またコクンと彼は頷いた。
「マスター、あいつの身体のどっかに、悪霊達を操る媒体があるはずよ!」
大蛇に応戦しているフェリーが言った。
オレは蛇の横を駆け抜け、ネクロマンサーに体当たりした。馬乗りになる。
「ぐわッ!」
マントの下だ。直感だった。
「はっ、放さんか! 無礼者が!」
「おまえはもう国王でもなんでもない!」
オレは負けずに叫んでいた。
「悲しい霊達を操って、王様気取りなんて情けないぜ!」
「黙れぇ!」
拳が頬に当たった。痛かった。でも、さっきの悪霊達の悲しい声に比べたら、なんともなかった。
マントの下。なかなか見つからない。
「あの人達を解放してやれ!」
「黙れ……黙れ! 青二才がぁ!」
また頬に痛みが走った。気にしない。
「おまえに何が分かるというのだ! 突然、国と地位を奪われた我の気持ちなど分からん!」
「国と地位、か」
この男が大切にしていたものは、民の暮らしではない。もちろん、彼にも暮らしがあって、家族がいたのだろう。地位を奪われたことで、彼の平穏は失われたのだろう。
だが、国民もそれに巻き込まれた。平穏でささやかな幸せを突如として奪われた。
王は、己のことだけを考えてはいけない。王は国に住む民の幸せを背負っている。
「あの人達は、おまえの大切なものじゃないんだな」
「あれらはもう人ではない」
この男は、忘れてしまった。自分の地位を、国を、大切なことをどこかに置いてきてしまった。
マントの内ポケット。その奥にそれはあった。
「触るなぁ!」
エンブレムだった。とぐろを巻いた蛇が天を仰でいる。
「フェリー!」
「返せ!」
押し倒される前に、エンブレムを夜空に向かって投げた。適当だったが、それでも信じていた。
フェリーが必ずそれを受け取る――
「ぐ……ぅ……」
ネクロマンサーの指が、首に食い込んだ。爪が皮膚を裂きそうだ。
苦しい。痛い。あの叫びが、記憶に蘇る。
「おまえに分かるか? 目の前で殺される家族……焼き払われた城……追われる虚しさと無力な己……分かるか? 分かって堪るかぁ……!」
小さな人影達が、一生懸命にネクロマンサーを引っ張っていた。その中に、オレに懐いてくれた彼がいた。
ごめん……せっかく助けてくれたのに……
朦朧とする意識に、呼びかける者がいた。
「だから、死なれちゃ困るんだってば」
夜空に赤い閃光が弾ける。
「うわっ……」
「ぐぬぅ!」
首から殺意が退いた。空気が一気に流れ込んでくる。咳込んだ。が、この隙を逃してはいけない。オレは、力一杯相手を押し退けた。
大蛇がのた打ち回っていた。
「フェリー」
見上げる。幸福の悪魔がいる。
「もうあなた達の国はない」
見下ろす。そこに、悲しい人達がいる。
「だから、もう哀しむことはないわ。ゆっくりお眠りなさい」
蛇が彫れたエンブレムが溶けていく。
これが、幸福の悪魔フェリーキタースの力。優しく、哀しい言霊だった。
大蛇が天を仰いだ。エンブレムそっくりだった。
二度と戻らない国と時。たくさんの想いが、音もなく砕けた。
黒かった風は、白い欠片となって、消えていった。
一滴のそれが、オレの口の中に入り込んだ。しょっぱかった。
背後から嗚咽が聞こえた。オレは振り返らなかった。
「フローラはどこだ?」
「……小屋の中に……」
助けに行かないと。
「あ、れ……?」
オレの記憶は、しかしここまでだった。




