一話~出会い9‐①~
納得いかない。でも、なぜだろう? 放っておけない。
ダリアがさっきまでいた場所に降り立つ。
「あれで本当に魔王になれるとでも思ってんのかしら?」
フェリーキタースの呟きは、闇夜に溶けていく。
風がおかしい。辺りがざわついている。
「臭い……」
嗅覚以外の感覚でも纏わりつく不快さ。これは、猫の姿だからではなく、悪魔としての勘だ。
悪霊はさっきの一体だけではない。
ざわざわと風が鳴る。草木が怯えている。人間には恐らく分からない。
「どこまで分かってる?」
赤い猫は、青年の駆けて行った方角を見やる。
悪魔と契約するということ。幸福を手にするということ。
あの青年は、どこまで――
フェリーキタースは、息を吐いて、ゆっくりとマスターの後を追った。
夜は恐ろしい時間だ。時折、ふとそれが蘇る。
暗視の術をかけていているのに、いつもより暗く感じる。足取りが重い。オレは一歩一歩踏み締めていた。
ひとりで山道を登るオレの眼前が、突如開いた。樵や旅人が休憩できるよう建てられた山小屋がある場所だった。
肩にかけた鞄に手をかける。オレは気配を殺しながら、山小屋にそっと近付く。中からは、小さな灯りが漏れていた。
人の気配はあるが、旅人ではない。オレは、手を握り締めた。紙がくしゃりと音を立てる。
「思ったより早かったな」
「!」
不意に背後から声がして、オレは振り返る。
「あっ……!」
そこにいたのは、昼間アケルにいた男。食い逃げ犯だった。顔が見えない。黒々としたフード付きのマントが、男を夜に紛れさせている。
「例の物は持ってきたのだろうな?」
食事処の金をケチるような男にしては、重々しい声音だった。
オレはまた鞄に手をかける。そして、もう片方の手に握っていた紙切れを相手に投げつけた。男がそれを片手で払った。オレはそれに苛立つ。
「その前に、フローラと金を返せ」
「金?」
「昼間のメシ代だ! オレが払ってやったんだぞ!」
「あぁ、忘れていた」
男は軽く頷きながら言った。
本当に忘れていやがったのか……
オレは苛立ちを抑えられず、男を睨みつけた。
「それを寄こせば、金も女も返してやる。なんなら、倍にしてな」
「その必要はない。返してくれさえすれば」
「欲のない男よ」
男がくつくつと不敵に笑った。それがまた癪に障る。オレの本能は、完全にこの男を敵とみなした。
「いいからフローラを返せ!」
「いいだろう。だが、そちらが……『悪魔の書』が先だ」
オレの掌がじっとりと汗ばんだ。
さっき投げつけた紙切れが風に舞った。そこに書かれていた字面が思い起こされる。
――『悪魔の書』を持ってくれば、女を返す。ガラーナ西の山小屋にて待つ――
この男が『悪魔の書』を求める理由は分からない。フローラを無事に返してくれるという保証もない。
オレは見せつけるようにして鞄から書を取り出した。が、迷っていた。
「どうした? 女を返してほしいのだろう?」
「なんでオレがこれを持ってるって知ってるんだ?」
「質問を質問で返すな。はやくそれを寄こせ」
男の声が上ずった。喉から手が出るほどほしい、男のその欲が目に見えるようだ。
オレはフローラの無事を確認したかった。
「フローラをここに連れて来てくれ。頼む」
「それが先だ!」
こいつに渡しては駄目だ。オレの中の何かが叫んでいた。
オレはすっと膝を折った。手を地につける。
「なんの真似だ? 未来の王に土下座か?」
未来の王だと? ふざけるな! 王になる人間が、こんなことをするな!
心の中で男を罵倒したオレは、小さく言霊を唱える。
「地の精よ、我の声に応え、形を成せ」
すると、オレの周りがぼぉっと光に包まれた。ぽこぽこと小さな人影が生まれる。少しの間だけでいい。時間稼ぎをしたかった。
「それがおまえの答えか」
男が喉の奥を鳴らす不愉快な笑みを漏らした。
「我に敵うと思うな、青二才が!」
男が黒いマントを大仰に開いた。そこから無数の影が飛び出してくる。耳を劈く声が辺りに響く。
「悪霊使い(ネクロマンサー)……!」
「我の国の死者達よ! 王の前に立ち塞がる愚か者に制裁を!」
ネクロマンサーの放った悪霊が、オレの生んだ地の精達を次々と粉砕していく。
「あっ……」
オレの言霊に、元々それほど強い力はない。精霊達に攻撃させるほどの力を与えてはいなかった。
悪霊の力に慄いた精霊達は逃げ惑い、自ら姿を消す者もいた。オレはしかしそうしてほしかった。精霊でも力を蝕まれれば怪我をする。痛みもある。死もある。死なせたくない。
オレは叫んだ。
「地の精よ、戻れ!」
が、一瞬遅く、最後のひとりが無数の悪霊に取り囲まれた。オレは駆け出した。
「やめろ!」
どうにか地の精と悪霊の間に割って入ったオレに、言葉では言い表せない痛みが走る。何かが身体の中で暴れているような感覚だった。
「ぐっ……」
地の精が慌てたようにオレの周りを飛び跳ねていた。
「いっ、いいから……はやく戻れ」
蹲りながら、オレは言った。足音が近くに聞こえる。
「これほどの愚か者とは。精霊なんぞに情けをかけ、女を見捨てるか」
身体の中が痛い。心が蝕まれていく。
悲しい、苦しい、痛い、恐い、憎い……
負の感情が渦巻く。涙が溢れて来た。
悔しい、寂しい。
「大人しく渡せば、女を救えたものを」
『悪魔の書』が手から離れた。
「これさえあれば、我は再び王に」
いつの間にか、地の精がいなくなっていた。
「精霊は恩義など感じぬ」
「うっ……うるさい……」
嘲笑う声音に、オレは強がった。歯を食いしばる。口の中が塩辛い。頬を伝った涙の味だった。
身体の中から無数の声がする。
「あ、あんた……聞こえないのか?」
「何を言っている?」
「苦しい……悲しいって……」
死者の嘆きを、オレははじめて聞いていた。
悪霊も、生きていた人間だった。オレの身体の中にいる悪霊達は、滅んだ国の民だった。
そして、目の前のネクロマンサーの正体。
「あんた、……王様だったんだろ? 聞いて……やれよ……」
「青二才の愚か者に、そのようなことを言われたくはない!」
頭の上で何かが鈍く閃いた。月ではなさそうだ。
「我は『悪魔の書』を使い、国を再び興してみせるのだ!」
死。それが過ぎった。
意外と冷静なんだ……
迫るそれに、オレはぼんやりと思っていた。
切っ先が見えた。




