第一章1 『熱を忘れて』
気づけば、真っ白な部屋にいた。
いや、部屋というよりは空間に近い。あまりにも景色に違いがなく、どこを見ても白い地面が地平線まで続いていたのでそう見えただけだった。
とりあえず、現状を確認。
手、腕、体と触診していき、無事五体満足なことを認識した。
体は無事でも、今現在自分が只ならぬ状況に置かれているのはなんとなく理解できる。
事故死。死んだのだ。
あっけない終わりだった。最期まで満足の一度もない人生だった。何もない生き方だった。
死んだことを自覚すると、不思議な感覚に包まれた。理解できたのに、無理解の中にいるという変な感覚だ。ここは、死後の世界なのだろうか。
異常事態なことはわかっているが、なぜか危険を感じることはない。心にぽっかり穴が開いてしまったかのよう。もうこれは二度と閉まることはなく、永遠にこのままフワフワしながら生きていくのだと思うと、恐ろしい。
このままでは、きっと希望も絶望もない。それどころか、感情が湧き出ることさえないだろう。
「――目覚めましたか」
虚無感のままにへたり込んでいると、目の前に女性が現れた。綺麗な人だ。それに、神々しささえ感じる。この女性を人というくくりで縛り付けるのは、失礼と思えるほどだった。
「もうそろそろ、体に魂が追い付き始めるころです。それまで意識を保っていてくださいね。倒れられては、私が繋ぎ止めておける限界が来てしまう」
何を言っているのかはまるで理解できないが、安心する声だ。このままずっと聞いていたい。
理由はわからないが、ひどく眠たい。意識が薄ぼんやりする。体も動かないので眠気に逆らうものもなく、そのまま寝ていこうとした。すると、胸のあたりが急に熱くなった。
ヤケドしてしまうと錯覚するほどの熱。胸にマグマが流れ込んだように感じた。
熱が引いていくと共に、曖昧模糊だった意識が明瞭に変化していく。
「もうお話しても、大丈夫ですか?」
背中まで伸びた薄い緑色の髪。慎ましい木のツルと葉っぱで作られた首飾りが良く似合っている。純白のローブには汚れの一点もなく、あまりにも整いすぎた容姿は女神と形容するべきものだった。
「ああ、はあ……」
一気に溢れ出た情報量や感情のせいで出てきたのはそれだけだった。女性は俺を見つめると、桃色の唇を優しげに微笑ませた。
「あなたを感じ取れてよかった。エルフたちのおかげでどうにか力を蓄えれたから、あなたを助けることができる」
「助ける、ですか」
首を傾げる。勝手にこんな空間に呼び出されて、えらく尊大な言い方だ。女性もそれに気づいたらしく、苦笑して弁明した。
「言い方が悪かったわね、ごめんなさい。でも、本当に危ない所だった」
向こうは一人合点して話をしているが、俺にはそんなのわかるはずもない。それよりも、もっと知りたいことがある。
「俺は……俺はいったいどうなったんですか。やっぱり、死んだんですか。そんでもってあなたは、神様?」
「そう、ね。一応、女神と崇められていたわ」
なんだか含みのある言い方だ。過去形ということは、今は違うのだろうか。
「結論から言うと、あなたは死んでいません。死ぬ寸前に、こちら側に『呼び出され』ました」
「呼び出されたって、いったい誰に。そもそも俺なんかを呼んで何になるっていうんです」
「それは……わかりません。私は、ただあなたがこの世界に干渉した時に、この場所に連れてきただけだから」
言葉の意味はよくわからないが、女神の言っていることは嘘だとわかった。でもそれを指摘したりしない。その嘘には、悪意といえるものが全く感じられなかったからだ。
それに、正直言ってそんなことはどうでもよかった。もっと重要なことがあるのだ。重要な事、忘れてはならない、熱が。熱が……。
「あ、れ……?」
思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われた。頭が割れるかと思った。たまらずその場にへたり込む。
「俺に、なんかしたのか……!?」
「いいえ、おそらく事故のせいです。あなたは酷く傷を負った状態でこの場所に来て、その後に傷が自然と癒えていった。呼び出した魔術陣に、傷を治すものが刻まれていたのでしょう」
「んな、ファンタジーな……」
動悸をなだめるようにゆっくり息を吐いて、深呼吸。そのまま数秒経つと、徐々に頭痛は収まっていった。
「死んだと思ったら実は生きてて、あの世っぽい所で女神様とご対面とか、どこのゲームだよ。これに加えて強くなってたらまんまだぞ」
呆れ半分で言った言葉だったが、女神はそうとは捉えなかったようだ。
「その通りです。あなたには、とてつもない魔力の素質がある。怠らずにその力を伸ばそうと思えば、歴史に名を刻む事さえ容易でしょう」
「おお、マジですか!」
年甲斐もなく興奮して、なんとなく片手を握ったり閉じたりしてみる。それほど変化は感じられないが、どうなのだろうか。あまりにも事が上手く進みすぎて、実は俺を騙そうとしているんじゃないかと勘ぐってしまう。
まあ、教えられる分には黙っておこう。この女神とやらが信じる信じないの話をしてきたら、そのときに言うことを聞かなければいいだけだ。本当に俺を助けようとしてくれてるだけのひとかもしれないし。
「いやでも、異世界で魔力とか聞くと胸が躍るな……!モンスターとかも出ちゃうんだろうか」
痛い妄想を色々口走っていると、女神が目を丸くしていた。初めて平静を崩した気がする。
「……あなた、そんな喋り方をするのね?」
「え、あっと……ごめんなさい?」
真顔で言われると、とたんに恥ずかしさが昇ってきた。そんなに気持ちの悪い喋り方だったろうか。そりゃあひとりでニヤニヤしてたら気持ち悪いとは思うけど、面と向かって言わなくてもいいのに。
「いえ、違うの。変とかではなくて、少し想像と違っていたから、つい」
「そうですか、良かったです」
こんな美女に気持ち悪がられたら、正直立ち直れないと思う。俺にソッチの気はない。ていうか想像ってなんだ、人を見た目で判断するなよなあ……。
居心地の悪かった空気は変わらず、いたたまれなくなって苦笑いする俺と、真顔で見つめ続けてくる女神とのやり取りが少しの間だけ続いた。
やがて、女神がハッとしたように辺りを見回す。
「どうしたんですか?」
「あなたがこの空間にいられる限界が来てしまったみたい。もうすぐあなたは、本来召喚されるはずの場所で目を覚ますはずよ」
「きゅ、急だなあ……」
「ここは本来、来てはいけない場所だから……。大丈夫、それほど危険なところではないと思うわ」
それはそうか。呼び出した側からすれば、呼んですぐ死なれたら何の意味もないだろうしな。海の上に落ちたらどうなるのだろうと一瞬考えたが、考えてもみれば世界を超えて呼び出す技術があるんだ、場所の指定くらいある程度できるはずだ。
空間にいられなくなるとは、どのようになってしまうのかと心配していると、指先から光の粒子のようなものが出て、ゆっくりと光と共にその部位が消えていった。
これがいずれ全身へと回っていき、そのときが召喚されるときなのだろう。
「まんまゲームだな」
思わず笑いがこぼれた。毎日いやだいやだと考えていた現実から逃げるだけじゃなく、その先は異世界で、強さまであるときている。願ったりかなったりなんてもんじゃない。妄想をそのままカタチにしたようなもんだ。
「――叶うのなら、あなたの未来がおとぎ話のような、満ち足りた幸せを歩むことを」
これまた「それ、定型句?」と問いたくなるような前口上だった。明晰夢とは違う、現実味を帯びた体の感覚がこれは夢ではないのだと実感させる。
――もう、俺は才能のある奴らを指加えて眺めるだけの負け犬じゃない。誰かを助けて、感謝されるだけの力があるんだ。
幼き頃のバカげた妄想が、現実になる。
とっくの前に記憶喪失のことや死にかけたことは頭になかった。誰かに呼び出されて、利用されるために召喚されたかもしれないことさえ。
ただ目の前に広がりつつある桃源郷に、胸の高まりを抑えつけることが精いっぱいだった。
……最後まで、痛ましげな目線を送っている女神に気づくことはなかった。
まず片目の視界が光の分解によって途切れ、脳の部分が消え去った後、意識が暗転した。
少年が消え去ったあと、生命の存在のない空白の空間にて女神は呟く。
「彼で、三人目」
その言葉を聞くものはだれ一人いない。