大きな皿
「……君はつくづく、優しいねぇ」
編集は完成した『消えたオムライス』の原稿を見ながら、そういった。
「そうですか?」
少々言われた事が心外だったので、僕は首を傾げる。
「この主人公の書き方、優しすぎるよ。普段全く無かった態度を出すとか、ああやって事実を公表してさらに嫌われにいくとか。なんというか大人しすぎて人間の鑑のようだよ? サスペンスのような恐ろしさがまだ足りないね。読者は爽快感を求めているのに、君の仕返しのやり方はまるで少年のようだ」
「嫌われにいく事については優しいとか言われても訳が分かりませんが」
僕は首を振る。
「いやぁ、だって衝撃を求めに行くならばアイスピックでやれば一撃じゃないかね? 彼女の名誉は守られて、主人公はただの狂人扱いで終わる、それでいいんじゃないかね」
「それもアリと言えばアリでしょう。でも、僕からすれば彼女は主人公を裏切ったって事ですから同じくらいの事は受ける義務はあります」
強く、僕は言う。逃げ切りなど、許されるものではない。詐欺師の話術、こんな事がまかり切る世の中なのであれば駄目だ。
「言うねぇ」
「それに編集さん。何か勘違いしていませんか?」
「勘違い、とは?」
「所謂人の扱い、ですよ」
「人の扱い?」
「此処で主人公に復讐をさせたら、彼女はおかしい、と言うでしょうけどね。おかしい者のおかしいは普通じゃないですかね?」
「返事に困るな、その聞き方は」
「マイナスにとってのマイナスはプラス、って事ですよ」
「……その、理論か」
「編集さんは古い人間だから分かると思いますが、編集さんだって例えば自分と一年のうち200日以上同じ屋根の下に一緒に居た人間が裏切って他の男と繋がってたーとか言ったら、怒りませんかね」
「怒るなぁ、それは私でも。……ところで間男君は、この作品中のカップルが付き合っていたのを知ってたんだろ?」
「はい。知っていた、という前提であります」
「ならば同情の余地は全く、無いな。」
「……ですよね」
「しかしだな。どうすれば上手く話を料理できたものかな。このままでは主役を描写する上で、悲惨な手口を受けたままというのは忍びない。」
「うーん。忍びないですか?」
「あぁ、グダグダ管を巻かずに刺しに行け、とは言わんよ。でも、これでは回りくどすぎる。展開が遅いよ」
「……回りくどい、ですか」
「とりあえず風化させないためには一矢報いる、という事としても主人公側が敵を口汚く罵ってやればいいんじゃないかい?」
「口汚く、とは?」
「向こうの男に対しては、 『貴様の母に似てだらしない人間な事だ』 女に対しては『よかったなぁ、人をお気楽に切り捨てられるお姫様の身分は。これから先も困ることは無いだろう。君程の女ならば幾らでも頭に精液の詰まった男が助けてくれるだろうさ、お姫様?』だ」
編集は悪意有り気に、ニヤリと笑った。
「……よくそんな喰らうときっつい煽り思い浮かびますね、僕にはちょっと想像できませんよ」
僕は顔を顰める。
「君もいずれ、この程度は浮かんで貰わないと困る。以前893物をやっていたからね。私は。……人を怒らせるには、人の一番触って欲しくないところを平気で触るって事だ。この主人公君がされたようにね」
「……なるほど」
「この男は、優しすぎるのだと思うよ。……原稿、出来そうかい?」
「はい。明日の夜までに一稿をメールさせて頂きます」
「そりゃ良かったよ。君の成長、期待してるよ。類語辞典も使うといい。夢を掴んで、過去の呪いを解くんだ」
「ありがとうございます」
僕は心底嬉しい気持ちになりながら、頭を下げた。
過去の供養を、僕はしたい。
騙され続けて失った時の供養を、僕はしたい。
副流煙で肺を悪くしたあの無駄な時間を、無駄じゃなかったと思いたい。
勝手にしたと断じられたあれだけの時間。夢さえなくてもあの人さえいればと思えた事。
アイツが裏切ったからこそ、僕はこちらへ死ぬほどの注力が出来たのかもしれない。
僕は嘗て無いほどに力に燃えている。
そして力を手に入れたとき、全ての裏切り者を糾弾して全部社会的に終わらせるんだ。
作中の『僕』は、どうなっていくのかなんて、僕にはまだわからない。