きっかけ2
「……じゃあ、これで思い出せます? 前にあなたに水をこぼしてしまった店員です」
男はその言葉にハッとする。あの時のことは思い出したものの、鮮明には覚えていない。一度なにげなく入ってみた店で水をこぼされた、程度の記憶だ。
「すまない。よくは覚えていない。…もう歳か…」
「何歳ですか?」
「……45」
男は「君は?」とは聞かなかった。女性にこの質問はタブーだと知っていたし、何よりも、聞くのが怖かった。歳の差を知れば、ますますこの女性との壁を感じるだろう。そして理解に苦しむことになる。
「私は二十歳です」
男の思いとは裏腹に、女性はあっさりと口にした。男との壁など感じていないらしい。25歳差という壁。女性はその若さで飛び越えてくるつもりなのだろうか。
「私がこぼしても、優しく肩をたたいてくれました。笑って…許してくれて、だから」
「好きになったのか!? そんなことで?」
男は唖然とした、女性のことが何一つ理解できない。知れば知るほど、謎は深まっていった。
「そんなことって…。きっとあなたは優しい人に囲まれて生きてきたんでしょうね。私にとってあの行為は、惚れるのに十分すぎるくらいでした」
「あれは人として当たり前だ。俺は人に同じことをされても、好きになったりはしない」
「でも、優しい人とは思うでしょ? 私、優しい人が好きなんです」
「君はさっき、好きに理由はいらないって…」
女性は口を尖らせている。テーブルの下で、ヒールをコツコツと鳴らした。男は頭を抱えた。
そして、この問題を歳の差があるから理解できないのだと放棄した。男には分からなかった。女性の若さゆえの行動が。些細なことで好きになってしまったり、長時間でも待っていられる強さが分からない。
しかし、分かっていないのは女性も同じだった。女性は、カフェで一度男性と接触しただけだ。先ほどから「あなた」と男性を呼んでいるよう、名前すら分かっていない。何も知らない男に、真っ直ぐぶつかっていけるのは、やはり若さがあるからなのだろうか。
女性とは目が合わなくなったまま、時間が過ぎていく。ヒールの高いコツコツという音が、聞こえていた。