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政略結婚が嫌で死を考えていたら、鬼にさらわれて守り神の巫女になりました

作者: momotarou
掲載日:2026/06/06

「すまぬ。父が不甲斐ないばかりに、あやをあのような卑劣なたちばな宗景むねかげのもとへやらねばならぬ」


白瀬家の殿である父は、畳に両の手をつき、深く頭を下げていた。


家臣たちも、みな悔しそうに唇を噛んでいる。


娘である私に、父が頭を下げている。


それだけで、胸の奥が痛んだ。


「父上、お顔をお上げください」


私は力を込めて言った。


けれど、父は顔を上げなかった。


私の嫁ぎ先。橘宗景。


齢六十を超え、側室を十名以上も抱える大名。


疑い深く、欲深く、機嫌を損なった側室を幽閉させたという噂まである男だった。


橘家と白瀬家は、同盟関係にある。


いや、同盟という名で従わされている。


戦が起これば、白瀬家の兵が先頭に立たされる。


橘宗景に逆らえば、白瀬の家も、家臣も、領地の人々もただでは済まない。


父は何度も、家臣たちと同盟を破る道を探した。


けれど、兵力は十分の一。


戦えば、白瀬は滅ぶ。


だから私は、橘宗景のもとへ嫁がされることになった。


幼い頃、宗景は私に「なんとかわいい姫よ。諸侯の中でも最も美しい姫になるだろう」と笑いかけていた。


私はその頃は嬉しかった。


けれど、いつからか、その目は変わった。


私をなめ回すような、いやらしい目になった。


年始の挨拶に行くのが嫌で、風邪のふりをしたこともある。


その時、父と重臣たちは宗景にひどく怒られ、すぐさま兵を前線に送れと無理な要求を突きつけられた。


私はその時、悟った。


私の未来には、逃げ道などないのだと。


何度も短刀を手に取り、自ら命を絶つことも考えた。


でも、死ぬのは怖かった。


それに、私が死んでも白瀬家は救われない。


何も変わらない。


私が嫁いで、宗景の機嫌を取り、白瀬家への害を少しでも減らす。


それしか道はない。


「すまぬ、綾」


父の声は震えていた。


「謝らないでくださいませ。私は白瀬の姫です」


私は微笑もうとしたが、できなかった。


そして、私は花嫁衣装をまとい、駕籠に乗せられた。


白瀬の城を出る時、父も母も門の前に立っていた。


母は泣いていた。


家臣たちも、私を見て悔し泣きをしていた。


父は何も言わなかった。


ただ、娘を見送る顔は、ひどく老いて見えた。


駕籠かごは山道へ入った。


橘宗景の城へ向かう道である。


私は揺れる駕籠の中で、膝の上の震える指を見つめていた。


指先は冷たい。


これから私は、あの男の妻になる。


そう思うたびに、息が詰まりそうになった。


だが、今さら戻ることはできない。


戻れば白瀬の城が滅ぶ。


進むしかない。


そう自分に言い聞かせた、その時だった。


どん、と地が鳴った。


駕籠が大きく揺れ、外から悲鳴が上がる。


「な、何だ!」


「鬼だ!」


誰かが叫んだ。


鬼。


その一言で、山道の空気が凍りついた。


私は駕籠のすだれをそっと上げた。


そこにいたのは、人ではなかった。


竹より高い身長。


たくましい体つき。


巨大な鬼であった。


黒く乱れた髪。


額から伸びる太い角。


口元からのぞく牙。


岩のように荒い肌。


獣のように鋭い目。


その鬼が、嫁入り行列を見下ろしていた。


「派手な行列だな」


低く、腹の底に響く声だった。


護衛たちは「綾姫あやひめ様を守れ」と刀を抜き、私の駕籠の周りを取り囲んだ。


鬼はそれを見ている。


私には、なぜかその目だけが寂しそうに見えた。


おぞましい顔なのに、目だけが暗く沈んでいる。


私と同じように、何かに絶望している目のようにも感じた。


そして、この鬼は人の言葉を話せる。


ならば、話せるかもしれない。


私は、とっさに駕籠から出た。


護衛の兵が驚く。


「綾姫様!」


私は兵たちに刀を収めるよう命じた。


鬼は相変わらず、私たちを見下ろしている。


おぞましい顔で。


「鬼様、どのようなご用件でしょうか?」


恐怖で膝が崩れそうになるのを、なんとか抑えた。


橘宗景に嫁がされる恐怖に耐えてきた私には、おぞましい鬼の恐怖の方が、まだましに思えた。


ここで殺されるのも悪くない。


けれど、この者たちは助けたい。


鬼の目が、不思議なものを見るように変わった。


「鬼様?」


「はい。私たちの命を持っている方です。殿様とは呼べませんので、鬼様です」


鬼の顔が少し笑ったように見えた。


けれど人にとっては、それがよりおぞましく見えた。


鬼は私をにらんだ。


「お前は誰だ」


「白瀬家の姫、綾乃あやのと申します」


「なぜ、我を恐れぬ」


「恐ろしいです。でも、私はこれから鬼様より恐ろしい所に嫁がなければなりませぬ」


「我より恐ろしいものがあるのか」


「はい。たくさんあります。物語の世界ですが」


鬼はあくびをした。


そして、雷のような声で言った。


「面倒だ。皆殺しだ」


兵たちは腰を抜かし、侍女たちは声も出せずに震えている。


それでも鬼の目は、やはり寂しそうだった。


私は恐怖を飲み込み、鬼を見上げた。


「ならば、どうぞ。けれど、殺して終わりにするより、生かして使う方が、鬼様にとって得ではありませんか」


鬼の目が鋭くなった。


「お前ごとき、弱い者が、我にとって価値があるのか」


「はい。私は大名家の姫です。それだけでも価値があります」


「それだけか。それ以外の価値もあるのか」


「はい、あります」


私は自分で何を言っているのかさえ分からなかった。


それでも必死に、鬼の気を引く言葉を探していた。


鬼は私をじっと見た。


顔から血の気が引く。


牙が恐ろしく、あの口で一飲みにされると思えば、すぐにでも逃げ出したかった。


けれど私は、普通の人とは少し違う感覚を持っていた。


蛇や蜘蛛や虫を見ても、かわいいと思ってしまう。


他の者は驚き、殺そうとするが、なぜそんなにかわいいものを殺すのか、私には分からなかった。


怖い。


ものすごく怖い。


それなのに、目の前の鬼様が、どこかかわいく見えてきた。


「おもしろい。お前だけは生かしてやろう」


「それは、おやめになった方が良いかと」


鬼の眉が動いた。


「なぜだ」


私は震える息を整えた。


そしてまた、必死に言葉を探した。


「鬼様は、おたわむれで襲われたのではないのですか?」


「人の恨みの強さもご存じのはずでは?」


私はまっすぐに鬼の目を見た。


「鬼様、私はついていきます。でも、この者たちを殺さないでください」


鬼はまた退屈そうにあくびをした。


だめだったか。


私も殺されるのか。


そう思った次の瞬間、鬼は私を片手で掴み上げた。


「きゃっ!」


私の身体は、あっけなく鬼の小脇に抱えられた。


「よい。お前はおもしろい」


鬼はそう言うと、山へ向かって飛ぶように駆け出した。


風が顔を打つ。


木々が後ろへ流れていく。


私は鬼の腕に抱えられながら、遠ざかる嫁入り行列を見た。


誰も死ななかった。


それだけは、確かだった。


けれど、私はこれからどこへ連れて行かれるのか、何をされるのかと考えると、恐怖しか感じられなかった。


ひと思いに殺された方がよかったのではないか。


そう後悔したところで、私は恐怖と疲れに耐えきれず、意識を失った。


目が覚めると、何も見えない真っ暗な場所だった。


恐怖が体を支配していく。


目が少し慣れたのか、目の前に何かあるのが見えた。


鬼の顔だった。


私は目をつぶり、死んだふりをした。


でも、考えてみれば、食べられてはいない。


体の痛いところもない。


薄目を開けてみると、鬼様は困っているような顔をしていた。


誰が見てもおぞましい顔なのだろう。


けれど、なぜか私には分かった。


「鬼様、ここはどこですか」


鬼は驚いたように後ろへ下がった。


「死んでなかったのか」


「ここは、我の住処すみかだ」


「わたくしには、暗くて何も見えません」


「見えぬのか」


「はい。火をつけてもよろしいでしょうか」


「火だと。我を殺せると思うな」


「鬼様、わたくしでは鬼様を殺せません。灯り用の火です」


「灯り用の火」


「乾いた草などはあるでしょうか」


「持ってくる」


しばらくすると、私の前に乾いた草が大量に置かれる音がした。


私は必要な草だけを離れた場所へ運び、火種箱を開けて火をつけた。


火が灯ると、そこは大きな洞窟だった。


何もない。


寝る場所も、食べ物も、暮らしの道具もない。


ただ広く、暗く、冷たいだけの穴倉。


私は覚悟を決めて、鬼様の考えを聞くことにした。


少しでも気に障れば、私は殺されるかもしれない。


でも、それを乗り越えられれば、何かが変わるかもしれないと感じた。


「鬼様、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「名前。そんなものは無い」


「では、わたくしが名前をつけてもよろしいでしょうか。鬼とは、人がきらう名ですので」


「我は人のことなど考えぬ。好きにしろ」


黒嶽くろたけ様でどうでしょうか。この山は黒嶽山と呼ばれています」


「好きにしろ」


「では、黒嶽様」


鬼様――黒嶽様は、機嫌がよさそうな感じがした。


「黒嶽様は、何かを食べたりはしないのですか」


「食べる? 人は何かを口に入れていたな。我はそんな必要は無い」


人とは違う。


なにか神聖なものに思えてきた。


「おいくつなのですか」


「ああ、人は年を数えるな。知らぬ。山の形が変わるぐらいは生きている」


「仲間はおられるのですか」


「仲間。そんなものはいない。日の本のどこかにはいると聞いたことがある」


「お一人で過ごされていたのですか」


「そうだ」


「退屈ではありませんでしたか」


「退屈とは何だ」


私は少し考えて答えた。


「何もすることがなくて、楽しくないと思う気持ちです」


「分からぬ。することがなければ何年でも寝る。気が向いたら山を駆ける」


黒嶽様は、本当に分からないという顔をしていた。


何百年も一人でいるのに退屈でない。


それが当たり前だったからだと感じた。


そして、あの悲しそうな目は、孤独を知らない目なのだと感じた。


でも、恐ろしくて「孤独ですか?」とは聞けなかった。


「人は嫌いだ」


黒嶽様は言った。


「我を見ると、恐怖で顔を引きつらせるか、武器で襲ってくる。邪魔だから殺す」


「ひょっとして、お目覚めになられたのは久しぶりですか」


私が生まれてから、こんなにも大きい鬼が出たとは聞いたことがなかった。


「そうだな。町の景色は変わっていた。何かおもしろそうなことがあれば目が覚める」


「今日は、今までで一番おもしろい」


私は、その言葉に少しだけ安心した。


「わたくしは、おもしろい物語を知っています。お話ししてもよろしいでしょうか」


黒嶽様が立ち上がった。


巨大な鬼だ。


その黒嶽様が、私を睨んでいる。


間違った。


話など聞きたくなかったのだ。


そう思った瞬間、黒嶽様の姿が消えた。


しばらくすると、血の匂いがした。


薄明かりの中、黒嶽様が戻ってくる。


小脇に何かの死骸を抱えていた。


それが私の前に放り投げられる。


ずどん、という音と共に、血が私の顔に飛び散った。


「食え。人は食わぬと死ぬ。食わぬなら殺す」


熊の死骸だった。


乱暴だ。


おぞましい。


けれど、私を生かそうとしている。


私は腰に隠していた小刀を抜き、震える手で熊の肉を切ると、火で焼いて食べた。


それから、私と黒嶽様の関係は少しずつ変わっていった。


黒嶽様は、私の話す物語をおもしろいと言った。


難しい話は嫌がった。


童話のように分かりやすい話を好み、気に入った話は何度もせがんだ。


「昨日の続きを話せ」


「もう三度目です」


「よい。もう一度だ」


黒嶽様は、幼子のようだった。


私が夜眠ると、不機嫌になる。


けれど、私が眠たそうにしていると、黒嶽様は言った。


「寝ろ。人は寝ないと死ぬ。死にたくなければ寝ろ」


優しいのかどうかは分からない。


それでも、私の中の恐怖は少しずつ薄れていった。


やがて私は、物語だけでなく、人の暮らしについても話すようになった。


私のつたない話でも、黒嶽様は嫌そうではなかった。


黒嶽様は、文字にも興味を持った。


私が枝で土に文字を書くと、黒嶽様は鋭い爪で岩に同じ文字を刻んだ。


力が強すぎて、岩が割れる。


書く場所がなくなると、爪で岩を削り、また新しい場所に文字を書いた。


私がさらわれて何か月も経つ頃には、黒嶽様は私が話す人の世にも興味を持つようになっていた。


日々の生活。


身分の違い。


戦のこと。


そして、私の政略結婚のこと。


その話をすると、黒嶽様は決まって不機嫌になった。


「そのたちばなという者は、我より強いのか」


「いいえ。力は弱いです。ただ、地位と兵を持っているのです」


黒嶽様は不思議そうな顔をした。


「弱いのに強いのか」


「人の世では、そういうこともあります」


「人はやはり面倒だ」


黒嶽様は、あまり自分のことを話したがらなかった。


けれど、何度か軍勢と戦ったことがあると言った。


偉そうな駕籠が街道を進んでいたから見に行った。


刀を持つ者たちが斬りかかってきたから、蹴散らした。


また眠っていたら、今度は討伐の軍勢が来た。


面白いと思い、殴り、蹴り、踏みつぶした。


そのうち飽きたから、やめた。


ただそれだけのことのように語る黒嶽様に、私は背筋が冷えた。


黒嶽様は邪悪なのではない。


あまりにも強すぎて、自分の力の使い方を知らないのだ。


このままでは、いつか取り返しのつかないことになる。


私はそう思った。


*****


私は黒嶽様の肩に乗せられて、洞窟から一番近い村へ向かった。


黒嶽様は嫌がったが、何とか了承してくれた。


村人が黒嶽様を見つけると、悲鳴が上がった。


「鬼が現れた!」


「逃げろ!」


「村を守れ!」


敵を知らせる鐘の音が鳴り響く。


黒嶽様の眉が不機嫌に動いた。


けれど、我慢してくれていた。


村の近くまで来ると、私を肩から降ろしてくれた。


私は大きな声で叫んだ。


「この方は鬼ではありません!」


黒嶽くろたけ様です!」


「この村の守り神です!」


「私は黒嶽様に仕える巫女です!」


「村長を呼んできてください!」


私は花嫁衣装を直し、持っていた裁縫道具で巫女のような姿の服にしていた。


黒嶽様を鬼ではなく、守り神とすれば、黒嶽様は弱い人を襲わなくなると考えたのだ。


村人は恐る恐る集まってくる。


おぞましい顔だ。


本当に神なのか。


神のふりをして我々を食うのでは。


そんな声が聞こえた。


私は黒嶽様を見上げた。


「黒嶽様、この村を守ると誓ってください」


「誰も殺さない。壊さない。村を守ると」


「我にはたやすいことだ」


その時、赤子が一人、村人の隙間からってきた。


村人たちが息を呑む。


黒嶽様は、不思議なものを見るように赤子を見つめた。


その顔は人から見ると、おぞましすぎて、今にも取って食うように映っただろう。


けれど赤子は何も知らず、黒嶽様の大きな足元まで這ってきて、ぱしぱしと叩いた。


「黒嶽様、そのお手を広げてください」


黒嶽様は大きな手を広げ、私の横に差し出した。


私は赤子を抱き、黒嶽様の手のひらに乗せた。


赤子は驚いて、大きな声で泣き出した。


村人たちは固まっていた。


「黒嶽様、これが人の赤子です。最も弱き者です」


「そうだな。これは弱いな」


黒嶽様には、かわいいという感情はなかった。


強いか弱いか。


邪魔か邪魔でないか。


おもしろいか、おもしろくないか。


人とは違うものさしで、世界を見ているのだ。


「この弱き者を、殺したいと思いますか。食べたいと思いますか」


「我は殺さぬ。食わぬことは、巫女が知っておろう」


「はい。私は知っております」


私は村人たちを見た。


「ですが、村の人は知りません」


黒嶽様は赤子を見下ろしたまま言った。


「我は好んで人は殺さぬ。弱き者に興味はない」


「この村を守っていただけますか」


黒嶽様は周りを見渡した。


「たやすいことだ。守ってやろう。おもしろい」


私は赤子を抱き上げ、母親と思われる人に渡した。


「恐ろしい思いをさせてすみません。黒嶽様は人を食べません」


村長と思われる人が、震えながら私の前に進み出た。


「この村をお守りください。どうか、お守りください」


「村の人が黒嶽様を信じれば、守っていただけます」


「何か貢ぎ物などはいるのですか」


「何もいりません。黒嶽様から、これを渡せと言われています」


私は袋を差し出した。


村長がおそるおそる開くと、目を見開いた。


「これは、金塊ですか」


「はい。私がこの村が困っていると言うと、黒嶽様が見つけてくださいました。ただし、お渡しするのは今回限りです」


私は声を少し低くした。


「黒嶽様は、人の欲を嫌いますから」


黒嶽様に欲という感情があるのかは分からない。


けれど、金は人の争いの元になる。


そう言っておく必要があった。


「では、このような物は受け取れません」


「我からの物を受け取れぬだと!」


黒嶽様の声に、村人たちが震え上がる。


私はすぐに言った。


「黒嶽様、これは人の礼儀です」


「そうか。分かった」


黒嶽様は少し考え、それから言った。


「その金で、巫女に何か食わせろ」


私は思わず笑ってしまった。


私のことを心配してくれているのだ。


その日は野原で宴が開かれた。


黒嶽様は何も食べない。


けれど、私と村の人々は、久しぶりのごちそうに笑顔になった。


村人たちはまだ黒嶽様と目を合わせられない。


それでも、少しずつ声が変わっていった。


「黒嶽様がこの村を守ってくださる」


「美しい巫女様が仕えているのだから、きっと神様に違いない」


いつしか子どもたちが、あぐらをかいている黒嶽様の膝によじ登っていた。


黒嶽様はどうしてよいか分からず、困っているだけだった。


私といる時には、壊さない。


殺さない。


それを守ってくれていた。


「巫女はうれしいのか」


黒嶽様が聞いた。


「はい。黒嶽様のおかげで、おいしいものが食べられました」


「巫女の言う通り、人は我の顔が怖いだけなのだな」


「はい。人は弱いのです。黒嶽様を見ると、恐れてしまうだけです」


黒嶽様はしばらく村人たちを見ていた。


その目は、いつもより少しだけ穏やかだった。


守り神になることが気に入ったのか、黒嶽様は他の山奥の村にも私を肩に乗せて行った。


それも何度かしたら飽きたのか、行かなくなった。


しかし、私が知らない間に、熊を追い払い、盗賊を蹴散らし、崖崩れの岩をどかしたりしていた。


どれも黒嶽様にとっては、暇つぶしに過ぎない。


けれど、黒嶽山の人々は黒嶽様を守り神と呼ぶようになった。


私のことも、巫女様と呼んだ。


そして、黒嶽様は私が欲しいものを聞くようになった。


米。


野菜。


甘い菓子。


寝具や家具。


どこからか用意してくれるようになった。


私は、黒嶽様に連れ去られてよかったのかもしれないと、いつしか思うようになっていた。


おぞましい顔で、恐ろしく、何を考えているのか分からない。


それでも、黒嶽様といる時間は、不思議と居心地がよかった。


私が連れ去られて、半年ほど経った頃だった。


馴染みの村へ行くと、村長が青ざめた顔で言った。


「橘宗景様が、軍勢を連れて白瀬の城へ向かっているそうです」


私は息を呑んだ。


「なぜ……」


「白瀬の殿様は、綾姫様が鬼にさらわれたと言ったそうです。ですが橘の殿様は、姫を隠していると激怒して、軍勢を差し向けたと聞いております」


そうだ。


私は、花嫁行列の者を誰も殺さないよう、黒嶽様に願った。


あそこはまだ白瀬領だったから、橘の兵は合流していなかった。


鬼に襲われた跡は何もない。


証拠もない。


たちばな宗景むねかげにとっては、白瀬が私を隠したようにしか見えないのだろう。


いや、違う。


きっと宗景は、最初から口実を探していたのだ。


白瀬の領地を奪うための口実を。


私は地面に座り込み、泣くことしかできなかった。


「どうして、橘は、お父様とお母様をいじめるの」


「どうして、橘は、私の領地まで奪おうとするの」


悔しさで、涙が止まらなかった。


「巫女はなぜ泣いておる」


黒嶽様の声がした。


「泣きやまぬのなら殺すぞ。すぐに泣きやめ」


ひどい言葉だった。


でも、黒嶽様は、殺すと言えば人が言うことを聞くと考えていた。


突然、私の身体が抱え上げられた。


黒嶽様は飛ぶような速さで山を駆け、平地がよく見える岩場へ私を連れて行った。


そこからは、白瀬の城が見えた。


懐かしい景色。


けれど、城は橘の兵に囲まれていた。


城壁には梯子はしごがかけられ、城門には門を破る兵器が集まっている。


一万の軍勢。


白瀬家だけでは、とても防ぎきれない。


「お前は、綾姫と言っていたな」


黒嶽様が言った。


「あれが、お前の城か」


「はい。そうです」


私は泣きながら答えた。


黒嶽様は、私を見た。


そして短く言った。


「我に任せろ」


その瞬間、黒嶽様は軍勢に向かって飛び出した。


黒嶽様は、私の名を覚えていてくれた。


私の城だと、分かってくれた。


嬉しい。


でも、同時に恐ろしかった。


黒嶽様は橘の軍勢を皆殺しにするのではないか。


白瀬の兵まで巻き込むのではないか。


この場所からでも、黒嶽様の姿はよく見えた。


*****


「あれは、何だ!」


白瀬の城の天守から戦況を見ていた白瀬しらせ義清よしきよは、遠くの異変に気づいた。


山の方から、黒い影が飛ぶように降りてくる。


人ではない。


馬でもない。


岩山がそのまま動いているような、巨大な何かだった。


「鬼です……あの鬼です!」


花嫁行列で鬼に遭遇した者が、震える声で叫んだ。


「綾姫様をさらった鬼です!」


義清の顔が青ざめた。


「何だと……鬼まで、わしの城を攻めに来たというのか」


家臣たちは声を失った。


橘の一万の軍勢に囲まれ、ただでさえ白瀬は滅びようとしている。


そこへ、今度は鬼。


誰もが、もう終わりだと思った。


*****


一方、たちばな宗景むねかげは本陣の天幕で茶を飲んでいた。


「白瀬の城はまだ落ちぬのか」


「まもなく落ちるかと」


家臣が頭を下げる。


宗景は余裕の笑みを浮かべていた。


「火は放つな。城はそのまま奪い取る。綾姫も隠れておるはずだ。隅々まで探せ」


伝令が走り去る。


宗景は茶碗を置き、いやらしくにたりと笑った。


「ようやく実った姫であったのに。鬼にさらわれただと? 小賢しい手を使いおって」


白瀬の言い分など、宗景は少しも信じていなかった。


綾姫を惜しんで隠した。


そう決めつけていた。


「まあよい。城も、綾姫も、まとめて手に入れる」


その時だった。


「殿! 鬼が現れました!」


「何だと。鬼だと?」


宗景は茶を飲む手を止め、本陣の天幕から外へ出た。


「鬼など、どこにいる」


「殿、あちらです!」


家臣が震える指で示した先に、黒い巨体があった。


宗景の顔が引きつる。


「鬼……だと」


その鬼は、あまりにも大きかった。


人の形をしているのに、人ではない。


竹よりも高く、岩よりも重く、ただ歩くだけで大地が震えている。


だが、宗景はすぐに怒鳴った。


「殺せ! 鬼ごとき、一万の軍勢があれば負けることはない!」


*****


「殿、鬼の動きが妙です」


白瀬の天守で、家臣が声を上げた。


「橘の本陣へ向かっています」


義清は目を見開いた。


「この城には向かっておらぬのか」


「はい。まっすぐ橘の本陣へ」


誰もが息を呑んだ。


あの鬼は、白瀬を襲いに来たのではない。


橘宗景へ向かっている。


*****


黒嶽くろたけは、橘の軍勢へ向かって歩いていた。


巫女が言っていた。


人は殺さないでください。


ならば、むやみに殺さぬ。


巫女が悲しむことはしない。


だが、歯向かう者は退ける。


偉そうな者は砕く。


巫女を泣かせた者は、許さぬ。


*****


「矢を放て! 火矢もだ! 止めろ、止めるのだ!」


橘の兵たちが叫ぶ。


矢が放たれた。


火矢も飛んだ。


槍を構えた兵が前へ出た。


だが、矢は鬼の肌に刺さらず、ぱらぱらと落ちた。


火矢の炎も、鬼の体を焦がすことさえできない。


槍は刺さらず折れた。


「駄目です! 矢も火矢も効きません!」


「鬼は本陣を目指しています!」


「止めろ! 誰でもよいから止めろ!」


その時、鬼が咆哮を上げた。


「ぐおおおおおっ!」


大地を引き裂くような唸り声だった。


その声だけで、前列の兵が崩れた。


馬が暴れ、隊列が割れる。


腰を抜かす者。


刀を落とす者。


泣き叫んで逃げ出す者。


一人が逃げ出すと、周りの者も次々に背を向けた。


「あんな殿のために命など捨てられるか」


誰かが、かすれた声で吐き捨てた。


その声をきっかけに、橘の軍は崩れ始めた。


*****


白瀬の城壁の上では、義清が息を呑んでいた。


「何が起こっておる……」


家臣が震えながら答える。


「鬼が、橘の兵を退けています」


「我らの味方なのか」


「分かりません。ただ、こちらには向かってきておりません」


義清は鬼の姿を見つめた。


恐ろしい。


あまりにも恐ろしい。


だが、その鬼は白瀬を襲っていない。


橘の兵をむやみに殺してもいない。


義清は低く言った。


「あれに攻撃してはならぬ。神の怒りに触れるだけだ」


*****


「なぜ兵は逃げておる!」


宗景は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「すぐに殺せ! 兵全員で斬りかかれ! わしの命に逆らう者は斬れ!」


しかし、誰も命令を聞かなかった。


鬼は悠然と近づいてくる。


吠えるたびに、兵は逃げ惑う。


側近たちでさえ、じりじりと後ずさっていた。


「殿、お逃げください! 無理です! 城まで戻りましょう!」


「くそっ、なんたることだ。輿を持て! 城へ戻る!」


宗景は馬に乗れなかった。


醜く太った体では、すばやく逃げることもできない。


輿が用意された。


だが、遅い。


あまりにも遅い。


鬼は、どんどん近づいてくる。


咆哮が響くたびに、側近が一人、また一人と逃げ出した。


「待たぬか! 逃げるな! わしの命令を聞け!」


もう誰も聞かなかった。


ついには、輿を担ぐ者まで逃げ出した。


宗景は地面に転がり落ちた。


「おのれ……おのれえ……!」


醜く太った体で、宗景は息を切らしながら逃げようとした。


だが、その足取りは歩くよりも遅かった。


「あれは何なのだ。一万の軍勢だぞ」


宗景は震える声でつぶやく。


「鬼は……本当にいたのか」


その時、周囲が影に覆われた。


宗景がおそるおそる振り返る。


そこに、鬼が立っていた。


竹よりも高く、岩よりもたくましく、巨大な鬼。


おぞましい顔。


鋭い牙。


暗く光る目。


宗景の膝が崩れた。


「ひぇっ……来るな。来るなあ! わしは大大名の橘宗景だぞ! わしを殺せば大変なことになるぞ!」


鬼は、つまらなそうに宗景を見下ろした。


「おお。お前がたちばな宗景むねかげか」


「そ、そうだ。わしが橘宗景だ。なぜ、わしを探している」


「巫女が嫌っている」


鬼の声は低かった。


「お前が巫女を泣かせた」


宗景は目を白黒させた。


「巫女? 何を言っておる。鬼よ、望みがあるなら言え。人の肉でも、金でも、女でも、何でも取らせてやる」


鬼の目が鋭くなった。


「鬼だと」


その声に、宗景の体がびくりと跳ねた。


「我には名がある」


鬼は、ゆっくりと言った。


「巫女がつけた、黒嶽という名がある」


宗景は慌てて地面に額をこすりつけた。


「す、すまなかった。黒嶽様、黒嶽神様。どうか、わしを殺さないでください」


「それは駄目だ」


鬼は即座に言った。


「お前は偉そうだ。巫女も、お前が死んでも泣かぬ」


宗景の顔がひきつった。


「誰かおらぬか! 鬼を倒せ! 誰か、誰かおらぬか!」


誰も来なかった。


鬼は、おぞましい顔を宗景へ近づけた。


宗景は涙と鼻水で顔を濡らしながら叫んだ。


「食わないでくれ! わしはうまくないぞ!」


「我は人を食わぬ」


宗景の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


だが、鬼は続けた。


「お前は潰す」


鬼の指が、宗景の体を地へ押さえつけた。


「やめてくれ! 痛い、痛い! わしは大大名の橘宗景だぞ!」


その悲鳴は、すぐに途切れた。


橘宗景が、再び声を上げることはなかった。


鬼は、しばらく宗景を見下ろしていた。


「やっと静かになったか」


そして、辺りを見回すと、大きく息を吸った。


「我は、黒嶽!」


その声が、戦場に響き渡った。


「この地を守る守り神だ!」


逃げ惑っていた兵たちが、足を止める。


白瀬の城壁の上にいた者たちも、息を呑んだ。


「この地を荒らす者は、我が殺す!」


鬼はさらに吠えた。


「巫女を泣かす者は、我が殺す!」


その言葉に、橘の兵たちは完全に戦意を失った。


武器を捨て、我先にと逃げていく。


*****


「殿、鬼が去っていきます!」


白瀬の城壁で、家臣が叫んだ。


義清は呆然と戦場を見下ろしていた。


「何が起こった……橘の軍はどうなった」


そこへ伝令が飛び込んできた。


「敵大将、橘宗景は討たれました! 橘の軍も崩れ、城へ逃げ帰っております!」


「まことか……まことに、そうなのか」


義清は震える声で言った。


「白瀬は、鬼に救われたのか」


「鬼ではなく、黒嶽と申しておりました」


伝令もまた、信じられないものを見た顔をしていた。


「この地を守る守り神だと。この地を荒らす者は殺すと」


「それから……巫女を泣かす者は殺す、と」


義清は眉を寄せた。


「巫女とは誰なのだ」


「分かりません。調べましょうか」


義清はしばらく黙っていた。


だが、やがて首を横に振った。


「いや、やめよ。あれに逆らってはならぬ」


その時、白瀬の城から勝どきが上がった。


滅びるはずだった白瀬は、鬼によって救われたのだった。


*****


戦場からあらかた人がいなくなると、黒嶽様が私のもとへ戻ってきた。


「巫女、たちばな宗景むねかげだけ殺した。ほかは逃げた」


「橘宗景は……亡くなったのですか」


「おお。しっかり本人か確かめた。最後に顔も見た。間違いない」


黒嶽様は私を見下ろした。


「殺したが、駄目だったか」


私はしばらく言葉を失った。


橘宗景が死んだ。


私を苦しめ、父と母を苦しめ、白瀬を踏みつけてきた男が、もういない。


怖くないと言えば、嘘になる。


けれど、悲しくはなかった。


「いいえ」


私は涙をこらえて答えた。


「私は嬉しいです。白瀬の家を救い、戦いを終わらせるには、それしかありません」


そして、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、黒嶽様」


「そうか」


黒嶽様は、少しだけ満足そうに目を細めた。


「ならばよい」


「巫女は城に戻りたいのか」


私は予想外の黒嶽様の言葉に驚いた。


けれど、すでに冷静になっていた。


「今は、戻りたくないです」


父は善良な殿様だと思う。


母も優しい。


白瀬は、私の家だ。


けれど、今城に戻れば、黒嶽様の力を求める者が必ず現れる。


父にそのつもりがなくても、家臣が、民が、周りの大名が、黒嶽様を利用しようとするかもしれない。


何より、今は黒嶽様と過ごす時間を大切にしたかった。


おぞましい顔で、恐ろしい。


それでも私には、かわいく、子どものようにも思えた。


黒嶽様は、また私を小脇に抱えた。


そして、飛ぶように黒嶽山へ向かっていく。


私は笑っていた。


そういえば、最初は恐怖で意識を失っていた。


今は、下に見える景色を眺められる。


強い風も、心地よく感じられた。


ひょっとしたら、私も洞窟で何かの力を得たのではないかと思えるほど、元気になっていた。


そっと黒嶽様の顔を見上げる。


いつものおぞましい顔だ。


けれど、私には分かった。


黒嶽様は、笑っていた。

しばらく、短編を毎日11:50分に更新予定です。

お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

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