停滞する馬車の中で
その日サトシとエレナは馬車に乗り、港湾都市近郊の現状視察の帰路についていた。
それまで好天だった空が瞬く間に雲で覆われ暗くなり、次第に激しい雷雨をもたらしてくる。
「……ひどい雨ですわね。教会の鐘の音も聞こえませんけれど、もう日没も過ぎた頃でしょうか」
エレナが窓のカーテンを少しだけ開け、外の様子を伺う。中世の夜は深い。灯りのない街道では、雷鳴轟く稲光だけが唯一の標だった。
その時、馬車が大きく傾き、嫌な衝撃と共に停止した。
「旦那様! 申し訳ございません、車輪が泥濘に取られました! 助けを呼びに行かせますが、しばらく動きません!」
御者の叫び声。サトシはため息をついた。
「……やむを得ん。エレナ、ここで雨が弱まるのを待つぞ」
馬車という空間は、逃げ場のない密室だ。 普段、商会の執務室では「代表」と「執行責任者」としてデスクを挟んでいるが、ここでは膝が触れ合うほどの距離に座らざるを得ない。
(……一年前より、大人びたな)
サトシは、暗がりのなか向かいに座るエレナを盗み見た。 出会った頃の彼女は、まだどこか「守るべき少女」の面影があった。だが、今の彼女は、並み居る商人をねじ伏せる「総括執行責任者」としての風格を備えてきていた。そして、そのシルエットもより一層女性としての柔らかさを帯びていた。
不意に、一段と激しい雷鳴が轟いた。 その光と音に驚いたエレナが、反射的に身を竦めると重心を崩してサトシの方へと倒れ込んできた。
「エレナ!」
サトシは反射的に彼女の肩を支えようとし、そのまま腕の中に受け止める形になった。 暗く狭い馬車の中で、二人の影は一つになっていた。 サトシの胸の中に、エレナの細い体がすっぽりと収まっている。
「……っ、も、申し訳ありません、サトシ様……!」
エレナが慌てて離れようとするが、足元の暗さに狭い室内、慣れない姿勢でかえってサトシの首筋に腕を回すような形になってしまう。
室外からは雨の湿気とペトリコールが、密着した体からは彼女特有の甘い香りがサトシの鼻腔をくすぐる。 耳元で聞こえるのは、エレナの早鐘のような鼓動か、それとも自分自身のものか。
「……無理に動くな。足元が危ない」
サトシは低い声で言った。意識を平常に保とうとするが、腕の中に感じる「女性」の柔らかさと、その華奢な肩の感触が、サトシの「社畜として鍛えられた理性」を激しく揺さぶる。
エレナはサトシの胸元に顔を埋めたまま、小さく「はい……」と囁いた。 その瞬間、彼女の手が、サトシの背広の裾をぎゅっと掴むのが分かった。
「……サトシ様」
「なんだ」
「こうしていると……土の匂いも、恐ろしい雷も、なぜか遠い出来事のように思えますわ。不思議ですわね」
エレナが顔を上げると、そこには至近距離で彼女の瞳があった。 普段、冷徹に「金利」や「物流規格」を語るサトシの唇が、わずか数センチ先にある。
サトシは、自分が彼女を「部下」あるいは「子供」だと思い込もうとしていた嘘が、音を立てて崩れるのを感じた。 サトシにとってそれは計算外のことだった。
「……御者が戻ってきたようだ。座り直せ」
状況が動くとサトシは努めて平静を装い、彼女の肩を優しく押し戻した。
エレナは顔を真っ赤にしながら元の席に戻り、乱れた髪を整え始める。
「あ、あの……! 今のは、不可抗力ですから! サトシ様も、その……変な意識はなさらないでくださいませ、総括責任者として命令ですわ!」
「……ああ。命令なら、従わねばな」
サトシは再び目を閉じ、心を「無」にしようとした。だが、手の平に残る彼女の背中の熱さと、首筋にかかった甘い吐息の感触だけが、いつまでも消えなかった。
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