第18話 快適な家畜より、泥まみれの獣を
それはサトシが港湾都市シーリンに向かう直前、久しぶりに現代へ帰ったときのことだ。
帰還してまず初めに行ったのは風呂に入ることだった。 異世界の衛生観念にはずいぶん慣れたつもりであったが、やはり日本人たるもの入浴がない生活は厳しいものがある。
たっぷりの湯を張って久々に浸かった自宅の風呂は、ワンルームマンションにふさわしい狭さではあったものの、温度の揺らぎ一つなく全身を包み込んでくれた。 ボディソープを泡立て、異世界の土埃と、染み付いた酒精の匂いを洗い流す。
衣装ケースから出した清潔なシャツに着替え、鏡を見る。 そこに映ったのは「サージョ・コメルツォ」の代表ではなく、くたびれた三十代後半の男の姿だった。
「腹が減ったな」
21時、すでに日は落ち夕食の用意をする気も冷蔵庫の中身もない。 車で15分ほどのところにあるローカルチェーンのファミレスへ向かった。
席に着き、タッチパネルを数回叩くだけで熱々のハンバーグが運ばれてくる。 ドリンクバーのコーラは完璧に冷え、グラスの氷すら均一な形をしている。
「……ここは間違いなく天国だな」
サトシは独りごちた。 すべてが手探りなあの世界とは違う、ここではボタン一つで望むものが届く。
だが、この世界で俺はただの「消費者」に過ぎない。 この世界の資本の歯車に噛み合わされ、誰かが決めたルールの上で、血と涙で築き上げた残高を削りながら生かされているだけだ。
しかし、あの不潔で残酷な異世界では俺がルールだ。 俺が引いた境界線の内側では、すべての自由がこの手にある。
「結局俺には快適な家畜より、泥まみれの獣の方が性に合っていたんだろうな」
そうしてサトシは最後の一口を放り込み、伝票を掴んだ。
◇
自宅に戻り、スマホを操作する。 先日帰還した際、異世界で見つけたこの世界で売却しても怪しまれない民芸品をネットオークションに出品していたのだ。 設定した入札の終了時刻が近づいていた。
現地の露店で銀貨数枚――現代の価値にして数千円で買い叩いた、職人による一点物の革バッグと、どこかの村の祭り用だという不気味な木彫りの仮面。
正直二束三文でも構わなかったのだが、望外に好事家たちが競り合い、価格が跳ね上がっていた。
『この造形はプリミティブ・アートの極致だ』 『作者不明だが、使われている革の質が現代のどのブランドとも違う』
画面の向こうの称賛に、サトシは冷笑を浮かべる。 原価は二束三文、利益率は数千パーセント。 現代の預金残高が数十万円単位で回復していくのを確認し、彼は「現代側での生存コスト」を確保した。
翌朝、サトシは市立図書館の静寂の中にいた。 調べたいのは、大航海時代の最大の敵――「壊血病」の歴史だ。 概要は知っている。だが、ビジネスとして成立させるための「最適解」を確定させる必要がある。
書架から歴史書を抜き出し、先人たちの試行錯誤を紐解く。
「柑橘類……ダメだ。保存性が悪すぎる。大量のライムを積めば、それだけで船倉の半分が埋まる。輸送コストの面でも推奨はできない」
「ザワークラウト……ジェームズ・クックの手法か。保存は利くが、結局嵩張る。輸送量がそのまま利益に直結するんだ、なるべく小さなものがいい。俺が欲しいのは、もっと効率的で、独占しやすい『形』だ」
資料を読み進めるうち、サトシの指が止まる。 『ローズヒップ』。 かつてイギリスが大戦中にオレンジの代用として推奨した野草だ。
「……これだ。道端の雑草。価値がないと思われているゴミ。これなら製法を秘匿しやすく、かつ原価を極限まで抑えられる」
◇
図書館を出た足で、サトシはドラッグストアにいた。 購入したのは、一粒で一日分の栄養を賄うマルチビタミンのサプリメントをあるだけ。
「これは治療のための『劇薬』だ」
末期の患者を数日で立ち上がらせ、周囲に「奇跡」を見せつけるためのデモンストレーション用。だが、普及させる製品はあくまで異世界の素材だけで作り上げねばならない。
「安易な現代品の持ち込みは異端認定のリスクを高める。奇跡は安売りしない。それが独占権益を守る唯一の道だ」
サトシはカバンの中のサプリメントの重みを感じながら、再び「支配者」として異世界へ戻るゲートへと向かった。
◇
時は戻りシーリンの特別病棟。 先日までもう助かるまいと重苦しい死臭が漂っていたはずのその場所に、今、驚愕のどよめきが走っていた。
三週間前、歯茎から血を流し、古傷から膿を噴き出させて「海の呪い」に震えていた船員たちが、自らの足でしっかりと床を踏みしめ、退院の準備を始めていたからだ。
サトシがこの三週間で行ったことは、外部から見ればまさに「神の御業」に映ったことだろう。 しかし実際に彼が行ったのは「聖なる粉末」という名のサプリメントを投与しただけだ。
一日に2回、サトシが持参したサプリメントを砕いた「聖なる粉末」を飲ませると、今にも死神に連れていかれそうだった船員たちは、日に日に顔色を土色から生気ある赤味へと変えていった。
出血しどす黒くなっていった歯茎の腫れは、今やピンク色だ。 彼らから消えかけていた命の灯が再び宿ったのである。 その奇跡を目撃したグスタフは、希望と畏怖に満ちた視線をサトシに向けたのだった。
しかし、サトシの内心は穏やかではなかった。 手元にあるサプリメントのボトルはすでに空。在庫という名の「現代の遺産」は、この三週間で底をついていた。
◇
「サトシ様、原材料の調達は完了しました。ですが……本当にこんなもので『呪い』を防げるのですか?以前仰っていた柑橘類とも違うようですが」
サプリメントという完成品に頼るのはもう終わりだ、これからは俺たちの手で「奇跡」を作り出す。
エレナが不安げに、倉庫に山積みされた大量の「乾燥した赤い実」を見つめている。 それこそが道端の茂みに自生し、せいぜい子供が遊びのついでにつまんで食べたり、飢饉のときの非常食となる植物。一般には古くから使われる下剤程度の認識しかないローズヒップだった。
ローズヒップ、それはビタミンC欠乏症の解決にこれ以上ない植物であった。 そのビタミンC含有量は実にレモンの30倍、そして小さい。 積載量がそのまま利益につながる交易船で、その違いは何よりも価値がある。
そしてバイオフラノイドを含んでいるため、ほかの植物に比べて含まれるビタミンが熱に強い。抽出する際に加熱を避けることは非常に困難であり、熱に弱いビタミンCの破壊を最小限にしてくれる。
しかし、これが「不治の呪い」を解く鍵だとは、今はまだこの世界の誰も気づいていない。 この時代、そこら中に生えているそれは銅貨数枚も払えば喜んで摘んできてくれるようなものだった。
「これで原料の確保は終わった。グスタフ殿の名で『新種の着色剤の実験』として触れを出したおかげで、二束三文で十分な量を買い叩けたからな。それに実際に一部を着色料として使うだけで、誰もこれが壊血病治療薬の原料だなんて思わない。……だがな、エレナ、本当の戦いはここからだ。問題は『保存』なんだ。この成分は光、酸素、熱に弱く、驚くほど扱いにくい」
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