第1話 時価評価額28万8000円のディープ・バリュー株
俺は手元のタブレット……もとい「元・本」を見つめた。
1円が12.5ルピ。 この「ルピ」というのは、おそらくここで使われている通貨単位なのだろう。
俺の財布には、古本屋に寄る前に下ろしたばかりの通院費と生活費、合わせて五万円ほどが入っている。
「五万かける十二・五……六十二万五千ルピか」
この数字が多いのか少ないのか、それを見極めなくてはならない。 だが、それを確認するのは今すぐじゃない。 まずはこの「元・本」がどういったものなのか、なにができてなにができないかを知る必要がある。
俺はこの世界から帰ることはできるのか? 本体を裏返したりサイドボタンを確認したりと、10分ほどいじくりまわしてみると、いくつかのことがわかった。
為替レート表示の右下にはログインとログオフのボタンがあり、『現在チャージ中。残り3時間』と書かれている。 これは、あと3時間で帰還ができるという意味だろう。 少なくともこれから3時間、俺はこの世界にとどまらなくてはいけないらしい。
左下には『インベントリ』の文字。 タッチすると『空』と表示された。 想像通りならば「収納機能」のはずだ。
アイコンをタップすると、頭の中に所持品のイメージと矢印が浮かぶ。 バッグ、スマホ、診察券、財布……。 意識すると矢印をカーソルのように動かすことができ、財布のイメージに重ねた。
『収納しますか? はい/いいえ』
迷わず「はい」を選択する。 すると手元にあった財布が消え、インベントリの表示が『財布×1』に変わった。 今度はタップして取り出しを選択すると、手元に財布が戻ってくる。
(この機能は物資の輸送や盗難防止に使える。この世界で生き抜くうえで大きなアドバンテージだ)
一通りの確認を済ませると、俺は路地裏から表通りへ向き直り、活気ある市場へと足を進めた。 十五年のブラック企業生活で染み付いたのは「まずは現場を見る」という鉄則だ。
物価、通貨、人種、言語、文字、文化……。 現代との違いを把握しなければならない。
手始めに、近くでよくわからないオブジェを売っている露店の店主に話しかけた。
「こんにちは」
「おう! なんか気に入ったもんでもあったかい?」
驚愕した。 大柄で頭髪の薄い店主は、なんと日本語を話したのだ。 いや違う。口の動きを見れば、聞いたこともない言語を使っている。
(たしか、転移するときに『言語パッケージをインストール』とか言ってたな。あのタブレットの機能か)
「……いや、これに興味があってね」
とりあえず右端にあった謎のお面を指さす。
「ああ、それは東の方からきた民芸品さ。なんでもその村の祭りでは、男はみんなこれをつけなきゃならんらしいぞ」
◇
市場といくつかの商店を一時間半ほど歩き回り、ざっくりとだが世界の輪郭がつかめてきた。
ここは大陸西端にある国家オルドリンドの商業の中心、自由都市オルファナ。 文明レベルは中世後期から大航海時代の初期といったところだ。 産業革命前であることは間違いない。
奴隷と思われる者たちを見かけることもあった。 身分の保証もない俺は、常に周囲に気をつける必要があるだろう。
人種は欧州系の白人種が八割。中東系とアジア系が少し。 アジア系が自分だけではないようで、少し安心する。
エルフやドワーフといった亜人は見当たらないが、「魔法」は存在するらしい。 とはいえ希少な技術のようで、教会に行けば高額な寄付金と引き換えに治癒などのサービスを受けられるといった程度だ。
通貨の最小単位はルピ。 両替屋で聞いた貨幣のレートは以下の通りだった。
銅貨 = 100ルピ
銀貨 = 1,200ルピ(1シル)
金貨 = 24,000ルピ(12シル / 1リンド)
物価は日本円換算では非常に低いが、品目による振れ幅が大きい。
肉の串焼き:100ルピ(約8円)
定食:1,200ルピ(約100円)
安宿の素泊まり:1,700ルピ(約140円)
一流宿(一泊二食):48,000ルピ(約3,800円)
一方で、陶器やガラス、精巧な金属製品は希少なようで、数万ルピから数百万ルピの値がついている。 ちなみに、一般市民の年収は五十万〜八十万ルピ程度らしい。
問題は「現代の物品」だ。
「……さて、このマッチ、どう評価されるか試してみるか」
俺はシガリロを指に挟んだまま、市場の奥へと歩を進めた。 一軒の古ぼけた店に入る。
店内には質の悪いロウソクや、煤だらけのオイルランプが並んでいる。 奥では白髪の男がこちらを凝視していた。
「親父さん。これを見てくれ。火打石いらず、一瞬で火が点けられる棒だ。マッチというんだが」
店主の目の前でシュッ、と小気味よい音を立てて火を灯す。
「な……!? 魔法じゃないのか!? ただの木の棒から火を……!? おい、それを見せてみろ!」
店主の顔が驚愕に染まる。 恐る恐るマッチを一本受け取り、そのシンプルな構造に絶句している。
「おい、これを一箱譲ってくれるなら、リンド(金貨)を……いや、二枚(四万八千ルピ)出そう!」
金貨二枚。日本円にして約3,800円。 三箱百円のマッチが、百二十倍の価値に跳ね上がった。 一般人の月給が五万ルピ程度だとすれば、マッチ一箱で給料の九割が飛ぶ計算だ。
「悪いな。これはただの見本なんだ。今度はもっといい物を持ってくるよ」
店主の制止を背に、俺は店を出た。 異常な利益率に震えるが、同時にこの世界と現代の間にある「歪み」に危うさも感じていた。
なんの力も持たない俺が、こんな法外な利益を出し続ければ、すぐに身ぐるみを剥がされるだろう。
(まずは、地盤を固めるために俺の考えを実行に移せる現地のパートナー……『COO(執行責任者)』が必要だ)
常識を知り、教養があり、そして人脈があるパートナーを。
◇
俺は市場の最奥、重い鎖の音が響く一角へと足を向けた。 そこは『奴隷市』だった。
不衛生な環境で絶望に沈む人々。 その一番隅に、泥に汚れ、痩せこけていながらも、通りかかる商人を冷静に観察している少女がいた。
銀色の髪。 掲げられた看板には、『元カエサル商会・長女。読み書き、算術、商売の基礎習得済み』と書かれている。
彼女の瞳だけは、死んでいなかった。 俺という「余所者」が纏っているシガリロの香り、そして衣服の「不自然な縫い目の細かさ」を値踏みするように見つめている。
(……あれは『ボロ株』じゃない。一時的に価値を暴落させているだけの『ディープ・バリュー株』だ)
投資家としての直感が、激しく鐘を鳴らした。 だが、価格は『金貨百五十枚(三百六十万ルピ)』。 今の財布にある五万円分では、圧倒的に足りない。
(……一旦、利確して出直すか)
タブレットを確認する。
『チャージ完了。帰還可能です』
転移からちょうど三時間が経過していた。 俺は人目のない路地裏に入り、ログオフボタンを押した。
視界がホワイトアウトする。 次に目を開けたとき、鼻腔を突いたのは消毒液の匂いだった。
◇
「……五十九番の方、どうぞー」
看護師の気の抜けた声が響く。
「……はは、やっぱり戻ってこれるんだな」
俺はパイプ椅子から立ち上がり、診察室ではなく出口へと向かった。 もう、医者の診察も睡眠薬もいらない。
やるべきことは決まっている。 あの銀髪の少女を買い取るための三百六十万ルピ。 日本円に換算すれば、たったの二十八万八千円だ。
「社畜十五年の結晶を舐めるなよ、異世界」
あの世界なら、俺は新しい『居場所』を掴めるのかもしれない。 俺はクリニックのドアを勢いよく押し開け、太陽の下へと踏み出した。
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