プロローグ 世界線アービトラージ:初期資本は1500万円
「もう無理……」
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。 出勤時間が迫っているが、体が動かない。
以前、過労で退職した同僚が言っていたことを思い出す。
「知ってるか? 鬱になるとなあ、ほんとに体が動かなくなんだよ」
ああそうか、これはたぶん同じ状態なんだろうな。
ブラック企業勤続15年。月月火水木金金。 毎日顧客に怒鳴られ、上司になじられ、毎日のように泊まり込み。 思えば、当然のことかもしれない。
体は鉛のように重く動かない。 しかし、不思議と頭は冷静だった。
「よし、もう辞めよう」
こういう時は休むことが一番だと聞いたことがある。 とにかく、原因から切り離すのだ。
幸い、ブラックな労働環境のおかげか、生活費以外に給与を使う暇もなかった。 死蔵されていた貯金だけは1500万円ほどある。
細々と生きていくだけならば数年は生きていけるだろう。 節約生活なら10年だっていけるかもしれない。
そう考えると、ふっと心が軽くなった。 現金なもので、まだ体は重く感じるものの、どうにか動くようになってきた。
「とりあえず病院行くかぁ」
同僚が仕事中に突然泣きわめき、手が付けられなかったときに連れていかれたメンタルクリニックが近くにあるのだ。 のっそりのっそりと着替えを済ませ、ひげも髪の毛も整えず、俺はクリニックに歩いて向かった。
◇
「あー、いい天気だな。他人が労働にいそしんでいる真昼間まで爆睡できるのは最高だぜ」
あれから2か月がたった。
あのあと、俺はメンタルクリニックで鬱の診断をもらい治療を開始。 翌日には退職届を内容証明でパワハラ上司に送り付けてやった。
退職後の二ヶ月間、俺がやっていたのは「何もしないこと」……と、趣味の投資だけだった。
食う、寝る、チャートを見る。 食う、寝る、チャートを見る。 たまに散歩に投資の勉強。そんな生活だった。
一五〇〇万円の貯金のほかに、三百万円を『MBIS』という期待の米国テック株に突っ込んでいたが、これがまた見事な右肩下がり。 ピークの一四〇ドル付近から、今は見る影もない。
「まあ、いいさ。会社に人生を捧げるより、数字が減るのを眺める方が百倍マシだ」
ちょこちょこ別の銘柄も取引し、収支はトントン。 現在は含み損ではあったが、投資だけはそれなりに楽しかったのだ。
そんなある日の午後。 クリニックへ通院の途中、開院時間までの暇つぶしに立ち寄った古本屋で、ある奇妙な一冊の本に出会った。
黒、いやこげ茶だろうか。 その中間色で、少なくとも牛革ではなさそうな謎の革張りの表紙。 本屋でも図書館でも見たことがない、古びた本だ。
普段ラノベしか読まない俺には縁がなさそうな本だったが、なぜか目が離せない。 店の奥で椅子に腰かけた高齢の店主に声をかける。
「おばちゃん! これいくら?」
店主は訝し気に、俺の本を持つ手元をのぞき込んでいた。
「うーん、こんな本あったかねえ? いつ仕入れたもんだ?」
表紙を見ながらしきりに首をひねっている。 店主にも見覚えがなさそうだ。 大丈夫かこの店……在庫管理もできてないじゃないか。
「まあいいわ。500円ね。500円」
めちゃくちゃ雑にそう言われた。 あまりに適当な対応に腑に落ちない気持ちになりながらも、財布から千円札を取り出した。
「まいどあり。また来ておくれよ」
お釣りを受け取った俺は、返事をせず会釈し、店を出てクリニックに向かった。
◇
午後の開院は1時半だ。 ちょうどその時間に到着したのにも関わらず、クリニックの待合室は既に結構な混み具合だった。
受付を済ませ、五十九番と書かれた番号札を受け取る。
「三十二番の方、診察室2番にお入りくださーい」
看護師の、患者を呼び出す間延びした声が待合室に響く。 俺の番号が呼ばれるまではかなりの時間がかかりそうで、気分はげんなりしてくる。 2、3時間は覚悟する必要がありそうだ。
周囲の順番待ちの患者を見渡し、「よっぽど精神を病んでるやつが多いんだな、この国は大丈夫なんだろうか」と、自分をよそに見当違いな思いを抱く。 今時珍しい待合室のパイプ椅子に深く腰掛け、順番を待つのはあまりに暇な時間だった。
ふと、先ほど買った五〇〇円の本が気になってくる。 カバンから例の本を取り出し、眺めてみる。
相変わらず本革だとわかるのに、何の革だかさっぱりわからない、使いこまれたであろう装丁。 年代を感じさせる変色がそこかしこにあり、しかし一切のほつれや破れなどは存在しなかった。
サイズはB5サイズ程度で、厚さは2cmほどだろうか。 まあいい、大切なのはなにが書かれているかだ。 おもむろに表紙を開く。
――中身は、白紙だった。
「なんだ、外れか。五〇〇円分損したな。日記帳かなんかか?」
そう呟いた瞬間。 本がカッと青白く発光し、白紙だったページに文字が、いや、「チャート」が浮かび上がった。
それは株価や為替のチャートによく似ていたが、単位も銘柄も見たことがないものばかりだ。
『使用者を承認。これより登録者以外の使用はできません』
『使用者に最適な形態に移行します』
『転移先に適合した言語パックをインストールします。ライブラリに存在しない単語は翻訳ができません』
『世界線アービトラージ:接続完了。初期資本を確認中……』
「……は?」
耳元で、合成音声のような声が響く。 同時に、視界がぐにゃりと歪んだ。
診察室から漏れる看護師の呼び出し声が、遠く、エコーのように消えていく。
◇
代わりに感じたのは、嗅いだことのない強烈な臭いだった。
「……っ!? げほっ、ごほっ!」
肺に流れ込んできたのは、真夏のゴミ捨て場に家畜の排せつ物をぶちまけ、一週間放置したかのような強烈な腐敗臭だった。
あまりの臭気に涙目になりながら、何が起きたのか確認しなければと目を開けてあたりを見渡す。 そこには中世ヨーロッパの絵画でみたような、奇妙な街並みが広がっていた。
「……まじかよ。こんなのラノベの中だけの話じゃねえのかよ」
異世界……だろうか? 確かにさえないおっさんが異世界に行ってチート能力で無双する小説を読んだことはある。 中世っぽい剣と魔法のファンタジー世界で大活躍ってやつだ。
しかし今、俺がいるこの世界はイメージしていた異世界とは大きく違っている。
ラノベの舞台であるきれいな似非中世世界とは異なり、道端の溝には正体不明の汚物が溜まっている。 行きかう人々の服は脂じみ、そこにはおおよそ「清潔・衛生」という概念が存在しないことを物語っていた。 さすがにこれが現実とは思えず、頭の中は大混乱だ。
「落ち着け……落ち着け……」
そう自分に言い聞かせながら、反射的にポケットを探る。 指先に触れるのは、愛用しているシガリロのケースとマッチだった。 手が震えている。
シガリロを一本口にくわえ、マッチを箱の横に走らせた。 シュッと乾いた音とともにオレンジ色の炎が立ち上がる。 それをシガリロの先端に近づけ、深く息を吸い込んだ。
「……ふぅ」
吐き出した紫煙が、バニラとたばこの香りで世界を塗り替える。 糞尿の臭いが薄れ、肺がようやく落ち着きを取り戻す。 煙越しに見えた景色は、先ほどよりいくらかマシに見えた。
状況の確認が必要だ。 『シガリロの香り』と、十五年の社畜生活で培われた『トラブルへの冷静な対応力』が、俺がパニックになるのを抑えてくれた。
まずは真っ先に、自分の姿を確認する。
「変わってないな……。異世界転移系ってやつか?」
異世界系のラノベでは転生、憑依、転移がスタンダードだが、今回は転移で間違いないだろう。 次は持ち物の確認だ。 小さなバッグに財布、スマホ、クリニックの診察券、そして――。
「……あった。これだ」
さっきまで開いていたあの「本」が、いつの間にか一冊のタブレット端末のような姿に変貌していた。
『現在レート:1円 =12.5ルピ。為替両替ができます』
「1円が12.5ルピ……。為替レートがあるのか、この世界」
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