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婚約者の口説き文句が意味不明な話

作者: 櫻まど花

「あなたは、読まなくていいところまで丁寧な本みたいな方ですね」


「……はい?」


 あまりにも自然な調子で言われたので、聞き返すまでに一拍遅れてしまった。言葉の意味をほどこうとしても、どこから糸口を見つければいいのか分からない。

 読まなくていいところ。それはいったい、どのあたりなのかしら。目次か、奥付か、あるいは印刷所の住所? そこまで丁寧、とは……。  

 いずれにしても、初対面に近い婚約者から出る言葉ではないはずなのに、本人は極めて真面目な顔つきで納得したように頷いている。


 ──この方が、わたしの婚約者。


 彼の名はランツェレト・フォン・シュテルンベルク。国でも指折りの名門の生まれで、幼少より学識に恵まれ、誰に対しても穏やかであると評判の方。社交界における評価はおおむね良好で、家名にも本人にも、これといった瑕疵は見当たらない。


 ただ一つ──言葉の選び方だけが、どうにも変わっている。


 舞踏会でもお茶会でも、遠回しな言葉の意味を読み違えないように育てられてきたはずなのに、彼の前ではそのどれもが役に立たない気がする。不思議な調子で妙な比喩をつぎつぎと差し出され、言葉が届いているのかどうかすら分からなくなるのだ。


 お会いするのは、これで三度目。形式ばった紹介を経た最初の夕餐会、ぎこちないながらも和やかな会話を交わした二度目、そして今日は「気候も良いですね、湖まで歩きましょう」と彼が言い出して、屋敷のはずれにある湖まで足を伸ばしている。


「あら、白鳥が……」


 葉脈のような細かな波の上、遠くで滑る白い影を見つけてわたしは呟いた。ランツェレト様はふと立ち止まり、視線だけでその群れを辿る。


「白鳥は、生涯つがいを変えないそうですよ」


「まあ、それは……素敵ですわね」


 素直な感想を言ったつもりだった。彼はうなずき、変わらず落ち着いた声で続ける。


「一方で、おしどりは一年ごとに相手を変えます」


「……はい?」


「仲のいい夫婦の象徴として語られますが、実態はそんな感じです」


 急に雑学が始まった。これは、どういう反応をするのが正解なのかしら。感心すればいい? それとも笑えば?


「象徴というものは大抵、事実より物語性を優先しますから」


 彼は淡々と言う。特に皮肉を言う口調でもない。わたしは判断が追いつかなくて、足元の小石を見つめてしまう。それでも沈黙だけは不作法だと思い、どうにか言葉を探す。


「ええと、一途なのも、とても素敵ですけれど。恋が多いというのも、それはそれで……人生が華やいで、素敵ではなくて?」


 自分でも何を言っているのか分からなくなりながら言った。とにかく、彼の言葉を否定しない方がいい気がしたのだ。

 彼は、そこでようやくこちらを見る。するとほんの一瞬だけ、困ったような、少し寂しそうな顔をした。


「……そうですね」


 それだけ言って、視線を湖に戻す。


 なぜ、今、そんな顔をなさるの?


 問いただすには遠すぎて、でも黙ってやり過ごすには近すぎる距離で、わたしは日傘を握りしめたまま言葉を失った。

 確かに、将来の妻が「恋が多いのも素敵」などと言えば、不安になるのかもしれない。いえ、そもそも白鳥やおしどりの話から、どうしてそういう心配へ繋がるのかも分からないのだけれど。


 ……やはり、わたしはこの人が分からない。



 ◆



「それ、あなたを試しているのではなくて? 遠回しな言葉を、どこまで理解できるか……とか。あるいは、何か不満をやんわり伝えているのかもしれないわ」


「……そう、かしら」


 社交慣れした従姉妹の見立てに、わたしはティーカップの揺らぎに視線を落とした。彼女は舞踏会も夜会もお手のもので、微笑みとやり取りの手綱捌きにかけては、わたしよりずっと心得ている人だ。


 わたしは知らず知らずのうちに、彼を戸惑わせたり、息苦しくさせたりしているのだろうか。心が揺らいで、しばし迷った末にポケットに忍ばせていた封書をそっと取り出した。


「最近、こんなお手紙をいただいて」


 宛名には、流麗な筆致で“ヴィヴィエンヌ嬢”と記されている。家名を含めた正式な名でもなく、かと言って砕けすぎてもいないその呼び方に、わたしはまだどう反応すべきか決めかねていた。


 従姉妹の前で封を切り、ゆっくりと読み上げる。


 ──天気の移ろいやすい季節になりましたが、あなたの心はお変わりなくいらっしゃいますか。


 書き出しからして、やはり少しおかしい。普通は「ご健勝のほど」とか「お身体をお大事に」となるところだ。


 ──こちらでは、朝のスープに湯気がのぼるたび、あなたの横顔を思い出します。意味は特にありません。ただ、そうなるだけです。


 ──お忙しい日々をお過ごしかと案じております。あまり無理をなさらず、椅子に座るときには背を凭れさせて、深く息を吸ってください。吸うときに、よろしければ僕の名前を思い浮かべていただくと、少し楽になるかもしれません。ならないかもしれません。


 ──季節が巡り、風向きが変わっても、僕の心はできるだけ同じ場所にいようと努めています。努力の話なので、もしかすると少しずれるかもしれません。そのときは、あなたに袖をつまんでいただければ助かります。


 読みながらつい眉間が寄ってしまい、わたしは慌てて表情を整える。そして最後に、落ち着いた筆致でこう結ばれていた。


 ──近いうちにまたお目にかかれますことを楽しみにしております。晴れでなくても構いません。曇りでも雨でも、あなたならきっと美しいと思いますので。


 わたしは本の頁を閉じるように手紙を畳み、胸の前に寄せた。

 気遣ってくださっているのは、十分すぎるほど伝わる。わたしの体調や心の在りようを案じてくださっているのも、たしかだと思う。それなのに、ところどころで言葉がふっとわたしの指の間をすり抜けてしまう。


「やっぱり、変わっていらっしゃるわ」


 従姉妹は笑いを含んだ声音でそう言ったあと、紅茶のカップを受け皿へ戻した。


「でも、嫌味という感じはしないし……むしろ、不器用な方なのではなくて? まっすぐ好きとか心配ですと言う代わりに、詩みたいな形にして渡してくる人って、世の中には一定数いるのよ」


「詩……」


「ええ、少し長めの。しかも“意味は各自で解釈してください”って書いてあるような」


 面白がる目をした彼女に、わたしは曖昧に微笑み返しながら、心にたゆたう波を持て余す。彼女は肩を震わせ、ひとしきり笑ったあと、真面目な顔に戻った。


「ただ、あなたが困っているなら、ちゃんと伝えたほうがいいわ。“たとえ話は三日に一度にしてください”とか」


「そんなお休みの日みたいに……?」


 分からない。やっぱり、わたしは彼が分からない。

 けれど、分からないままに、また次の手紙を待ってしまう自分がいる。


 それから、わたしたちは何度か顔を合わせる機会を得た。

 季節の花が咲きこぼれる庭園で、あるいは書庫の静けさの中で、あるいは馬車の音が遠くを過ぎてゆくサロンで。


「蜂って、同じ花にはあまり戻らないんですよ」


「効率が悪いから、でしょうか」


「はい。でも例外もあります」


「例外?」


「一度覚えた匂いを、何年も探す蜂がいる」


「……」


「執念深くて、可愛いなと思って」


「可愛い……?」


「蜂が」


 別の日。


「読書はお好きですか」


 と尋ねられたので、わたしは素直にうなずいた。


「あなたと話していると」


「はい」


「短編だと思っていたのに連作だった、みたいな気分になります」


「……長い、ということ?」


「いいえ。むしろ、最初はこれで十分だと思っていたのに、足りなくなるんです」


 言って、彼はほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。

 相変わらず、意味は分からない。けれど、不思議と居心地が悪くなることはなかった。

 むしろ、そのゆるやかな噛み合わせの悪さが、気を張らなくてよい余白を作ってくれる。言葉の意味を解こうと頭を悩ませながらも、その奇妙さの奥にあるものへ、触れてみたいと思ってしまう。


 ──でも、両親には理解されなかった。


「家柄は申し分ない。人柄も問題ないし、礼儀もある。ただ……結婚相手として見たとき、不安がないかと言われれば……少し考えるところがある」


「ええ、悪い方ではないのよ。むしろ穏やかで、優しそう。でも……あなたが疲れてしまわないか心配なの」


 そんなふうに言われてから、わたしは変に意識してしまったのだと思う。婚約者なのだから、ちゃんと理解しなければ。比喩も冗談も、意味を取り落とさないように。それからわたしは、彼の言葉を一つ残らず、真面目に受け止めはじめた。


「この前のお話ですけれど」


「はい」


「白鳥のお話。あれは……一途であるべき、という意味でしたのよね」


 彼は首を傾げて、小さく瞬く。


「いえ、そういう意味では……」


「では、どういう意味ですか?」


 詰め寄るつもりはないのに、いつもより少し強い声になってしまう。わたしは焦って、さらに言葉を重ねた。


「以前、わたしの瞳が葡萄畑の影みたいだと仰っていましたよね。あれは、暗いという意味でしょうか。それとも、すっぱい……?」


「違います。ただ、なんとなく」


 否定はするのに、説明はされない。わたしはますます混乱して、疑問ばかりが増えていく。


「……なんとなく、では困ります。婚約者なのですから」


 ぽつりとそう言った瞬間、彼の表情がほんの少しだけ陰ったのが、誰にでも分かるほどはっきり見えた。それは、これまでのどんな曖昧な笑顔よりも明確で、鋭い痛みのように思えた。

 けれど彼はそれ以上、何も言わなかった。いつもの声音で「そうですね」とだけ答えて、それきり話題を変えた。


 その晩、わたしは自室で一人、窓の外を眺めていた。夜気の冷たさが硝子を伝って指先に沁みる。わたしは、自分の問い詰めるような口調を思い返す。


 どうして、あんな言い方をしたのだろう。


 わたしはちゃんと理解したかった。間違ったまま、うなずくのは嫌だった。婚約者として、責任をもって向き合いたかった。


 それなのに。


 意味を探そうとすればするほど、彼の言葉の奥に潜んでいたはずのあたたかい何かが、するすると手から離れていく気がする。

 そして、今日のあの悲しそうな顔。

 ……わたしは、彼を理解しようとして、何か大切なものを取り違えているのではないかしら。



 ◆



 二人きりで湖畔を歩いているのに、わたしの思考だけは相変わらず、質問と反省と心配事が順番待ちもせずに口々に喋りつづけているみたいに慌ただしかった。

 考えて、考えて、とことん考えて──そのうち、何を考えていたのかさえ分からなくなってしまって、湖面に映る雲ばかりをぼんやり追っていた。


「雲って、不思議ですよね」


「……え?」


「追いかけているつもりでも、いつのまにかこちらが置いていかれる」


 彼は湖面を見つめながら、さらりと言った。水面には白鳥が影を落とし、風が通るたびにさざ波に雲がほどけていく。


「ゲーテの若いころの手紙に、そんな調子の一節があった気がします。つかまえようとすると、かえって輪郭が崩れる、って」


 つかまえようとすると、崩れてしまうもの。気づきたくなくても、思い浮かぶ姿はひとりしかいない。

 もう、分からない。分かりたいのに、近づこうとするたび、わたしの手のなかでは形が崩れていく。わたしを置いていくのは雲ではなくて、あなたのほうだった。


「……分かりませんわ」


 言ったそばから、足取りが重くなる。ここで歩み寄るのをやめてしまえば、本当に離れてしまうのではないか。もうこの先ずっと、同じ景色を見られなくなってしまったらどうしよう。


 彼はすぐには何も言わなかった。その短い沈黙のあいだ、わたしの鼓動ばかりが嫌に鳴り続けて──。


「でしょうね」


 ふっと、肩の力が抜けるような声が降ってきた。責める響きではなくて、笑い飛ばすでもなくて、むしろ安堵が混じった穏やかな響きだった。


「分からなくていいんです」


 あまりにあっさりと言われて、わたしは視線の置き場所をなくしてしまい、湖面と彼の横顔のあいだを行ったり来たりさせる。


「でも……前にここでお会いしたとき、わたしの返事に困った顔をしていらしたでしょう?」


「していました?」


「ええ。ですから、わたしの答えが……」


「間違っていたと?」


 言い逃れをする勇気なんてなくて、わたしは素直に頷いた。ずっと抱えていた荷物の中身をようやく言えた子どもみたいに。


「ヴィヴィエンヌ嬢」


「はい」


「僕は、正解を聞きたいわけではないですよ」


「では、何を?」


「……続けたかっただけです」


「続ける、とは?」


「話を」


 彼は湖を見ていた。水鳥が一羽、遠くで水を蹴る。ぱしゃりという音が、会話に助奏みたいに入る。


「僕の話が少し変なのは分かっています。よく言われますから」


 楽しそうで、照れも混じっている。本人が一番よく知っている、とでも言うような声音だった。


「だから理解してほしいとは思っていません」


「では……?」


「あなたが首を傾げるでしょう。そのたびに僕も考え直す」


「……考え直すのですか」


「こういう言い方は伝わらないのか、とか。これは言葉が先走りすぎたな、とか」


 彼の言葉は湖畔の砂利道よりも自由で、ところどころ飛び石みたいに間がある。思えば、その飛び石のあいだを、わたしはいつも慎重に辿っている気分になった。


「結局、お互いに“まあ、よく分かりませんね”というところに戻っても、それでいいんです」


 それでもうまく渡れたとか、少し踏み外したとか、そんなことで笑ってしまうような気楽さが、わたしたちの間には確かにあった。

 意味なんて分からなくてもよくて、いちいち身構えたり試されている気がしたりしなくて、それでいて隣にいられる心地よさが確かにあったのだ。


「分かり合えたという正解より、話が続いた、という事実の方が僕には大事で」


 思えば、初めて会った日からずっとそうだった。奇妙で意味が分からなくて、でもどこかあたたかい言葉たち。あれは謎かけではなく、ただの呼びかけだった。並んで同じ道を歩きながら声を聞かせてくれた人に、わたしは難しい答えを探し続けていた。


「ちなみに」


「……まだ続きますのね」


「はい。こういう話でも、あなたは途中で遮らないので」


「礼儀ですもの」


「そこが好きです」


「……今、何と?」


 どう反応すればいいのか迷っているうちに、彼は少しだけ歩幅を緩める。湖の端に生えた葦だとか、取り立てて重要でもない景色をゆっくり眺めている。


「僕の話は、たいてい途中を抜くと成り立たないので。たとえば、サンドイッチを食べるときに端から少しずつ行く人も好きですよ」


 相変わらず落ち着いた声で、けれど内容だけが急に横道へ逸れていった。彼の瞳はたぶんわたしと同じ景色を見ているはずなのに、角度の違う光を通しているかのように、愉快で不思議で、それでいて優しい。


「あなたは、ドン・キホーテのようですわね」


「正気でないと仰りたい?」


「いいえ。世界が他の方よりも、面白く見えるところが」


 わたしの中では、ちゃんと褒め言葉のつもりだった。けれど言いながら、少しだけ不安になる。伝わるのかしら、と。


「風車の巨人を笑わずに見てくれる人がいるなら、問題ありません」


「……はい?」


 わたしの理解が追いつくより早く、彼の比喩はまた一つ角を曲がる。白い雲が風に押されていくみたいに、するりと。


「……意訳すると」


「ええ」


「僕たちは、白鳥のような夫婦になれそうですね」


「まあ」


「はい」


「それは、とても分かりやすいですわ」




最後まで読んでくださってありがとうございました。


「読まなくていいところまで丁寧な本みたいな方ですね」という言葉は、他の人があまり気にしない細かいところ、性格の奥や些細な気遣いまで丁寧で美しい人、という意味です。意味が分からなくても大丈夫です。作中でも分かっていません。


それから、ランツェレトの雑学は本当と嘘が混ざっているので信じないでください。蜂にそんな習性はありません。ゲーテもたぶんそんなことは言っていません。


あとがきに付き合ってくださりありがとうございます。読まなくていいところまで、ここまで来てしまったあなたに心からの感謝を申し上げます。

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