第三話 物理的に甘い日常
パチリと目を開く。
呻く。
「……夢?」
「悪夢じゃない? なんかうなされてたし」
焦点が合うと、ふつうに見知った天井があった。
橘風太が借りている安アパートの一室。
声がしたほうを見遣ると、ルームシェアをしている幼馴染みの姿があった。
黛希歌。
まだ朝も早いというのに、彼女はテキパキと朝食の準備をしている。
卵の焼ける芳ばしい匂いが、寝室にまで漂ってきていた。
希歌さんの長い黒髪は、パン屋の娘みたいにバンダナで結ばれており、ツーサイド気味になっている。
秀麗な顔立ちはたいへん溌剌としていて、勝ち気な表情がよく似合う。
白いセーターの胸元は、上に掛けられたエプロンすら押し上げて、おおらかに丸い。
ウエストは蜂のように細くくびれており、スリムなジーンズ姿は圧倒的に部屋着だった。
……どうしてゴシックドレスを身に纏っていないのだろう?
「あれは仕事着だって言ってるでしょ? まだ夢心地なワケ?」
夢?
「いや……」
あれは、現実の出来事だ。
ただ、ふた月ばかり前に起きたことではあったけれど。
「寝ぼけてないで、はやく起きてくれない? 今日は早出だからって、あたし言わなかったっけ?」
「聞いた覚えは、ある」
「はい、じゃあ、ハリーアップ! いそげいそげー」
蹴り出されるように洗面所に押しやられ、ぼくはバシャバシャと顔を洗う。
鏡に映るのは、相変わらず笑っているような自分の顔。
昨日のメイクが残っていたのか、目の端が黒く滲んでいる。
「疲れてるからって、よくないなぁ……」
独りごちながら、目元を擦る。
ひげを剃って食卓に着くと、味噌汁に卵焼き、ホウレンソウのおひたしなどが並んでいた。
エプロンを外しながら、希歌さんも席に着く。
それにしても──いや、今更ではあるのだが、それにしてもだ──希歌さんは整った顔立ちの女性である。
自分と同じ、二十四歳。
抜けるように白い肌と、切れ長の瞳。揺れるほど長いまつげに、線の通った鼻梁、血色のよい唇。
若さと美貌に許された、ルージュは明るい菫色。
気さくで気立てがよく気前もいい。
性格よし、スタイルよし、器量よしと三拍子どころか六拍子揃っている希歌さんは、芸能人でもなかなかお目にかかれないほどの美女だ。
いや……広義の意味では、彼女も芸能人ということになるだろうか?
「……なに? まじまじとひとの顔を見つめて? なんか珍しいものでもついてる?」
「いや、希歌さんは愛らしいなぁと思って」
「賛辞としては受け取ってあげる。でもね、その、とりあえず『いや』って否定しとくクセ、アンタの悪いとこだよ? 初手否定は感じが悪いもん」
なんだ、初手否定って。
わけのわからない熟語を使わないでほしい。
「いやいや」
「いや、じゃなくて」
「……あー。うん、わかった」
「よしよし」
希歌さんは満足したように、味噌汁に七味唐辛子を真っ赤になるまで入れ、啜る。
「相変わらず……なんというか、パンチのある食事を作るよね、希歌さんって」
トッピングなしの味噌汁を一口啜れば、自分の表情が無に至ったのを感じた。
見た目こそ普通ではあるが、希歌さんが創るものは、味がどこか突き抜けている。
今日のお味噌汁は、蜂蜜のように甘かった。
おそらく、六拍子揃ってなお浮いた話のひとつさえないのは、これが原因だろう。
「なぁによ? 文句があるわけ?」
「ないよ。希歌さんの味覚が壊滅的なのは、今に始まった事じゃないしね。こっちは、ちっちゃい頃からのつきあいだ。あばたもえくぼに見えてくるよ」
「は? 昔の彼氏気取りはムカつくんだけど?」
「でも、ぼくは希歌さんが料理している後ろ姿とか、好きだよ?」
「…………」
なんだい、その苦虫を噛む潰したような表情は。
「べっつにー。それより、夜は遅いから各自用意ね。明日の朝ご飯はアンタの当番。覚えてる?」
「もう寝ぼけてないよ」
味噌汁で、完全に目が覚めたし。
「それで、希歌さん。今日はなんの仕事?」
「相変わらずだっての」
紅ショウガののった卵焼きを頬張り、心底辟易した様子で彼女は手を振る。
黛希歌は、いわゆるユアチューバー……動画配信者をメインとして活動する女優だ。
チャンネル名は〝オカルト体当たり系ゴスロリユアチューバー黛希歌〟。
このご時世にオカルトを専門にして、現地取材をもっと雲丹する顔出し配信者で、衣装がゴスロリ。
実質役満である。
「プロデューサー兼ディレクターがついてる動画配信者っていってもさ、大手じゃないんだからニッチをつつくのが仕事なわけ。逆に個人より自由度低いしね。今日は墓場で心霊写真を撮って、花火打ち上げて帰ってくんの。そのあと次の企画の会議。だから遅い」
「心霊写真……」
「いまどきフェイクムービーで驚くやつなんていないのにねー」
抑揚のない乾いた笑い声を上げながら、希歌さんは食事を終えた。
ぼくも奇妙な味付けの食事を切り上げ、食器を流しへ運び、希歌さんを玄関まで見送る。
「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃいだ」
「……なにか、忘れてない?」
突き出された小さな拳を見て、ぼくも拳を作る。
「あらためて、行ってらっしゃい」
「うん、行ってくる!」
コツリとぶつけ合わされた互いの拳。
一日が始まったのだと、ぼくは感じた。




