第二十八話 いるかのお姫様はびょうきです (橘風太視点)
『いるかのお姫様はびょうきです』
いるかのお姫様は病気です。
ちいさなお姫様はうなばらがすきで、まいにちたのしく泳ぎ回っておりました。
しろくてきれいなちいさないるか、それがお姫様なのでした。
おだやかな日のひかりと、潮の流れが、おひめさまをわんぱくにそだてました。
笑顔の美しいお姫様でした。
花笑むようなお姫様でした。
さんごのおじいちゃんが大切にしている舟をこわしてしまったり。
さめのお医者様のお薬箱をひっくり返したり。
とびうおの兵隊さんにうそを教えて、うみへびのギャングと戦争をさせました。
サザエの騎士さんにいたずらをして、海のそこをくたくたになるまで掘り進めさせました。
たこの神様をからかって、えがおいっぱい、ぜいたくざんまい暮らしていました。
けれどあるひのことです。
おそらから、まっくろなヤミがおちてきました。
ヤミは黒い雪になって、まいにちにまいにち降り積もります。
王様と、お妃様があぶないよというのに。
お姫様はだいじょうぶといって、お外に出て遊んでいました。
毎日毎日、遊んでいました。
そのうち、だんだんと。
お姫様のからだに、おかしなことがおきてきたのです。
からだじゅうに、まっかな発疹がたくさんできてしまったのです。
お姫様はかゆいかゆいと、海の底に身体をこすりつけます。
けれどどんどん、発疹はひどくなるではありませんか。
王様たちは、さめのお医者様に、お姫様を診てもらいました。
お医者様はたくさん首をひねったあと、あの黒い雪が毒だったのだといいました。
お外で遊んでいたお姫様だけが、毒を浴びてしまったのです。
王様はなんとかしてくれと命令しますが、さめのお医者様にも打つ手がありません。
お姫様は泣いて苦しみました。
かゆいかゆいといって、海の底にまた身体をこすりつけます。
すると、美しかった胸びれがひび割れ、枯れ木の棒を束ねたようになってしまいました。
あんなに水を蹴るのが上手だった尾びれは、二つに裂けてしまいました。
まっしろだったからだは、きずだらけで真っ赤です。
もう、お姫様は、海を泳ぐこともできません。
たまりかねた王様は、たこの神様にお願いしました。
どうかお姫様を助けてください。
すると神様は言いました。
海の底にたまった黒い雪を、すべて取り除くことができたのなら。
きっとお姫様は、助かるだろう。
王様はすぐにおふれをだして、海のものども総出で雪かきをしましたが、けれど雪はとっくに潮水に溶けてしまって、もうどうしても取り除くことはできないのでした。
お姫様のお日様のような笑顔が失われたことを、かわいそうに思った神様は。
お姫様に、永遠の命をあげました。
けれどお姫様は、今日も泣いています。
痛くて苦しくて、泣いています。
もう自由に、海を泳ぐことができないからと。
王様も、お妃様もいなくなって。たこの神様もいなくなって、海がソラに、黒い雪が地のソコに潜っても、お姫様は泣いています。
今日も、明日も、いつまでも。
自分の子どもたちと、泣いているのです。
笑顔がみたいと、泣いているのです。
笑顔はどこにもありません。笑顔の花は咲きません。
けれど一輪、海のなきがら真っ只中に、真っ白な花がそえられて──
§§
『だれか おひめさまを たすけるひとは いないのでしょうか?』
そこまで絵本のページをめくり。
やけに声のいい男性は、朗読をやめた。
パタンと閉じられた絵本は、ぼく――橘風太が湖上結巳ちゃんから借り受けたもの。
しかしいま、絵本を手にしているのはぼくではない。
テーブルを挟んで眼前に立つ、如何にも胡散臭い笑みを浮かべる長髪の、黒メガネをかけた男性である。
永崎の中心街から遠く離れた寒村──玖契村。
この世の果てを意味するという古い言葉からとられたらしい村の、もっとも大きな屋敷。
古びた武家屋敷のようでいて、内部は高度に近代化された電子の城砦の中央。
吐き気を催すほどに甘い匂いの立ちこめる部屋の。
玉座のような椅子に、彼は腰掛けていた。
彼──希代の伝記作家、花屋敷統司郎が。
「どうだい、僕の朗読も馬鹿にできないだろう? 昔はこうやって、編集を口説き落としていたものなのだぜ?」
「花屋敷先生」
「おいおい、何度言わせるつもりなんだい? 僕とキミの仲じゃないか、気軽に統司郎さんとでも呼んでおくれよ。なぁ」
終日日向せんせぇい、と。
……統司郎さんは、粘り着くような声で言った。
それは普段の胡散臭く、けれど清涼感のある声音とはまったく逆の、悪意が滲むもので。
箱屋敷の禁后小鳥から忠告を受けたぼくは、その足で黒子とふたり、統司郎さんのもとを尋ねていた。
編集者の間でも、どこに住んでいるか解らないと評判の、神出鬼没な統司郎さんであったが。
なぜだかぼくには、以前から住まいを明かしていたからだ。
何かあったら頼ってくるようにとまでいわれ、親切だと今日の今日まで思い込んでいたが。
けれどそれは、どうやら大いなる見当違いであったらしい。
椅子に深く腰掛けた統司郎さんの格好は、至って普通の物だ。
着古したセーターに、ビンテージ物のジーンズ。
何故か室内だというのにサングラスをかけているが、この場に気にするものはいない。
統司郎さん、ぼく、箱屋敷から着いてきた黒子が、この場の全員なのだから。
だというのに、先ほどから鳥肌が止むことはない。
四方八方の壁から、その向こうから、天の果て地の底から、無数の視線を感じるのである。
それは、泥泪サマの施設で感じたのと同種の視線であり、酷く落ち着かないものだった。
「ああ、気にしないでくれ。ここには僕らしかいないし。仮にいたとしても、観客に徹するだろう。自ら盤上のコマを弾いて、せっかくの催し物を台無しにするような馬鹿は、もういやしないよ」
「それは、どういう」
「『いま、僕はなにか話したかな?』」
彼の言葉に、首を傾げる。
直前までなんの話をしていたか、思い出せなかったからだ。
「うん、それでいい。何事も知りすぎるというのはよくない。そんなことより、ほら大事なことがあるんだろう。キミはなんのために、こんな辺鄙なところまでやってきたんだい?」
そうだ。
そうだった。
ぼくは、助けを乞うためにやってきたのだ。
黛希歌を、怪異から救い出すために。
「救い出すって……なんだいそりゃ。キミにしては大言壮語というか、なんとも自分の領分を逸脱した言葉じゃないか。さては、誰かに吹き込まれたかな?」
「…………」
「いやいや、いいとも。もちろん僕はキミに力を貸す。だって、その方が面白いだろう?」
朗らかに笑い、穏やかに肩を揺する統司郎さん。
それでも、緊張感が霧散することはない。
知らず、ゴクリと喉が鳴った。
ここに来るまでに買った水へと手を伸ばしかけて、そっと止められる。
見れば黒子が、ゆっくりと首を振っていた。
「やめておけ。それ以上は──身を滅ぼすぞ」
「けれど、喉が渇いて」
「はっはっは。お節介で、ついでに奥手の黒子君の言うとおりだよ。終日日向。キミは喉なんか渇いちゃいない。いや、こう言うべきだろうね──二度と、その渇きが癒やされることはないのだと」
……この場所を訪ねてきてから。
ずっと統司郎さんが一人でしゃべり続けている気がする。
完全にペースを握られているし、それでいいと思ってしまう。
自分は、促されたような心持ちで、訊ねかける。
「どういう意味ですか?」
「どうもこうもないだろう。いや……そうだな、もう一度聞いてあげよう。キミは、なんのために僕を訪ねてきたんだい?」
それは。
「すべてを知るために。知って、希歌さんを、助けるために」
彼女は、絶対に災禍の元凶なんかじゃない。
だから、一番はじめに知りたいのは。
「ぼくらの敵は──あの怪異は、泥人形は──ナズミヅチとは、なんなんですか?」
その問いかけに。
花屋敷統司郎は、じつに愉快そうな表情で答えた。
「──〝神〟さ」




