第一話 とある臨床道化師の心的外傷体験
鏡には、笑顔の自分が映っていた。
なにも、おもしろおかしいことがあったわけではない。
ぼくこと橘風太には、緊張すると口角がつり上がるというクセがあっただけだ。
不格好な笑顔の上に、白粉と紅で、ずっとマシな笑顔を描いていく。
クラウンのメイク。
公演の時間は迫っている。
スリムな道化師衣装に身を包み、太陽と風のバッチが付いた円筒形の帽子をかぶって、それから念入りに両手を消毒し、ぼくは一歩を踏み出した。
病室へ。
「やぁ、〝そよかぜおじさん〟がやってきたぞーぉ」
ひょっこりと室内をのぞき込み、ことさら陽気に来訪を告げれば。
病床から四対八個の視線が飛んでくる。
そのどれもが、退屈に倦んだような、この世に失望したような暗いモノ。
いけないと思ったときには、物怖じた口元は、さらにつり上がった。
それを隠すように躍り出て、部屋の主たち──病床のこどもたちに、お辞儀をして見せる。
「こんにちは、おはようさま、ぼくはホスピタル・クラウンの〝そよかぜおじさん〟! 今日はいい天気だね?」
「…………」
返事はない。
けれど続ける。ショーの幕は上がっているのだから。
「ああ、どうやら小さなお客さんたちはシャイらしい。だったらぼくからプレゼントをしよう」
そっと両手を前に突き出す。
張り詰めた精神とは裏腹に、指先に緊張はない。
毎日重ねた訓練は、決して自分を裏切らない。……と、信じる。
「さてはて、こちらに取り出したりまするは、なんの変哲もない……そう、両の手のひら。けれど指を交差すると……ポン!」
「わぁ」
指の間に、ふたつのボールが現れると、思わずといった風に、子どものひとりから感嘆の声が上がった。
その声に勇気づけられて、震える心に気取られないよう踏ん張って。
さらに、指を交差させる。
二つが四つに/ボールは倍に。
「さらに倍」
ボールは八つ、指の股すべてに挟まって。
「そぉれ」
かけ声とともに、ボールを手のひらから腕、肩までを一直線に転がせる。
「おちる……」
「あぶない」
心配になるよね、わかるとも。
自分の思うとおりに意識を誘導できていると感じながら、肩でボールを跳ね上げる。
空中に舞い上がったボールを、落ちるに任せて受け止めて、そのまま反対の手へと投げ飛ばし、再度跳ね上げる。
つまり──ジャグリングだ。
「す、すごいです! いっぱいのボールが飛んでいるみたいですってー!」
ひとりの女の子が、ベッドから身を起こして食いついた。
酸素チューブをはめている子、頬が随分こけている子──他のこどもたちの瞳にも、いつの間にか熱が宿り、好奇心に、キラキラと輝いて。
病室にはもう、退屈そうな子どもはひとりもいなかった。
よかったと。
心の底から安堵する。
ぼくは臨床道化師を生業にしていた。
病院や介護、養護施設を回って、たくさんのひとに笑顔を届ける仕事だ。
私立水祝記念病院に訪問するのは、これがはじめてのこと。
お子さんに先立たれた理事長が、同じ境遇のこどもたちを救いたいという理念のもとに建造され、国内でも有数の設備を誇る大病院。
多くの大人、そしてさらに多くのこどもたちを救ってきた救済の砦。
そんなところからお呼びがかかったときは、さすがに吐きそうになった。
プレッシャーに弱い道化師。
それが、自分に対する嘘偽りのない評価だ。
ホスピタル・クラウンは、衛生に気を遣う。
衣装も小道具も消毒して、落とした道具は原則二度は使えない。
おかげで世間一般にイメージされる道化師の、華美でフリルな衣装は身につけられない。何かに引っかけでもしたら大変だからだ。
そういうわけだから、ジャグリングをするなんてもってのほかなのだ。
それでも演目にボールの奇術をいれたのは。
こどもたちが、ジャグリングを見たことがないのだと、病院側から知らされたから。
見せてあげたいと思った。
落とさなければよいのだと練習を重ねた。
それがプロの理念に反するとしても、彼らを笑顔にしたかった。
そしてぼくの願いは、いま結実しつつある。
「ねぇ、ねぇ! 〝そよかぜおじさん〟! もっとたくさん、楽しいこと見せてよ!」
駆け寄ってきたこどもたちにせがまれるまま、ジャグリングのボールを手の中に消してみせる。
またも歓声が上がり、きょろきょろとこどもたちはボールの行方を捜す。
ホスピタル・クラウンは、ひとりの観客だけを贔屓してはいけない。
これは大切な医療行為だから。
その場いる全員が、楽しませるべき観客なのだから。
なので、ベッドの上から熱視線をおくってくる苔緑色の髪の少女には、自分の方から歩み寄る。
「お嬢さん、ちょっぴりお手を拝借できますか?」
人形のように顔立ちが整った、おかっぱの女の子。
最初に好反応をしてくれたあの子だ。
自分より十歳以上年下の女の子に、首筋で脂汗たっぷりかきながら訊ねれば。
彼女はおずおずと、ちいちゃなお手てを差し出してくれる。
儚く白いその手に。
そっと自分の手を重ねて、ギュッと握らせる。
周囲のこどもたちが固唾を飲むなか、自分にも言い聞かせるように、ぼくは啖呵を切った。
「お楽しみはこれからだ! さあ、ゆっくりと手を開いて?」
言われるがままに、少女は握りこぶしを開いて。
「ふわぁ……!」
これ以上無い、笑顔を浮かべた。
彼女の手のなかからは、消えたはずのボールがたくさんこぼれ落ちてきたからだ。
「すごい、すごいです! 魔法みたいですね、ピエロさん!」
「いやいやお嬢さん、これは魔法じゃないし、おじさんはピエロじゃない」
だって。
「泣かないピエロはピエロじゃない。〝そよかぜおじさん〟は、笑顔を届ける道化師だからね!」
「それって……とってもすてきですねー!」
にっこりと笑う少女。
その儚げな彼女が。
「あの子は……もう長くないんです」
余命幾ばくも無いと知らされたのは、その直後のことだった。




