第十五話 そして、世界は狂いはじめる
「飲んではいけませんよ! 黛さん……!」
飛び込んできた川屋華子さんが絶叫する。
同時に、室内の空気が一変した。
ドッと気圧が増し、重力の密度が濃くなって。
何かの、音が聞こえる。
水の滴る音とは違う。
それは、どこかネコ科の動物の鳴き声に類似する震幅数を持ち、けれど決定的に異なる嫌悪感を誘発するもの。
〝ソレ〟がなにかに気がついたとき、あまりの怖じ気に鳥肌が立った。
赤ん坊の泣き声。
老婆の呻く声音。
泡立ち弾ける無数の泣き声の輪唱が、この祠堂のような異界の内部に、わんわんと反響を始めたのである。
さらに、四方八方の壁が、バンバン! バンバン! と、殴りつけるような騒音を奏で。
天井を這いずる音。
ペタペタと素手でガラスに触れるような不快な音色までもが響く。
さながら、講堂のあらゆる角度。
そこに、まるで顔のない闇黒の人形が立ち並び、自分たちを観察しているような幻覚に囚われて、気が違ってしまいそうになる。
「いけません黛さん! あなたは、相性がよすぎる……!」
「ちょっとTAKASHIの動画の邪魔、しないでくれるかな、おばさん!」
真っ青な顔で希歌さんに駆け寄ろうとする川屋さんの行く手を、俊敏に動いたTAKASHIが遮った。
彼の表情はもはや窺えず、ただなにか恐ろしげな凄みだけを吐き出し、川屋さんの手をねじり上げようとする。
「侃!」
指剣を握った霊能力者が、剃刀のごとく鋭い声を上げれば、TAKASHIの長身がたちまち痙攣を起こす。
電流が走ったように硬直した彼は、ついで、ぐらりと傾いで。
けれど、川屋さんもまた、全身を痙攣させ、
「げぶり……!」
と、なにかを吐き出した。
泥。
泥だった。
冥府のように昏い粘性の液体が、口から、鼻から、耳から、目から、ところ構わず次々に溢れ、川屋さんは溺れたように手足をでたらめに振り回す。
「げぶ!? ごぼっ!」
TAKASHIにも、また同様の現象が起きていた。
「長くは待てない、ぞ──! ゲェッ!?」
一声そう呻くと、彼もまた、泥に溺れてその場に倒れた。
喉を掻き毟り、黒い涙を流しながら、ひゅーひゅーと喘鳴をあげるふたり。
あまりにおぞましい光景に言葉を失っていると、絹を裂くような悲鳴が響いた。
今度はなんだと振りかえれば、希歌さんが、しきりに首を振っている。
震える彼女の手には、依然として虹色の泥が満たされた杯が握られており、それが、今この瞬間にも彼女の口元へと迫っているのだ。
「なにやってんだ黛ぃ! 捨てちまえそんなもん!」
「だ、だめなのカトーさん! 手が、身体がいうこときかなくて……!」
闇が凝っている。
粘度の高い闇黒が、彼女の腕に絡みつき、強引に泥を飲ませようとしている──
そんな風に、見えた。
無論幻覚だ。
幻覚のはずだ。
けれど。
「たすけ、だれか──」
「────ッ」
彼女の唇に杯が触れる。
その刹那には、もう身体が動いていた。
駆け出し、希歌さんの手にしがみつき、杯を奪って、そして。
そして──
「────」
どうしてこうしたのかは解らない。
けれど、こうするしかないと、自分は直感していた。
ゴクリ、ゴクリと喉が鳴る。
「風太、くん……?」
尻餅をついた幼馴染みが見上げるなか。
杯いっぱいの泥を飲み干し空にする。
喉に絡みつくどろりとした感覚は、まるで血を飲んだかのようで生理的嫌悪感に鳥肌が止まらない。
それでなお。
吐き戻すこともせず、震える手足に力を入れて。
言うのだ。
「大丈夫」
そう、大丈夫だ。
「大丈夫だよ、希歌さん? きっと、笑顔でいられるから」
歪む口元を、それでも相手を安心させるために笑みの形につり上げたところで。
そこで、ぼくの記憶は、ぷつりと途絶えた。
薄れ行く意識、精神が闇黒に投げ出される瞬間。
部屋の隅の暗がりに、真っ赤な三日月を──口の裂けた笑顔を、見た気がした。
「風太くんんんんんんんんんんんん!?」
§§
救急搬送された病院で、倒れた三名に下された診断は、特に異常がないというものだった。
医者は過労だろうと判断し、とりあえずの入院と相成った。
例外としてぼくだけは、一時的に極度の脱水症状が出ていたが、点滴を用意したころには、影も形もなく病状は改善していた、らしい。
廃墟でぼくが気を失った後も、田所さんはカメラを回し続けていたそうだ。
後日それを確認したところ、杯が空になった時点で、あの不思議な現象はすべて静まりかえり。
その後すぐに、雪鎮さんが部屋に飛び込んできて、加藤ディレクターと田所さんが協力し、建物から全員を連れ出したのだ。
幸い、ぼくの身体には異常が無く、いまは見舞いに来てくれた希歌さんに、リンゴの皮を剥いて貰っている。
「もぉ、心配したんだからね。馬鹿やらないでちょうだい」
「子どものころの希歌さんよりは、よっぽど」
「なに? なんか言った?」
「……いいや」
「ふん!」
拗ねたように、彼女はナイフを滑らせる。
実際、本気で心配してくれただろう事は、よくよくわかっていた。
こうやって仕事の合間を見つけてはお見舞いに来てくれるのだから、疑うつもりなど無い。
「結局、なんだったのかな、あれは」
思い返すように呟く希歌さんだが、自分にもなにが起きたのかは解っていなかった。
ただ、あのとき川屋さんとTAKASHIに起きたこと。
それには確かな見覚えがあって。
湖上結巳に植え付けられた、心的外傷が、鈍くうずく。
「はい、うさぎちゃん」
器用にうさぎの形に切り抜かれたリンゴ。
それが載った皿を受け取り、何事もないという顔で、ひとつつまむ。
みずみずしい甘みが舌の上に広がり、シャクシャクとした歯ごたえが楽しい。
自分は生きているのだと、実感する。
「…………」
穏やかな表情でこちらを眺めている希歌さん。
彼女を見ていると、身体の芯がうずきだす感覚があった。心的外傷とはまた違う、どこか獣性にも似た感覚。
やけに。
本当に奇妙なほど、この女性が魅力的に映る。
……なにを考えているのだろうか、自分は。
献身的な介護を受けておいて邪念をよぎらせるなど、まったく度し難い愚物である。
猿にも劣る劣情だ。
気を紛らわせようと、もうひとつリンゴを口に運び──咳き込む。
激しくむせると、希歌さんが慌てたように背中をさすってくれる。
「ちょ!? 大丈夫、看護師さん呼ぶ?」
「げほっ、ごほっ、けふっ」
「まさか──あんたまで、あの泥を吐き出すんじゃ──」
「なーんて」
心配する彼女の目の前で、ぼくが吐き出したのは泥ではなく。
色とりどりの万国旗だった。
口の端から次々に〝旗〟を取り出し、リンゴのへたに結んでみせると、希歌さんはきょとんと目を丸くして。
「この──ばかぁ!」
それから、ぷりぷりと怒りだした。
ぽかすかと殴られながら、それでもいつの間にか、自分たちの口元は笑みを作っており。
やがて、静かにしてくれと看護師にたしなめられるほど、笑声は大きくなっていった。
「じゃあ、帰るね」
「うん」
「また、くるから」
病院の出口まで彼女を見送り、どちらともなく拳を突き出す。
こつりとぶつけ合わせたとき、希歌さんのスマホが着信を告げた。
「ごめん。はい、黛ですが……あ、カトーさん? うん、いま風太くんのお見舞いに来ていて」
どうやら、ディレクターの加藤さんから電話だったらしい。
とりあえず病棟に戻り、看護師さんたちになんと謝るかを考えていると。
「え?」
希歌さんが、引きつった声で出した。
彼女はしばらく黙って加藤さんの言葉を聞き。
それかこちらへと振り返って、真っ青な顔で……告げた。
「TAKASHIさんが、生配信中に首を掻き切って自殺したって──」




