第九話 刃物と綱渡り
正直に言えば、今回の仕事は専門外もいいところだ。
スタッフの慰安という名目はともかく、オカルト的な知識など、花屋敷先生から無理矢理与えられたもの以外持ち合わせていないし。
笑顔と対極の恐怖を探す仕事など、もってのほかだ。
それでも引き受けようと思ったのは、希歌さんが関わっていること。
お金が必要だったこと。
そして──
もし、本当に願いが叶うのなら──という、一抹の欲望によるものだった。
泥泪サマの噂が本当ならば。
湖上結巳ちゃんに。
病床から起き上がることもできなくなったあの少女に、星空を見せてあげることができるのではないかと。
そう思ったのだ。
しかし、現実は──
「この人殺しが!」
罵声とともに、金泥邸から飛び出してきたのは、狂乱した中年女性だった。
白いものが混じる髪の毛は振り乱され、着ている服はボロボロで。
肌や唇は砂漠から帰ってきたばかりのようにカラカラに乾いており。
右目は、そういう病気なのか、白目のない闇黒で。
爛々と狂気に赫いている。
剥き出しにされた歯のあいだからは軋り声が響き。
さらなる悪罵が唾とともにまき散らされる。
──奇妙なことにぼくは、その女性に既視感を覚えた。
「裏切り者!」
「えっと、落ち着いてください。あなたは金泥さん、ですね?」
「笑うなぁ! 笑うなぁ道化師の分際がぁ! おまえじゃないんだよぉ! 笑えないんだよ!」
恐怖からか、確かにぼくの口元は弧を描いている。
それを見咎めてか、女性はビリビリと全身が震えるような大声をあげて。
加藤さんが叫んだ。
「ヤベーぞこいつ!? 包丁もってやがる!」
ハッと視線を転じれば、確かに女性の手の中には鈍く光る刃物があった。
出刃包丁だ。
「選ばれたんだろ!? 使命を果たせ! 神はみているぞ!? 礎の塔で天と地は結ばれるのだ!! いまこそ肉の牢獄から解き放たれるとき!」
「やばいやばいヤバい! こいつ正気じゃねぇ! おい、逃げるぞ田所! 黛! センセーも走れ!」
「どうしておまえたちが助かってあの子が死ぬ!? だったら今度は洗浄してやる! 同じところに行く! 使命を果たせー!」
「風太くん、こっち!」
あまりの凄みに自由を失っていた身体が、ふたりに引きずられ、ようやく動き出す。
プロ根性、というヤツだろうか。
こんな状況でも、田所さんはカメラを回し続けていた。
「笑うなぁ!!!!」
奇声を上げ、刃物を振り回しながら、女性は追いかけてきた。
必死に逃げる自分たちの背中に。
殺意と何ら変わらない、彼女の絶叫が降り注ぐ。
「わすれるなよ、おまえのせいで、大勢が死ぬんだぞオオオオオオオオオオオ!!」
§§
「──な──なんなのよ、あれ!?」
バンに飛び乗るやいなや、希歌さんが悲鳴を上げる。
車を急発進させながら、加藤ディレクターが吠えるように答えた。
「知らねーよ! 頭おかしいんだろ、あれは! センセー、まだ追ってきてるか!? エクスタシィウーマン来てるか!?」
田所さんとともに、背後を確認するが……女性の姿はない。
どうやら、撒くことができたらしい。
「嘘でしょ……なんであたしが、こんな目に……」
頭を抱えて嘆くゴシックドレスの希歌さん。
バンに乗り合わせた全員が、日常から乖離した出来事に、困惑を隠せずにいた。
冷静に思えた田所さんですら、冷や汗を拭っている。
このまま現場に向かうのは無理だと加藤さんが判断し、いったん近くの公園で休憩を挟むことになった。
幸いなことに、タイムスケジュールには余裕がある。
「カメラを回させといて正解だったぜ……いい絵が撮れた。こりゃあ、迫真だぞ迫真」
VTRのチェックをしているディレクターとカメラマンのふたり。
そこから少し離れた位置で、希歌さんがブランコに腰掛けている。
彼女はうなだれ、傍目にも普段の覇気がない。
なんとかしてあげたいと思ったときには、もう身体は動いていた。
「レディーーーース、エン、ジェントルメェェェン!」
高らかに口上を述べれば、驚いたように加藤さんが。
そして希歌さんが、ゆっくりと視線を上げる。
よし、見てさえくれればなんとかなる。
「コレよりお目にかけますは世紀の大曲芸! 大空中逆立ち綱渡りでござい!」
大仰な身振り手振りで、希歌さんの前──公園の地面に〝綱〟に見立て一本の線を描いていく。
その左端に立って、ひょいっと逆立ち。
〝綱〟に一歩――この場合は一手だろうか?――をかけながら、彼女に向かってウインクを飛ばす。
「落ちてしまったら一巻の終わり! 空前絶後、命がけのショータイム! 見事渡りきりましたらご喝采をば!」
「いや、風太くん。それ、ただの落書きで──」
「では!」
彼女の言葉を無視して、跳ぶように一歩前に進む。
「あっ」
希歌さんの声が撓んだのも無理はない。
風にあおられたかのように、ぼくの身体はぐらりと傾ぎ、綱を踏み外したのだ。
「──にっ」
笑う。
そうだ──気持ちの端っこを、一度でも掴まえたのならこちらのものなのだから。
「ショーマストゴーオン! いいえ、いいえ、ぼくは〝そよかぜおじさん〟! 強い風には負けません! よっ、ほっ!」
鍛え上げた体幹をひねり、無理矢理に綱の上へとバランスを戻す。
ゆらりゆらりと、前に後ろに左に右に。
ときには手を滑らせて、腕を屈伸させては踏み外すように落下のまねごと。
そのたびに希歌さんは、
「きゃっ」「待ちなさいって!」「あぶ──あぶない」「うひぃ……」
なんて、目を口を手で覆って、ハラハラドキドキ。
ぼくは笑みを深くしながら演技を続け、最後は両手を曲げて大跳躍。
空中でとんぼを切って、着地を決める。
綱渡りが、成功する。
唖然としている幼馴染みに、パチリとウインクを贈ってみれば。
「あぁー、もぅ……このばーか!」
笑顔とともに、怒声が飛んできた。
うん、もう大丈夫だろう。
いつもの快活な、黛希歌だ。
彼女の横に戻ろうとすると、急に腕を掴まれた。
振り返ると加藤さんがいて。
「センセー、あんた、あんがいヤルやつだな」
苦い表情とともに、ペットボトルを2本、胸に押しつけられた。
困惑していると、
「癪に障るけどよ、ほんとなら俺が元気づけてぇとこだったけどよ……いまは、黛のこと頼むぜ、オイ」
「痛っ!?」
バチン! と背中を叩かれる。
熊のようなディレクターは、のっしのっしと大股で歩き、またVTRのチェックに戻ってしまう。
背中をさすりながら希歌さんの横に戻れば、彼女はクスクスと笑っていた。
「カトーさん、馬鹿力でしょ?」
「内臓が飛び出るかと思った」
目と舌を剥いてみせると、彼女はまた笑う。
「あんなだけど、部下の気遣いはできるんだよね。……売れなかった頃のあたしに『おまえは肌が白いからゴスロリ路線で行くぞ!』とか言ってくれちゃったりさ」
「うん、悪い人じゃない」
「アンタも、ね」
意味がわかりかねて、首を傾げながらペットボトルの片方を渡す。
希歌さんは受け取り、キャップを開けて一口啜りながら、
「ちょっと、座りなさい」
と、言った。
「アンタは、本当に変わらないわね……だから、すこしだけあたしの話を。アンタが知らない昔話を、聞いてちょうだい」




