3-21 たばかりの秘め事、あるいは書庫の閨秀
官僚の娘の宋若蘭は、幼少期から聡明で、いわゆる閨秀である。真面目で人のいい若蘭の元には、多くの人々が相談にやってくる。中には大切な秘め事を喋ってしまう者もいた。
今日、彼女が勤める書庫にやってきたのは、若き高級武官の李暁明。彼が軍部の機密をぺらぺら喋りながら言うことには、軍の機密が漏れているとのこと。
書庫係として協力を求められた若蘭だが、その機密がかつて聞いた秘め事と重なっていたことから、思わず空言を口走ってしまう。しかも暁明から引き続いての協力を求められてしまった。
──もしや私は、これからずっと嘘をつき通す羽目になってしまったのだろうか?
穏やかで、人の世を知らなそうで、空事を言わなそうな女だとよく言われる。悲しいことにそれは真で、私は幼き折から面白みのない女として生きてきた。
私は話がうまくない。だから私はいつも聞き役に回る。雄弁は銀で、沈黙は金だ。
「若蘭、ご機嫌いかが? お勤めはどう? 婚姻はまだいいの?」
父の旧友で名家の娘、友人の中では最も明るい崔清音が、茶を囲みながら、にこやかに笑う。
「そうね。私は文書が好きだし、書役は性に合ってるから……」
私は軍部の書庫で文献を整理する職だった。父が官僚なのをいいことに、女だてらに職を得た。私には婚姻よりも男のような勤めが合っていた。
「でも親ってうるさいじゃない。どうやって黙らせるの?」
一番上の兄が芸妓と子を作った昔話に限る。そう言うと、清音はげらげら笑った。男の前では決して見せない呵々大笑である。
「兄が官僚になってすぐの話で、随分経っているけど我が家ではずーっと禁句だから。私が兄さんのように誤った恋ならやぶさかではないと言ったら、いつも父は黙る」
私も性格が悪い。異国の血を思わせる美しい芸妓に、兄がいかに深く溺れて恋文をしたためたかは知っているし、父が必死に揉み消したのも知っている。それでも私は勤めのためならば容赦しない。
「清音はどう? 二人目も生まれたと聞いたけど」
「二人目は男だから、姑もにっこり。でも困るのは詩会なの。義実家で毎年やっていてね」
「清音、詩なんて得意だった?」
「まさか。去年の詩会では、娘の書いた詩だと勘違いされたわ」
清音の娘は五歳だ。相当下手だったのだろう。
「姑も義姉も優しいんだけど、詩だけは頑張りなさいって。でも書けないものは書けないでしょ。仕方ないから、偶然実家に来ていた、父の友人が預かっているという女の子に、詩を添削してもらって、今年はそれを出したのよ」
「何とかなったの?」
「それがね、絶賛されちゃって。今までの嫁の中で最も心動かされる詩だって……。欲しいものはたくさんあるのに、いざ市場に行くと何を買いたかったか忘れる、っていう詩がね……」
よくそんな詩を出そうとしたな? 添削の余地あるか?
「どうしよう若蘭! 来年、何を出せばいいのかしら」
「来年は、私がそれなりの詩を書いてあげる」
私は苦笑するしかない。清音はこれでも非常にいい子である。
「ありがとう。若蘭は俗っぽくないし優しいから、何でも話せちゃう」
善性の塊のような清音の微笑が眩しい。
私はよく秘め事を打ち明けられてしまう女であった。
「武官が詩歌にうつつを抜かすのも恥ずかしい話だが、この詩人の書く悲恋は溺れるほどに美しい」
そう言って書庫によく顔を出しては、詩をむさぼる武官がいたりする。私に言い訳なんていらないのに、言いたくなるらしい。
私が書庫という声をかけやすい場所にいるのも良くないのだろうか。
「皇女に求婚をする無謀な男がいて、私はその片棒を担がされているの」
書庫に来た後宮の女官の友人は、深刻そうな顔だった。
「庶民だけどよく出来た文を送ってくるの。姫様もまんざらでもないご様子で。字も男とは思えないほど美しくて、巷での評判は良いけど、相手は皇女よ。私には怪しい男としか思えない」
そんな文を取り次がされる苦悩はいかばかりか。私は気の毒な友人に、心ばかりの温かい茶を出した。
しかし私は人に秘め事を話されるのが嫌だった。聞いても楽しくないし、口から外へ出せぬ重荷が増えるだけだ。何より、私が秘め事を聞くに足る人間だと思われるのは、人を騙しているようで心苦しかった。人が思うほど清廉潔白でない己が嫌だった。
それでも私の元には秘め事が集まった。不貞行為、仕事の不正、果ては復讐の企みまで。秘め事を己の中だけで守り切るだけのことが、そんなに苦しいのか?
そのうち、私に秘め事を話したい者の列ができそうだ。
「お前が女の癖に軍部に職のある、若蘭という女だな?」
また書庫に誰かが現れた。服からすると高級武官だ。どうせ秘め事だろう。嫌になってくる。
「……聞いた話は、決して漏らしは致しませぬ」
「秘め事を語りに来たのではない。話したければ壁に話すさ。お前は書役で、よく書物を見ているだろう。この詩を読め」
李暁明と名乗った若い武官は、一枚の紙を差し出した。朱火という詩人のものだった。
「この詩は?」
「知らんのか? 巷で流行している詩人だ。悲恋を詠うのが上手い」
そういえば、例の武官がこの書庫で涙を流して読んでいた詩があった。あれか。そんなに流行しているのか。
「暁明様も、詩がお好きなのですか」
「私は武官だ、詩は分からん。だが、この詩はただの詩ではない」
私は例の武官の顔を思い出して、思わず暁明の顔を見た。
旧夢難尋落照遅
新歓未暖早成悲
春風欲渡浮橋水
燈火遙村動夜思
旧い思い出には、日没のように手が届かない
心を塞ぐ新たな出会いも、もう苦しみの原因となった
水が揺れて春風は浮橋を渡れず、行き場がない
はるか遠くの思い出が、静かな夜に私の心をかきたてる
「これは軍の先日の演習をつまびらかに表す詩だ」
暁明の顔は真剣だった。私は思わず息を呑んだ。
「先行する部隊が、日没までに定まった位置に着かなかった。援軍はむしろ先にやられている。それは川の増水で橋を渡れないことに起因する。夜、敵が近くの村から動こうとしている。そういう内容の詩だ」
こじつけが過ぎないか? 悪意のある邪推をするのもいかがなものか。
「違う違う、朱火の詩は、一事が万事、こんな調子なのさ」
「……左様でございますかぁ」
そんなことを私に話していいのだろうか。軍の大事な秘め事ではないのか。
「軍の動きを不気味なほど正しく伝えているんだぞ。そんな不図があってたまるか!」
暁明は鋭く叫んで、本棚を拳で叩く。武官なのに、詩を読んで怪しむどころか感極まっていた男の顔が、やはり思い出されてしまう。
「こんな詩が流行されては困る。この朱火という詩人は、軍の動きを誰かに伝えているのさ。悲恋の詩で評判を呼び、仲間に軍の機密を知らせようとしている。朱火を裏で動かしている者もいるに違いない」
恐ろしい奴だ、と暁明は吐き捨てるように言った。
「それをなぜ、私におっしゃいますか」
「これは朱火がその手で直に書いたものだ。この筆跡を見て、朱火がどのような者か、私に申せ。朱火と、朱火に暗号を頼んだ者の、首を刎ねねばならん」
確かに筆跡を見れば、私にはおよそ人物の見当がついた。文字には人格が出る。癖が出る。生まれと育ちが出る。書物と文字にかけて、この宮廷で書役の私より詳しい者はいない。
若く几帳面だが芯のある、身分の高くない女、と言いかけて、私は唇を止めた。
文字を書ける女は、ほぼ間違いなく身分が高い。身分が低いのに文字を知っていて、詩まで書ける、しかも人に頼まれて暗号まで作れる若い女が何人いるだろう。
しかし、そのような女を私は知っている。清音の詩を添削した女だ。
確か、清音の父の友人が預かっている女ではなかったか。親に連れられて清音の実家に顔を出せるのだから未婚、即ち、若い女だろう。清音に頼まれ、しょうもない詩を美麗に書き換える実力が彼女にはある。
皇女に恋文を送る男のことも思い出した。教養ある皇女を喜ばせる文には、詩も書かれているだろう。そんなもの、生半可な庶民の男が書けるだろうか。誰かに銭を積んで書かせたのではないか。すなわち銭を積まれて書ける誰かが、この近辺にいる。
そして私の兄はかなり前に、芸妓と子を作った。両親はうまく揉み消した。生まれた子はどこに行ったのか。友人を通じ、どこかの官僚にでも押し付けたとしたら。養女にせず、預かり子として育てているのは、父娘に血の繋がりがないことが明らかな外見だから。つまり異国の血を思わせる外見なのではないか。
――朱火は、私の兄の娘ではないか?
思いがけず私は直感した。詩を書くのに使われた墨も、兄が愛用している墨と同じものだ。朱火の外見については、後で清音に確かめれば分かる。
「……この筆跡は男でございましょう。筆遣いに迷いがない。字の癖は三十ほどの齢、都生まれと思われまする。人に頼まれて書いた詩、朱火の先導ではないでしょう」
「そうか」
空言が口から出た。私の声は震えていた。朱火が姪だと、暁明に伝える度胸が私にはなかった。何せ、暁明は朱火を殺そうとしている。
兄の娘など知ったことかと言えれば、楽だろうに。しかし私の書役という職は、父と兄が官僚だから得られたものだ。
書役から外れれば、私は書物が読めなくなる。書物は私を壁として扱わない。秘め事を語らない。書物に手を触れられないくらいなら、川に身を投げる方がましだ。
朱火は私の血縁かもしれないなどと、決して暁明に知られてはならない。
暁明は頭が良い。無闇に放っておくと、朱火の正体に辿りつきかねない。ここは朱火からは遠ざけて、朱火に詩を頼んだ首謀者を暁明に捕まえさせ、茶を濁すしかない。だから私は暁明の命令を敢えて断らなかった。
「ありがとう、男なのだな。若蘭、引き続き力を貸してくれ。私は必ず正体を突き止める」
暁明は目を輝かせ、私の空言を信じてしまった。
ああ、秘め事を己の中だけで守り切ることは、かくも苦しいのか。私は今、その苦しみを知った。しかし、清音には私がいても、私には私しかいない。この秘め事を分かてる者は、私にはただの一人もいないのだった。