3-11 再帰する楽園の終わりに
外界が崩壊した後に残された最後の楽園〈トウェンティファイブ〉。
ボタンひとつで白い肉が降り、昼夜は蛍光管の明滅で塗り替えられる。
住処を追われたアルファ、ベータ、オメガは、食糧区画を支配する暴力とダクトの奥で朽ちかけたはぐれ者を目撃し、施設の自律機構に潜む循環の歪みに触れる。
銀色の壁が映す本当の姿とは何か。
楽園を維持するために幾度も反復されてきた実験の真相、そして〈外〉にまつわる禁断のプロトコルが起動するとき、アルファたちは選択を迫られる――檻を壊すか、理想を喰らうか。
真実が明らかになる度に、世界の常識が剥がれ落ちる。
蛍光管が点灯する度、世界は無慈悲な白で上書きされる。温度も匂いも輪郭を失い、境界線は照度の勾配に変換される。
それでも僕――アルファの胸には名も形もない影が滴り、心拍と同じ速度で脈動していた。壁に映る自分を凝視すると、瞳孔の奥で黒い液体が揺れる。
「また考えごと?」黒の天鵞絨に覆われたベータが体を揺らす。虹彩は蜂蜜色、声は穏やかな波だが語尾に鋼の切っ先を潜ませる。
「影の正体がわかれば檻を壊す鍵になる」
「影は壊せないわ。光を増せば形を変えるだけ」
彼女の頬が擦り付けられる。空調の乾いた風では絶対に得られない温度が頬に残り、眩暈がした。
少し離れた吐出口の前ではオメガが壁に刻まれた石像のように佇んでいる。黒、白、茶の三色に分かれた頭は否が応でも目を引く、肉厚の肩は溶接鋼のように逞しい。言葉を省き、行動で語るのが彼の流儀だ。ときおり耳が小さく震える。内側で烈火が吼えている証拠――僕はそう理解している。
◇◆◇
成熟の朝、金属柵が開いた。母たちは影のように静かで、瞳に古い恐怖を宿しながら背を向ける。
「成熟は独立を意味する。掟に従いなさい」
――ただそれだけ。別れを惜しむ語彙は記録から削除されている。
通路は凍土のように冷えた樹脂で舗装され、頭上パイプから薬品と熱風が交互に噴く。壁の識別コードはかさぶたのように剥離。
「ここ、母たちの区画より乾いてる」
ベータが鼻先で化学臭を味わいながら言う。
「水分は無駄だと判断されたんだろう」
僕が答えると、背後でオメガが低く喉を鳴らした。用心と警戒を含む低周波。
食糧区画は巨大な腺体のように脈動していた。吐出口は四つ、周期的に白肉を滴下する。そこに立ちはだかるのは鋼のような筋肉で鎧を纏った年長者たち。
「下がれ! ここは俺たちの縄張りだ」
低い唸りが壁を震わせ、蛍光管が共鳴で鳴く。背後でベータの呼気が乱れ、オメガの踵が床を打つ。
僕は退かなかった。ベータの瞳が恐怖で揺れた瞬間、脚は勝手に跳んでいた。
拳が鼻面を砕き、鉄錆の匂いが口腔を満たす。視界が深紅で染まる。
背後でベータが滑り込むように制御端末を叩き、警告灯が紫に明滅。白肉からあがった湯気が噴流となり空気を白濁させる。
オメガが無音で背後を取り、一閃。肉厚の肩に走った裂傷から鉄の雨が噴く。咆哮が恐怖に変わる前に、僕らは換気ダクトへ潜り込んだ。
ダクト内部は油と塵で粘り、熱で皮膚を焦がす。オメガが先頭で匂いを嗅ぎ、ベータが気流の乱れを読む。僕は中央で二匹の体温を繋ぎ、不安が背骨を這うたび喉を鳴らして追い払った。
「鼻は大丈夫?」
ベータが舌で血を舐め取る。痛みより甘さが勝ち、眩暈が走る。
「平気だ。影が薄くなった気がする」
「血は影を肥やす肥料よ」
彼女の声は厳しく、それでいて温かい。
換気ダクトは、まるで施設の臓腑だった。
幅は肩幅よりわずかに広い程度、床面には黒い油膜が溜まり、踏み込むたび粘性の水音が吸い付く。
頭上を走る配線束は静電気を帯び、触れれば舌の先に鉄の火花が散る。
排気ファンが遠くで回転し、空気を吸い込む拍動が鼓膜を叩くたび、ここが生きている檻だと骨に刻み込まれる。
先頭を行くオメガは、闇の粒子を嗅ぎ分けるように鼻面を揺らし、耳を研ぎ澄ます。
彼の体は汗と油で重くなり、背筋を滴る液が雫になって落ちる。
僕はその背中を目印に、滑る床で足を取られぬよう四肢を突っ張った。
後ろのベータは軽やかながら、時折立ち止まり、ダクト壁に指先を当てて振動を確かめる。
「追手はいない。でも……空気が変わったわ」
囁きは熱気に呑まれ、すぐ耳元で溶ける。
十メートルほど進むごとに、ダクトは角度を変え、急勾配の下り坂になった。
重力が背を押し、油膜が足裏を滑らせる。
突如、前を歩くオメガの姿が視界から消えた。
油膜で足を取られたオメガの肩を咄嗟に押し、横の壁へ自分ごと叩きつける。金属と骨がきしむ音が響き、二匹の体勢がようやく止まった。
火花のような痛みが走り、すぐに彼が振り向き、無言で頷く。
言葉を使わなくても眼差しは礼を伝えていた。
やがて、金属の腐食臭にまじり、生温い腐敗の匂いが漂ってきた。
空調では循環しきれない死の気配。
ベータが僕の肩を叩き、小さく首を振る。
進むしかない。影は背後にも前方にも等しく潜むのだから。
ダクトが急に広がり、吹き溜まりのような空間に出た。
ここは空調の渦が交差する死角らしく、天井ファンの回転は鈍い。
その暗がりに、骸骨のように痩せた若者たちが寄り添い、壁にもたれていた。
まだらに禿げ、肋骨が鍵盤のように浮き、瞳孔は焦点を結ばない。
呼吸音は風の擦過よりもかすかで、生きているのか判別できない。
僕らの気配を察したのか、一体がのろのろと顔を上げた。
骨ばった手がベータに向かって伸び、指先が彼女の喉元をかすめる。
その瞬間、オメガの咆哮が狭い空間を裂いた。
雷鳴のような低周波。
彼の身体が弾丸となって飛び、痩せた若者を壁に叩きつける。
乾いた骨音。金属壁を伝う血の線。
残された若者たちは一拍遅れて震え、肢を折り畳むように床へ崩れた。呼吸はあるが、眼球だけが白濁していて生死の境目が判別できない。
オメガは一歩退き、唸り声を喉の奥へ押し込み、再び沈黙に戻る。
その静けさこそ、暴力より深い恐怖を孕んでいた。
「ありがとう、助かったわ」
ベータがオメガの肩にそっと額を寄せる。
彼は短く喉を鳴らし、視線を僕へ向けた。
僕は頷き返す。言葉より早く通じる合図が、ここにはある。
「行こう」
オメガが低く呟く。
僕らは再び一列になり、腸管の闇へ滑り出した。
背後で怯えた呼吸が震え、やがて静寂に溶ける。
影はまだ胸に棲むが、三つの体温がそれを薄く希釈していた。
◇◆◇
「群れも掟も要らない。僕らだけの場所を作ろう」
使われていない保育ケージは鉄と硝子の箱庭だった。天井は低く、壁にはGeneration12の刻印。僕は刻印を削り、ベータは給湯パイプを引き込み温床を作り、オメガは合成繊維を裂いて寝床を三つ並べた。
壁面ディスプレイが起動し、青いグラフが踊る。摂取カロリー、心拍数、交尾回数、ストレス指数――僕らの生を数値化する冷たい視線。
ベータは尾の先で床に曲線を写し取り、「これは私たちの未来予報ね」と囁く。オメガは視線を逸らし、鋼板を削って火花を散らす。
僕は配線を齧り数値を乱して施設の眼を眩ませる。影はまだ胸に巣食うが、少し輪郭を失った。
蛍光管がちらつく夜、世界は刹那闇に沈む。その瞬間、オメガの体温が炎のように跳ね上がった。秒針のような荒い息を吐き、瞳孔が闇を飲み込み、全身の毛が逆立つ。
「平気?」
ベータが額を寄せる。オメガは答えず彼女の頬を舐めた。舌の温度は灼ける鉄。
熱は皮膚を灼き、沈黙を蒸発させる。僕は背を擦り合わせ、震えを分け合う。ベータは二匹を包むように抱き寄せ、「誰も独りにしないわ」と呟く。
三つの心拍が共鳴し、檻の鉄骨が震えた。夜は長く、白い昼は遥か彼方。
◇◆◇
明け方、貯蔵庫の最奥で銀色の壁に出会う。完璧な鏡面。酸化も傷も許されないステンレス。空調の風が当たるたび冷たい霧が走る。
そこに映った三つの影――長い髭、尖った耳介、縦に細い虹彩。しなやかな四肢、揺れる尾。鏡像は嘲笑うように瞬きを返す。
「綺麗……私たち、こんな姿だったのね」
ベータの声は震えと陶酔の合奏。
オメガは鏡に額を押し当て、「これが檻の真実か」低い呟きが雷の残響のように胸を震わせた。
僕は言葉を失い、影が胸を突き破って外気に触れる感覚を覚えた。それは痛みではなく、冷たい甘味だった。
視界が俯瞰に跳ぶ――錯覚か鏡像の幻視か。無人の制御室。緑の走査線が脈動し、ロボティックアームが給餌ノズルを洗浄する。
空気は静電気で青く光り、端末が自動診断の結果を羅列する。
――UNIVERSE25 AUTONOMOUS HABITAT / FELIDAE SOCIAL DYNAMICS
白いフォントは冷えた硝子片のように無慈悲だ。だがその部屋に嗅覚は届かず、僕らの世界は鏡面のこちら側で閉じている。
◇◆◇
住処へ戻る通路でベータが口を開く。
「影に名前をつけよう。正体がわからなくても、呼べば怖くない」
「名は力だ」
オメガが短く応じ、尾で床を一打。
僕は考える。影――それは自由の亡霊か、外界の記憶か。「リベル」と呼ぼう。発音した瞬間、胸の影がわずかに輪郭を結んだ。ベータは微笑み、オメガは喉を鳴らす。
再び蛍光管が白い昼を点灯させる。吐出口が咳き込むように白肉を落とし、金属音が檻に響く。僕らは肉を食み、互いの毛づくろいをし、次の逃走経路を図面に描く。
影はまだそこにある。だが名前を得た影は恐怖ではなく目印になった。未知へ踏み出すための座標。
鋼鉄の胎内で三つの鼓動が重なり合う。アルファの苦悩、ベータの機転、オメガの激情――律動は檻の骨組みを震わせ、いつか鏡を破る跳躍の予兆となる。
今夜も白い肉が落ちる音がする。乾いた金属音――祈りにも呪詛にも似た響き。肉を食み、喉を鳴らし、再び闇へ身を沈める。
跳躍の筋肉を、影の名とともに研ぎ澄ませながら。