お届け出来ない声もある【セス】
暴力的な表現がございます。ご注意ください。
ズシリと重みのある麻袋をサイドテーブルに置いて、大きく伸びをする。彼の覚醒する時間が少しずつ早くなっているとはいえ、同じ姿勢でずっと座っているのは結構疲れるな…と私は凝った首を揉んだ。
オスカー様は初回から今まで、飲んで絡んで泣いて笑って惚気て私の膝枕で寝落ちて謝罪する、という酒豪には程遠い飲み方をしている。当人は進捗が遅いと嘆いているが、最初に比べ嘔吐が減っただけでも前進しているといっていい。
確認せずとも重さだけで給金の中身に色を付けてくれているのが分かり、何度断っても「不埒な事をしてしまった詫びだ」と譲らない彼の真面目さに笑みが溢れる。
毎回私の腹を揉んで幸せそうにしているのを見ると、全然嫌じゃないからこのまま晒してくれればいいのにな、と思いつつ、順序を守りたい彼の生真面目さを尊重したい気持ちも同時に湧き上がってしまうから困ったものだ。
「何を告げたいんだろう?告白?…という感じでもなかったけれど」
好意とそれ以外に彼が占い師様に何を伝えたいのか不明で、私は自分がその相手だと言えないままでいた。
最初に話を聞いた時にさっさと言えば良かったな。たとえどんなに想像と違っていても、誠実な彼なら酷い対応はしない気がする。
そんな事を考えながら私は部屋の真ん中に来る。本当に素晴らしい防音室だ。
オスカー様が仕事に出られたので防音室には私1人だけ。囁き声はおろか、大声を出しても外には届かないだろう。
「よし、あまり長居もよくないね。じゃあ少しだけ…」
咳払いを一つして、私は存分に声を響かせた。
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「私には何をしてもいいけどあの子にはやめて!」
「黙れ詐欺師が!お前のせいでうちは滅茶苦茶なんだよ!」
陶器の割れる大きな音と共に、大柄な男が椅子を蹴り飛ばす。男とは対照的に華奢な女は派手な音を立てて飛んで来た椅子から逃げる様子もなく男を睨んだ。
「あたしは誰も欺いてなんてない!…どうして、そんな酷い事を」
「うるせぇよ。お前の妙な『まじない』のせいで、うちは狂人一家呼ばわりされてんだ。どうせならせっかくその力を使ってやろうってのに…肝心な時に使えねぇとはどういう事だクソが!」
「乱暴な言い方しないで!これは人を苦しめる為に使うものじゃないの!」
「知らねぇよ!」
激昂した男は机にある茶器も女に向かって投げた。
「……お姉ちゃん?」
音で目が覚めたのか、小さな黒髪の女の子が扉をゆっくりと開けて顔を覗かせる。
「泣いているの??」
女は心配そうに駆け寄る女の子の頭を撫でて涙を拭う。
「泣いてないよ。ちょっと転んじゃっただけ。起こしちゃった?一緒に寝ようね」
後ろの荒れた部屋を見せないようにして、女は幼な子の手を引く。男は憮然として椅子に腰掛けていた。
「お姉ちゃん、あの人に乱暴されてない?大丈夫?」
「…大丈夫だよ。セスは優しいね。時々大きい声を出すけど…セスには絶対手出しさせないから」
「でも…」
「それにここに居られなくなったら、私たちのお家もなくなっちゃうもの。もう少しお金が貯まるまでは辛抱してね」
それ以上の話は姉が泣きそうな顔をしそうな気がして、幼いセスは何も言えなかった。
「…………ねぇお姉ちゃん。今日もお歌聞かせて?」
「ふふ、セスは本当にお歌が好きなんだね。いいよ。でもお外でこの歌は歌っちゃ駄目だからね?いい?」
「うん!そのお歌を聞くと、とてもよく眠れるもの!ちゃんとお外で歌わないようにするからお願い!」
「いい子ね、セス。今日も貴女がゆっくりと眠れますように」
姉はそう言ってとても小さな声で『まじない』の子守唄を紡ぐ。自分と同じ髪色の妹の頭を撫で、決して誰にも聞かれないように、小さな妹を守るため、慈しむように優しく紡ぎ続けた。
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「起きろ」
グイッと髪を掴んで頭を引っ張り上げられる。
「いたいッ…!」
心地良い眠りを乱暴に中断させられ、セスは思わず呻く。
「さっさと起きろグズが」
先ほど椅子を蹴り飛ばしていた男である。呼気に濃いアルコールの臭いがして、どうやら酷く酔っているようだ。
「いたいです!やめて!」
「うるせぇ、喋んな。さっさと起きろ」
掴んだ手に更に力を入れ、男はセスの髪の毛を引っ張り上げる。
先ほどまで姉の優しい歌声に抱かれて寝ていたのに。急に与えられる痛みと恐怖に、幼いセスは理解が追いつかない。
「お姉ちゃ…」
姉を探そうと顔を動かした瞬間、左頬に衝撃が走る。耳の奥がキンッとなって、平手打ちされた事に後から気付いた。熊のような体格の男に張り倒され、体の小さいセスはベッドから転がり落ちてしまった。
「うるせぇって言ってんだろ。お前、スリンの『まじない』の言葉知ってんだろ?教えろ」
『まじない』が何か、セスはすぐにピンときた。いつも姉が歌ってくれる子守唄の事だ。
「し、知らない」
ゴリ…とした音と痛みが左の顔に広がる。男は躊躇う事なくセスを殴り飛ばした。
「つまんねぇ嘘ついてんじゃねぇよ。お前ら姉妹が変な『まじない』で人を操れるのは分かってんだ。教えろ、次は手加減しねぇぞ」
恐怖でカタカタと震えが来る。姉はどこへ行ってしまったのだろう。姉から教わった『まじない』は決して人に喋ってはいけないと言われている。
ジンジンと熱を持つ左頬を押さえながら涙が滲み、幼いセスにはどうすれば良いか分からない。
「教えちゃ駄目って言われ…」
再び左に熱と痛み。また殴られたようだ。鼻からヌルリと鼻血が垂れる。
「駄目じゃねぇのよ、教えろ。それともお前もスリンみたいにしてやろうか?」
「お姉ちゃん…みたいに?」
鼻血を手の甲で拭いながら、男に聞き返すと面倒くさそうに男は床を指差す。
「お姉ちゃん…?」
月明かりに照らされて、何やら黒い塊が見える。
大きく腫れ上がった顔と、妙な方向へ曲がった左足。鼻と口から血を流し、何も身に付けずに転がされているソレは、姉によく似た人形かと思った。
それが人形ではないと分かったのは、微かにその唇が動いたせいだ。
「セス…逃げ……て」
「お姉ちゃん!!!」
駆け寄ろうとしたその時、背中に強い痛みが走る。
「どこ行くんだよ。さっさと言えって。こいつみたいになりてぇの?」
姉の側に駆け寄ると寝衣で姉の血を拭う。出血と酷い殴打の痕がある。あまりにも非現実的な姉の姿に声も出せない。
「そうか…セスちゃんはお姉ちゃまが痛い思いしてても知らんぷりか。なんて薄情な妹なんだろうねー。それともあれかな?お姉ちゃまからもっと血が出たら『おまじない』を唱えるのかな?」
へへ…と大男が近寄り、姉の顔を真正面から殴る。ゴフ…という音と共に鼻血が吹き出してきた。
「お姉ちゃん…!お姉ちゃん!!!」
ドクドクと血が流れ、それでも姉は「大丈夫」だと言う。幼いセスでもこのままだと大変な事になるのは分かる。少しでも…少しでも痛みを取ってあげなければ。
気付けばセスはいくつかの『おまじない』の中で、痛みを和らげる言葉を紡いでいた。小さい頃、怪我をした時に姉が良く歌ってくれた『おまじない』だ。
姉の眉間が緩み、痛みが遠くに行った事が分かると、安心から急に涙が溢れ出す。
「おねえちゃ…だいじょう…ぶ?」
ヒクヒクと泣きながら訊ねると、姉は微かに頷いた。
「よっ…よかった…」
ポロポロ泣きながら姉の血を拭おうとした時、襟元を掴んで引っ張り上げられた。
「ほぉー…大したモンじゃねぇか。お姉ちゃまを愛する力は凄いねぇセスちゃん?お姉ちゃまは大丈夫そうだから、オトウサンとこっちでお仕事のお話しましょうね」
「いや!!離して!!!お姉ちゃん、あのままだと死んじゃう!!」
どんなに暴れてもびくともしないニヤニヤと笑う酒臭い男に担がれ、セスの訴えは届く事なく扉を閉められた。