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葉脈

作者: かな

 やわらかい木漏れ日が映し出す、葉の透けた緑色は、今いる公園を彩っていた。ささやかな風がそっと髪を揺らす。陽の光はカーテンのように、私たちの体をくるんでいる。土曜日の午後、私はやることがなくて、少し散歩をしている。ここはとても大きい市営の公園のせいか、歩いている人々が豆粒のようなくらい、ちっぽけに見える。数メートル先の池は平たく丸になり、地面の水平線に沿っており、私は少しそっちに行ってみようと思った。足に力を込める。

「あれっ、葵じゃん」

「えっ」

 だれかに私の名前を呼ばれる。まわりの景色が滞るように、かちっと頭が固まり、はっとして辺りを見渡す。すると、右脇のやや遠ざかったところに里帆がいた。

「えー、里帆だ。すごい偶然だ」

 私のことを見つけて、声をかけてくれた里帆へと、早足で駆け寄りながら大声で話す。

「私は今日さ、やることなくて、暇を持て余してここに来たんだよね。でも、たまたま里帆に会えて嬉しい」

「へー、そうだったのね。うちはさー、大学のゼミに卒論を提出しに行ったんだよね、それこそ今日ね。ほら、締切ギリギリだったから、間に合わせるために先生が土日も受け取るってことで。で、せっかくこっちまで来たから、ちょっとだけ帰りの電車を乗り換えて、公園に来たってこと」

「そっか。まぁ、私たちの大学から二駅くらい逸れたら、この公園だもんね。前から卒業する前に一度は寄ってみたいって思ってたし、ここって広いから暇つぶしにいいよね」

「もー、うちは暇つぶしどころか、めっちゃ焦りまくりだったよ。さすが葵だよね、卒論なんて早めに終わらして、今ごろ余裕なんだもんな。えらい」

「あ、じゃあさ、せっかくだから一緒に池の方に行こうよ。あっち気になってる」

「いいよー、いこいこ」

 私たちは連れ立って、一人の時より随分ゆっくりと歩いていく。友達がそばにいて落ち着くのか、いつのまにか肩の力が抜けていた。里帆の黒が混じった金髪は、ひとたび木陰を離れると、ちりっと瞬いた。私は未だに髪の毛を染めたことがない。そんな私の髪色と同じように、真っ黒な蝶々が草の茂みでうろついている。緑豊かな道端に、湿ったような土の匂いが人々を取り囲んで充ちていて、心なしか安堵した。

 また一段と、ゆったりとした新緑の気配が近くにある。


 池まで辿り着くと、思っていたより水が濁っていて、なんてことなかった。周辺にはブランコや砂場があり、子どもたちが駆け回っているが、誰もこの池で水遊びなどしない。妙に的外れな感情を抱きながらも、私たちはぐらぐらと揺れるバネの遊具に座り込む。これは座る部分が動物の形になっていて、里帆は馬で私は亀に乗っていた。

「あはは、葵の亀かわいいよ」

 そう言われたので、

「ふふ、そっちだって、かわいいじゃん」

 とすかさず満面の笑みで返す。

 私の成人した身長では、足が地面についてしまうせいか、あまり前後に動けるような感じではなかった。ふと、きゃっきゃっと戯れ合う子どもを目にして、これから家庭とか持つのかなと過ぎる。

「ねぇ、私はさ、将来ちゃんと結婚できるのかな」

「えー、なに急に。大丈夫でしょ、葵はちゃんとしてるし、可愛いんだから」

 そうかな、と思った。

 純粋に、顔だけで言えば、私の方が里帆より整っているかもしれない。なんというか、里帆は少しギャルっぽい喋り方で、茶色を帯びた肌に似合わず、金髪にしてしまうくらいだから。

 でも、多分そんなことは関係ない。いつも里帆は、先に彼氏を作っている。男性からすると、私とは違って、ノリのいいところが話しやすく安心するらしい。連絡先を聞きだすために、私が使われることならあるけれど、それなのに大丈夫と言われたって薄っぺらい。

「そっか、ありがと。里帆の彼氏って、今は誰だっけ」

 煮え切らない鬱陶しさを胸に含みながらも、すぐに表情だけ切り替える。

「あー、去年いた男とは別れた。それから、新しく好きな人ができたから、今はその人と一年近く付き合ってるかな」

「へぇ、そうなんだ。好きな人と付き合えるって、いいな。里帆より、私なんかの方がよっぽど、恋愛について不安だよ」

「べつにさ、恋人が全てじゃないし、葵のよさは私にも伝わってる。葵はそのままで、十分、素敵なんだよ」

 そんなの当てにならない。空っぽな言葉に胸が軋んでいくだけだ。本当に素敵なら、それを示してくれる人がいなければ、ただ宙にぶらりと浮いた褒め言葉でしかない。


 あるとき、里帆は大学で一人だった私に声をかけてくれた。というのも、私は同じ学科にいた、かわいさを手先の武器にしたような女の子から嫌われていた。その子は、つるっとした頬に乗せる、桃色のチークの柔らかさには似つかないほど、気丈で嫉妬深かった。私は元々、東北出身のため、とても肌が白い。それをよく思わない、おしゃれが取り柄のような子たちに悪口を言われ、私は孤立した。

 でも、その状況にわずかな希望が灯った。

「ねぇ、葵ちゃんでしょー、前から思ってたんだけど、かわいいよね。話したいって思ってた。うちは里帆っていうの」

 とてもびっくりした。なにより、嬉しかった。こんな私と一緒にいていいのかな、と露ほどの自信もなかったが、そのあと交わした会話はたしかに煌めいていた。

 あのときの感謝は、そっと胸にしまってある。


「ねぇ、里帆はさ、ずっと前から、いつも私のことを素敵って言ってくれるよね。私のいいところって、なに」

 ふと知りたくなった。公園で騒ぐ子どもたちの声は、遠のいていた。

「んー、かわいいのもそうだし、あとは自分に負けないとこ。うちが葵を見かけた時はさ、いじわるな子たちに理不尽なことされてたけど。でも、めげずに毎日、大学にきてさ。なんだろうね、それだけでも偉いなって。しかも徹底して我慢してて、いい子なんだなって」

「え、そんなふうに見てくれてたんだ。全然、無自覚だった。あの頃は、とにかく一人だけの世界を保つことに必死だった」

「うん、知ってる。そういう頑張り屋さんなとこ、うちはちゃんと分かってるよ」

 あぁ、そっか。私はすでに強くあったし、それを逃さないように大切に拾ってくれる人がいたんだ。なら、もう悩むことはない。恋愛でやきもきしなくたって、私は私らしくある。それで、いい。

「あーあ、なんか、お腹空いてきたな」

 話してすっきりしたのか、今度は全身の力が抜けて、体のなかが空っぽになる。ちらっと端っこに佇む時計に目をやると、夕方の五時くらいになっていた。

「里帆さ、この後、暇だったら夕飯たべにいこ」

「いいね、じゃあ、そろそろ行きますか。よっこいしょ」

 私たちはバネの遊具を跨いで降りると、もう子どもたちが疎らになった静けさと共に、丸いオレンジ色の夕陽を背にした。二人を照らす眩さは、とても綺麗で、またひとつ心の片隅にとっておくことにした。


「どこの店いくー」

 やや蒸された電車の中で、里帆は私に向かって、気だるそうに呟く。私の肩は隣のだれかに押しつぶされ、吊り革を掴んだ指の間は、少し湿りを帯びていた。どことなく不快さが押し寄せる。

「ね、どうしようか。里帆がこれ食べたいとかあれば、教えてね」

「あ、じゃあ、飲み行こ、飲みに」

 唐突に閃きが貫いたかのように、里帆は目を輝かせて、携帯で飲みの場を調べ始めた。いいな。私なんて、ふつふつと疲れが喉元までつかえていて、今にも座りたい。

「え、多分、葵は酒は飲めたよね。苦手だったっけ、ちょまって、飲みの場を探してるわ」

「うん、飲めるよ、一応ね」

「おしっ、じゃあ、チェーン店の居酒屋いくぞー」

 私もカバンから携帯を取り出すと、たたたっと画面を操る。液晶のライトに反射される二人の顔は、電車の窓にぼんやりと映し出されている。

「あ、ずいぶん前に里帆がバイトしてた、居酒屋カクタがあるよ」

「それな。しかも、これ、ちょうど次の駅じゃん。はい、決まった。ここ行こ」

「まぁ、家に帰る時もそこそこ近いから、いいね。あ、もうすぐ着くって」

 まるで息が合うかのように、電車内のアナウンスが次の駅を知らしめていた。二人で電車を降りて、改札をくぐると、ほんのりと薄暗い大通りに数々のお店が点灯していた。


 道端には、タバコの吸い殻やプラスチックのコーヒーカップなどが転がっていて、若い男子学生たちはわいわい盛り上がりながら道を塞ぐ。時折みかける、スーツ姿のサラリーマンはレジ袋を掲げ、やつれたように歩いている。随分と活気のある通りだ。

「あ、あれじゃない、居酒屋カクタ」

「本当だ、そうだね」

 里帆が初めに見つけて、指をさした先には、カクタという黄色い文字が書かれたガラス扉の露店があった。外からはテーブルや席について、ビールを片手に談笑するサラリーマン、おつまみを掴んでいる私服の人々が垣間見える。街角に面していて、見つけるには分かりやすかった。

「じゃあ、入ろう。えーと、二名です」

「二名様ですね、こちらご案内いたします」

 里帆が店員に声をかけると、素早く席まで誘導される。とても手際のいい女性が接客してくれて、身につけた黒いエプロンは揺れていた。

「ねー、何頼む。私はとりあえず、ハイボールいくかな」

「私は梅シロップのソーダ割りにしとく」

「おけ」

 私はあまりアルコールの苦味が好きではなく、飲むだけならできても、あまり進んで口にはしない。別に酔うことで嫌なことを流すとか、そういうタイプでもない。でも、梅シロップは美味しそうだ。

「はぁ、葵はさ、さっき恋愛のこと話してたけどさ。好きな人いないの」

「え、うん。いないよ」

 かといって、私のことを好きになってくれる相手もいない。

「まぁ、それはさ、受け身なだけじゃなくて、葵からもぐいぐいアピールしてみればいいんじゃない。気になる人もいないのかー」

「里帆は結構そこらへん上手だもんね。いいな」

 時々、羨んでばかりで何もできない自分が嫌になる。でも、その半分は私の原因でもあって、あまり気にしても仕方がない。恋人がいなくて寂しいと感じつつ、結局はどこかで妥協しているのだろう。

 店員は、水滴のついたグラスに注がれた、梅シロップのソーダをテーブルの上に置く。ことっと音がして、汗ばんだグラスの取っ手を触ると、ひんやりとした。炭酸のせいで、喉元がちりっと痛むけれど、それも心地よかった。

「ぷはぁ、おいしい」

 目の前で眉毛をかしげながら、腹の底からお酒を味わうかのように、里帆はビールを噛み締めている。

「こうやってキンキンに冷えてると、またいいよね」

「それなー、はぁ、しみわたるわー。葵はさ、もっと気楽にいけば、いいんだよ。出会いなんて、いつのまにか訪れてるもんだって」

「うん、そうだね。励ましてくれて、ありがとう」

「あははー、うんうん、葵はかわいいよ。そういう素直なとこも含めて、いい子だわ。あんたが誰かのお嫁に行ったら、私は友達として、ちょっぴり寂しいんだからさ」

 にまにまと、とても無邪気に笑う、私の目の前にいる子。酔うと、にこやかになって、とても可愛いくなる。そんなだから、放っておく男なんかいなくて、いつも彼氏持ちだ。私より、よっぽど前向きで、ずっと先にいて、同性からしても惹かれるものがある。なのに、羨望とも憧れとも違う、またとなく空虚な心になるのはなぜだろう。

 

 そのあと、私たちは居酒屋が閉まるまで、お酒という成分で高揚した気分を味わった。

「のんだ、のんだー」

「ちょ、里帆、大丈夫なの」

 里帆は目尻がとろんと下がっていて、肌に赤みを侵食させながら、いかにも酔っている。私のほうへと、よろめく体幹を受け止めると、ずっしりとした。私は里帆の腕と背中を支えながら店を出る。

 もう足音もこれっぽっちしか響いていない、しんとした夜空の下に、居酒屋ののれんを店員が片づけていた。その店員は若い男の人で、前髪のかかった瞳は、しゅっと引き締まっている。大学生くらいのバイトだろうか、夜遅くまで、大変だと思う。私は泥酔した友人をかついで、重たい足先を引きずり、横を通り過ぎていく。

「あの、大丈夫ですか。よろめいてますけど」

 何気なく通り過ぎようとしたはすが、店員に心配そうな視線を向けられる。

「え、あぁ、ちょっと友人が酔っ払ってしまって。でも、平気、だと思います」

 私は思わず笑顔を取り繕いながら、高い声で返事をする。

「もう終電なんで、そっちの友達を送るの手伝いましょうか」

「へっ、いや、いいですよ。申し訳ないですし。なんとか帰れますから」

「貸してください」

 店員の男の人は、じっと視線を合わせると、無言で私の肘にかかった二人分の荷物をとる。

「荷物だけでも持ちますから。駅まで送りますよ」

「あ、ありがとうございます」

 不思議な男の人だなと思った。よく見ると、とても端正な顔立ちで、大きな二重幅は綺麗な左右均等になっている。なんで、こんなに流れるように、私のことを気にかけてくれるんだろう。

 少しの胸のときめきと、不思議さを秘めて、私の前を歩いている背中を追う。そのまま駅へ行くと、なんとか里帆を自宅の沿線に乗せることができて、ほっと安心する。

「よかった。なんとか友達は帰れました。手伝ってくださって、ありがとうございます」

「いえ、それより、君は大丈夫なんですか。もう終電もないのに、家まで帰れるんですか」

 男の人は、私のことを心配そうに話す。

「あぁ、私は大丈夫です。居酒屋がある通りから、一駅分くらい歩けば、家に着きます」

「そうなんですね。とはいっても、こんなに暗いんで、流石に不安です。君のことも送らせてください」

「えっ、はい、わかりました。ありがとうございます」

 男の人の目的がいまいち掴みきれず、不安はあったが、深夜の道中で一人で帰るのも怖かった。まるで息が途絶えて、寝静まったかのように、街は暗い。明かりも通行人も騒音さえも、全ては沈黙へと還っている。


 一緒に歩いていると、肩を並べても、ずっと私の方が低かった。

「あの、お名前はなんて言うんですか」

 そういえば、聞いていなかったと思い、私は相手の名前を尋ねる。

「あぁ、俺ですか。翔っていいます。飛ぶっていう字です」

「翔さん、ですか。なんだか爽やかな名前で、お似合いです」

「覚えてない、ですか」

「え」

 翔さんは、じっと私に視線を向けているけれど、真っ暗なせいで表情が見えなかった。翔、なんて人がいたか覚えていない。どうにも思い出せない。翔さんの鋭い目つきは、体の芯を貫くようにして、離さなかった。

「困らせて、すみません。君は葵さん、だよね。実は、高校の頃、隣のクラスだった。東北の大成高校でしょ。多分、俺はその時、野球やってて坊主だったから、今とは違うかも」

「へ、そうだったの。ごめん、全然、覚えてないや」

 釈然としない、不確かな記憶で、ぼんやりと頭が霞んでいく。

「あの時さ、密かに葵さんのこと好きだった。でも、隣のクラスから出てくるのを見てるだけで終わって、後悔してた。そしたら、俺のバイト先で、今になって出会ったから声かけたんだよね」

 全ての辻褄が合うようで、いきなり帰りを見送ってくれたのも、そういうことかと腑に落ちる。それより、好きだったということのほうが驚きで、何をどうしたらいいのか分からない。こんな数年ぶりに、二人が対になり、言葉を交わしている。

 なんだか、好かれていたということが嬉しい。それを勇気をもって、打ち明けてくれた相手のことも愛おしかった。やや薄っすらとした、記憶の片鱗しか残っていないが、あながち満更でもない。

「これから、もっと話せないかな。なんだろう、好きという言葉がとても嬉しかった。翔くんのこと、色々と知れたら嬉しい」

「翔って呼び捨てでいいよ。うん、ありがとう。頑張って、伝えてよかった。連絡先、教える」

「うん、私のことも葵って呼んでよ。電話とか、私は大体いつでもできるから」

 携帯にお互いの連絡先を登録すると、そのあとは、たくさん話をした。あの頃の担任やばかったよね、とか松山先生という体育教師の伝説があったこと、その先生がバスケゴールを壊したことなどを振り返っていた。

 もう、そろそろ私の自宅に着く頃、私は寂しさを覚えた。お腹がちくりとして、また一人になるのが嫌だった。

「あのね、翔はこのあと、早く帰らないとダメかな」

「え、いや、俺は時間あるけど。どうかしたの」

「ちょっとだけ、私の家に来てよ。なんか一人暮らしって、寂しくて」

「そうか。わかる。俺も実家を出てから、寂しくなるよ。いいよ、しばらく一緒にいるよ」

「ありがとう。翔は優しいね」

 それから私は自分のアパートの鍵を開けて、少し物を退けると、布団の上にぽすっと座り込む。翔も控えめながら、隣に正座している。どことなく不思議で冴えない空気が漂っている。

 私はあまり蛍光灯の刺すような光が好きではなく、今も一箇所のデスクライトがぼんやりと辺りを照らすだけだ。その白さは私たちの顔を半分だけ、明るみにする。でも、それ以外は二人を影が覆っていて、暗闇のなか相手の息遣いだけを感じた。

「ごめん、さっき少しだけお酒も飲んじゃって、眠いから横になる。翔も自分が居やすい体制でいいよ。一緒に寝てもいいし」

「うん。友達のことも運んだから、疲れただろ。じゃあ、俺も隣で少し横になる」

 私たちは互いに背中を向け合って、体を横たえるが、ほんのわずかで足元が触れそうだった。こんなに誰かと近い距離にいて、じんわりと温もりが伝わってきそうなのは初めてで、戸惑いながらも安心する。誰かがいること、よその存在を感じることは、心地いい。

 静寂のなかで、私たちは近くて遠い。触れそうで、離れている。翔は私に手を出してはこないけれど、それでよかった。あえて、ただそばにいてくれるだけで、通じ合えるものがあった。

「翔はさ、優しいね」

「俺は普通だよ」

「そんなことないよ、優しい。優しいよ。だって、私みたいな女の子が家に呼んだって、それ以上のことはしないでしょ」

「うん。仮にも遠くから見てて、好きだった子だし、たまたま会えた。大切にしたい」

「私ね、大学は東北から上京してきたけど、あまり楽しくなかったの。なんか、嫌な女の子たちがいて。そしたらさ、翔も私と同じ東北からやってきて、高校では話したこともなかったのに今こうして一緒にいる。しかも、たまたまの巡り合わせだよ。すごいよね。やっと味方っていうか、安心して話せる人できたみたいで、嬉しいの」

 私は、ぼそっと呟く。今にも掠れそうで、千切れるような弱々しい声。私は力を振り絞って、心の奥から助けを求めた気がした。翔の顔は見えない。どんなことを考えているだろうか。

「うん、教えてくれて、ありがとう。俺もさ、葵があの居酒屋に来たとき、目を見張るくらいびっくりした。奇跡ってあるのかなって。俺が口にできなかった気持ちをやり直せるのかなって、望みができた。それなのに、葵が落ち込んでたら悲しいに決まってる。あんまり寂しくなるなよ。いつでも俺を頼ってくれていい、すぐ駆けつけるよ」

 そう語ってもらい、目頭がさらに熱くなる。またとない言葉を与えてもらって、より感情が溢れるようだった。

 里帆、私ね、明日になったら会って話したいことができたよ。ちゃんと、私のことを支えてくれる人がいたみたい。

 大粒の涙がほろほろと、私の耳のほうへと伝っていって、下に敷かれている布団に染みていく。ひっくと、喉がしゃくれる音が響く。私が泣いたの、何年ぶりだろう。

 翔はやっと振り向くと、私のほうへ手を伸ばして、お腹あたりを抱きしめてくれる。私も、そっと手のひらで握り返すと、とても温かい。とくとくと脈打つような鼓動は、私のなかで新しい響きを放っていた。

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