帰り道
仕事終わり、帰路の電車を降りて、ため息が出た。
仕事で疲れてるのもあるが、天気予報が外れて雨が降りだしていたからだ。
仕事場から最寄り駅までは、同僚の折り畳み傘に入れて貰えたが、家までは濡れる覚悟で出口へと向かう。
同じように、疲れた顔で誰かに電話をしている人も居た。
その出口で、傘を2本持っている年配の女性が居て、声が出た。
「母さん?」
「傘、持ってないと思って」
「連絡くれたら、待たせなかったのに」
慌てて母に近寄り、傘を受け取れば、いつからここに居たのか、随分冷え切っていた。
「お仕事の邪魔をしてしまうでしょ?」
「母さんの身体だって大事。早く帰ろう?」
母と並んで傘を差し、家路へと向かう。
暫くすると、小学生の頃の通学路に差し掛かり、母が首を傾げる。
「あら、ここにあった井戸無くなっているのね」
「私が中学の時に埋めた筈だよ?」
「ああ、そうだったわね」
最近、痴呆症状が出て来た母は、昔は仕事をバリバリしていて、スーツ姿に密かに憧れていた。
今、スーツ姿になった自分は、あの頃の母のようになれているのか?といつも不安で、ついつい残業ばかりをし、母に心配をかけてしまっている。
「なおちゃん元気かしらね」
「あー。どうしてるかな。最近連絡してないわ」
「よく面倒見て貰っていたわよね」
「反省してまーす」
昔話をしながら歩き、信号で足が止まった。
前を走り抜ける車を見ていると、声が聞こえた。
「待って」
「え?」
「どうしたの?」
キョロキョロとすれば、母が首を傾げた。
母には聞こえなかったのだろう。だが、空耳と言うには、ハッキリとした声であった。
信号が青になり、母がこちらを見る。
「さあ、帰りましょう?」
この信号を渡れば、後は家までもうすぐだ。だというのに、縫い付けられたように、足が動かなかった。
自身の意思とは異なる身体に、恐怖が広がる。
「どうしたの?」
異常を察したのか、母が冷えた手で触れてきた。
何かを言おうとしても、言葉が出て来ず、ますます焦る。
ふと、足元に何かがフワリと触れた。
「あ、」
途端、声が戻り、安堵が広がり、母も安心した表情になる。
「ごめん、明日の朝に出す資料、纏めるの忘れてたわ」
私が言うと、母が困った表情を浮かべる。
「他の方に頼めないの?」
「この時間だし、迷惑かけられないから。戻るわ。傘ありがと」
努めて平静に言い、踵を返して走り出すと、後ろから鋭い舌打ちが聞こえた。
振り返らないように、来た道を必死に歩く。
小学校の通学路で、井戸なんかなかったと、その時になって思い出し、自分は一人暮らしであったと思い出して来る。
見覚えのない道だが、正解が分かっているかのように、足が動く。
駅に辿り着くと、足元にフワリとした感触がした。
そして、目が覚めて思い出す。
雨降りの中、急いで帰ろうとして、足を滑らせたのだと。
鈍い痛みが頭にあり、消毒液と薬品の香り、腕に管が刺さっていて、鼻にも管が入れてあって、管だらけの身体に、ドラマみたいだと、現実として入って来なかった。
医師と看護師が側に居て、何かの機械音と、無機質な電子音が聞こえる。
「すみちゃん!」
「すみ?!」
母と兄の声は、酷く切羽詰まっていて、笑いたかったが、笑うだけの力がなかった。
アパートの階段から落ち、半月意識不明で、私はあの日、呼吸が何度も止まり、母と兄は覚悟をしていたのだと、後でしっかりと叱られた。
やっと動けるようになり、職場に復帰の挨拶をしてから、コンビニと花屋に寄った。
「おー!すみ!奇跡の生還おめ!」
友人の家に着くと、友人は茶化すように言って、手を上げたので、その手にパチン!と合わせた。
彼女の部屋に入れば、小さな仏壇があり、そこに花と、買ってきた猫缶を供える。
「チーちゃん。ありがとね」
金色の瞳が美しい黒猫は、友人の飼い猫だった。
遊びに来ると、いつも足元でスリスリしてきて、構おうとすると、するりと逃げてしまう、気まぐれなプリンスだった。
高校を卒業する前に、亡くなったと聞いた時は、もうあのプリンスに会えないのだと、随分泣いた記憶がある。
あれから8年。
あの時、脚に触れた感覚は、確かに彼だったと、思えた。
友人が、お茶を出してくれる。
「今もさ、たまに居る気がするんだよね。すみの所に、出張るだなんて、男前すぎるわ」
「男前すぎてさ、トキメいちゃうわ」
「そんな事言える元気があるなら大丈夫か。足元気をつけなよ?本当に心配したんだから」
「それは本当にゴメン!お詫びはしっかりします!」
両手を合わせて拝めば、足の裏を何かがフワリと撫でた。