外伝4 横川尚美と華崎鮎美
「で、こんな夜遅くに何の用だい?」
70歳の赤毛のパーマで赤い縁の眼鏡をかけた筋肉隆々の女性が尋ねた。演歌の女傑、横川尚美である。彼女はTシャツにヒットパンツの姿だが不思議と似合っていた。
ここは尚美の家だ。豪邸のような広さだがどこか小学校のようにそっけないつくりである。事実、この家には尚美の弟子たちが住み込みで働いていた。
部屋は畳張りでちゃぶ台と小型の冷蔵庫の家具はない。窓はカーテンが閉め切っており、外の様子はうかがえない。戸は襖だ。
ちゃぶ台の上には缶ハイボールが数缶と、コンビニで購入した珍味などが置かれていた。
尚美の向かいに座っているのは、40代の女性だ。名前は華崎鮎美といい、芸能事務所、ヴィベックスの社長である。ボブカットに黒スーツが決まったすらりとした美女だ。
「今度、うちとドドリアが組んで、メテオシャワーフェスという音楽フェスを開催する予定なんです。そこでお弟子さんの秋本美咲さんを誘いたいのですよ」
ドドリアとは動画サイトニコヤカ動画を運営している会社だ。
「はぁ? なんであたしのご機嫌取りに来たんだい? 直接あいつと交渉すればいいじゃないか。まどろっこしいねぇ」
「秋本さんは問題を起こすことが多いですからねぇ。でも私たちは彼女の敵にはなりません。そのことを伝えたかったのですよ」
軽口だが鮎美の頬を汗が垂れた。目の前に座っているのは魑魅魍魎がうずくまる芸能界を自由気ままに航海している女傑だ。女性だが百獣の王が目の前に座っている緊張感を漂わせている。
鮎美は自分が丸裸のノヤギと思っていた。腹を空かせたら自分は食い殺されると。
尚美はつまらなさそうにつまみのするめをバリバリとかみ砕いた。70歳だが歯は自前だという。その後ハイボールを飲み干した。まるで三国時代の豪快な英傑を連想する。
「あいつより、あたしに媚びを売りたいんじゃないのかね? ここ数年で世界はすっかり変わっちまったからねぇ」
「でも変わらないものはありました。お客を大切にするまごころです。横川先生はそれを実践したから、今もやってこれた」
「結果論だね。親切による復讐をしていたら、たまたまいい方向に向かった。それだけのことさね」
尚美は何でもなさそうに答えたが、鮎美にとっては大問題であった。
尚美が所属していたキツネ御殿は社長の木常崑崑の独裁政治と思われていた。実際は息子で副社長の木常狸吉がうまく手綱を取り、都合よく動かしていたのだ。
そのうちの一つがリモートライブである。ライブハウスやコンサート会場にカメラを設置し、それをパソコンでリアルタイムの動画で見る。通常の動画よりも臨場感があって人気があった。
尚美はファンクラブに対してリモートコンサートのやり方をわかりやすく、マニュアルにまとめたのだ。
自は大きく書かれており、図もわかりやすい。さらに弟子の一人が経営する電機グループでは、尚美のファンクラブ所属なら必要な機材を格安で用意し、配線もサービスしていた。もちろん家族にきちんと相談している。一人暮らしでもきちんと家族の許可を取っており、トラブルを極力まで回避していた。
それに弟子の一人が経営するホテルグループでは、よく尚美のディナーショーを行っていた。もちろん尚美の弟子も参加することがある。
遠方で遠出できない人や、足腰が弱い人のために、リモートディナーショーを行っているのだ。
ホテルが用意したレトルト食品にワインやノンアルコール飲料などで、リアルタイムにディナーショーを楽しめるのだ。
これはコロナウィルスが流行した時も、同じであった。会場にひとりっきりで尚美が歌っていても、カメラの向こうではファンが味の良いレトルト食品を楽しみながら、彼女の歌声に酔いしれるのである。
これは弟子の美咲も同じであった。彼女は地元のライブハウスでライブを行うが、リモートライブも行っている。彼女はお騒がせ動画配信者でもあるが、純粋に彼女のファンも多い。鮎美の狙いはそれだ。
リモートコンサートといっても、やり方がわからない人間は多い。だが美咲ファンをはじめ、尚美ファンの家族はやり方を知っている。美咲が出演し、リモートコンサートを行うとなればすぐに飛びつくはずだ。
鮎美はそう考えている。そのためには尚美の機嫌を取りたいのだ。二人は師弟の関係だが、仲の良い祖母と孫のように見える。弟子に対しては褒めない彼女だが、額縁通りに受け取ると手痛い報復をされたケースもあった。テレビで美咲を馬鹿にしたコメンテーターが尚美の鶴の一声で出入り禁止にされた話がある。実際は人の悪口は言わない方がいいと忠告しただけだが、スポンサーが勝手に解釈してコメンテーターを出すなと命じたのが真相だ。
「……あんたは面倒なことばかり首を突っ込むね。少しくらい娯楽でも楽しんだらどうだい?」
「いえいえ、性分ですから。それに娘もいますし、娯楽を楽しむ余裕は……」
「ならひとつゲームをしようじゃないか」
尚美はキャンディーチーズを取り出した。その一つを鮎美に投げてよこした。彼女は慌ててそれを受け取る。
「こいつを高く放り投げて、うまく口に入れたほうが勝ちだ。あんたが勝ったらこの家の権利書をやろう。あたしが負けたら弟子に頼んで協力してやるよ」
さらっと宣言した。あまりにあっさりしており、鮎美は何を言われたのか理解できなかった。
そうこうするうちに尚美は天井高くチーズを放り投げる。そしてひょいと口の中に入れると、もぐもぐ食べた。その姿はまるで小学生のいたずら小僧のような愛嬌があった。
「これ、私も成功したらどうなるんですか?」
「どちらかが負けるまで続けるよ」
鮎美は冷や汗をかいたが、尚美は普通に言った。まるで学校の教師のようにまっすぐに鮎美を見ている。
鮎美はぽいっとチーズを投げる。チーズが宙を浮いている最中に、鮎美は先ほどの尚美の言葉を思い出す。この勝負に勝てばこの家の権利書をもらえる。彼女は本気だろうか。
尚美は酒の席でも冗談を言ったことは一度もないのだ。むしろ相手が忘れていることが多く、尚美が約束を果たした時はびっくり仰天することがほとんどだった。
緊張のあまり視界がぼやけていく。チーズはあらぬ方向に飛んでいき、畳の上に落ちた。
鮎美はちり紙でチーズを拾うとごみ箱に捨てようとしたが、尚美が毒蛇のように手を伸ばし、チーズを食べてしまった。
「なんだい、あたしの勝ちだね。しょうがない、弟子たちに手伝ってもらうよう頼むよ」
尚美はしょんぼりした口調で言った。そして新たにハイボールのふたを開けて飲み干す。
あまりのあっけなさに鮎美は冗談だと思った。
「あの、冗談、ですよね?」
「本気だよ。まあ精々弟子に衣装を頼んだり、ステージの設置を頼むくらいかねぇ」
それを聞いた鮎美はめまいがした。尚美の弟子にはファッションデザイナーや企画会社の人間がいるが、今は世界に通用する実力を持っている。さらにステージの設置ともなれば途方に暮れる金が動くはずだ。
「安心しな格安で頼んでやるよ。でそのメンタマフェスはどこで開催するんだい?」
尚美は真顔であった。先ほどの賭けは本気だったのだ。もし彼女が負けていたらすぐこの家の権利書を渡していたに違いない。
幼少時の彼女は成金の父親に振り回されたという。その父親が没落して縊死した後は母と娘で苦労したらしい。その影響か財産には固執しないという。芸を磨き体を鍛えるのは、差し押さえることができない財産だと自伝に書かれていた。
「……今日はこれで帰ります。夜分遅く失礼しました」
鮎美は立ち上がると、頭を下げて部屋を出ていこうとした。
「まちな」
尚美が呼び止める。
「お前さん、少しは緩く考えな。あんまり考えすぎるとろくなことがないよ」
「……ご忠告、痛み入ります」
そう言って鮎美は部屋を出た。尚美は冷蔵庫を開けると中からウィスキーと炭酸水を取り出した。
そして数分後に若い女性たちが入ってくる。全員割烹着を着ていた。手には手製のおつまみがお盆に乗っていた。サラミソーセージとスライスチーズを重ねて作ったミルフィーユ風に、キャンディチーズに生ハムでくるみ、オリーブオイルと黒コショウで味付けしたものなど、手軽に作られたものが多かった。
尚美の弟子たちだ。
「先生~。あの人、いったい何の用があったんですかね~」
十代後半の女性が尋ねた。ちゃぶ台におつまみを置くと、尚美が自分で作ったハイボールを彼女たちに差し出した。
「ハイボールも私たちが作りますよ~」
「いいんだよ。あんたらはあいつの話の最中におつまみを作ってくれたかね。これくらいは師匠の仕事さね」
尚美は弟子たちに作りたてのハイボールを差し出す。弟子たちは嬉しそうにハイボールのグラスを手に取り、乾杯した。
「あの女は頼れる人間がいないんだよ。あたしみたいな棺桶に足を片足突っ込んだばーさんのコネにすがっているのさ。世の中あたしのような人間は変わり者なんだよ」
尚美は自分で作ったハイボールを口にした。缶ハイボールより、自分の好みで入れたものは美味に感じる。
「さあもう客は来ない。今日はチートディだよ。じゃんじゃん飲みな!!」
尚美が言うと、弟子たちは喜んだ。そして夜は更けていく。