悲しみ 前編
薄暗くなったベンチに美樹が座っていた。
冷たくなった手を自分の息で暖めながら、宝石箱のような空を見上げる。
寒さで透き通った冬の空気は、遠い星の光をいつもより少しだけ近づける。
満天の星達が、自分を照らしてくれる夜。
そんな夜が美樹は好きだ。
夏の楽しい夜でも、春の柔らかな夜でもないその夜は、自分を澄み切ったものへと変えてくれるような気がする。
突き刺すような冬の空気が、冷たい清流のように身を清めていく。
こんなに寒い夜は体が冷たくなり過ぎて、たまらなく寂しくなるときもあるけど、その分だけ人のぬくもりを強く感じることができた。
好きな人の暖かさを、体中で受け止めることができるから、美樹は冬が大好きだった。
視線を落とすと、鮮やかな光が飛び込んでくる。
残り少ない今日を、懸命に引き留めようとしている光り。
その中でひときわ輝いている売店の中に、自分の愛しい者の姿があった。
ファーストフードが山積みのトレーを持つ姿は、美樹の微笑みを誘う。
美樹がいる方向に慌てて走り出した慎也が、振り向きざまに小さな女の子にぶつかる。
しりもちをついてしまった女の子を、本当に困った時の顔で起こしてあげた慎也が、自分のトレーの中にあったコーラとハンバーガーをあげている。
それまで泣きそうだった女の子の顔が笑顔になる。
その姿を見ていた美樹の顔にも、微笑みが浮かんだ。
慎ちゃんは優しいと思う。 本当に、どうしようもないくらいに。
たとえ自分が傷ついても、笑いながら相手のことを心配してる。
そんなところが美樹は好きだけど、ときどきすごく切ない。
誰よりも傷つき、苦しんでるのは慎ちゃん自身なのに。
だから、彼の苦しみを少しでも自分が引き受けられたら・・・。
彼が壊れてしまわないように、ずっと寄り添っていてあげたかった。
でもそれは無理だった。
自分には、時間が残されてはいないから。未来は、慎ちゃんと供に続いてはいないから。
けれど、美樹は幸せだった。少なくとも今この瞬間だけは彼と一緒にいれる。
僅かな時しかなくても、一生分の想いを込めて。
慎ちゃんを見つめていよう。
そこまで考えて、美樹は自分が涙をためているのに気づいた。
「やだなあ、寒いからかなあ・・・・・」
悲しみの涙を寒さのせいにして、空を見上げて星を眺める。涙がこぼれ落ちないように、懸命にこらえて。
それでも我慢しきれなくて、透明な雫が落ちていきそうになったとき、美樹は後ろから抱き締められた。
驚いて後ろを振り返ると、見知らぬ女性が立っている。
大人びた女性だ。少なくとも自分より二,三歳は年上に見えるその人に、隣にいる男性が声をかけた。
「ほら、やっぱり驚いてるじゃないか。だからよせっていったのに」
「だって、どうしても声をかけたかったんだもん」
いじけたようなその口調は、女性の年齢を見た目より少しだけ幼くさせる。
すてきな二人だった。お互いが信頼し合っていることを感じさせる。
うらやましく思って二人の会話を見ていた美樹に、改めて女性のほうが声をかけた。
「突然声かけてごめんね。さっき慎也と一緒にいるところを見かけたものだから、つい話しかけちゃった」
子供がいたずらを見つかったときの顔をして、女性が照れ笑いをする。
なおも何か言いかけたとき、トレーを抱えた慎也が現れた。
美樹が何かを問う前に、叫び声をあげる。
「うわっ、紗季ネエ、何でこんな所にいるんだよ!」
その言葉でこの女性がだれだかわかった。紗季とは慎也のいとこの女性だったはずだ。
だから自分と慎也が一緒にいることが気になったのか。
「何よ、いたら悪い?デートよ、デート」
ものすごく気を悪くした様子で紗季が言い返す。
「へ~え、意外だったな。慎也にこんな可愛い彼女がいたなんて」
「紗季ネエには関係ないだろ。いいからどっかいけよ」
険悪な空気が二人の間に流れ始めたとき、絶妙なタイミングで男性が口をはさむ。
「ほら、喧嘩すんなよ二人とも。この娘が困ってるだろ。でも、ホント、驚いた。いつの間に彼女ができたんだい?」
「もう、広司さんまで何いってんですか!」
広司と呼ばれた人は、またおもしろそうに笑う。
この会話の間、美樹は一人で取り残されていた。少し寂しい気もする。
だけど、慎也が自分のことを彼女といわれ、困りながらも否定しなかったことが嬉しかった。
黙り込んでいる美樹に気づき、慎也が話しかけてくる。
「あっ、ごめんな。いきなり話し始めちゃって。この人は俺のいとこで藤田紗季。で、こっちの人がその彼氏で、槙原広司さん」
よろしく、と会釈しあった後、紗季が訊ねる。
「慎也、この娘はなんていうの?」
「今村美樹さんだよ」
「へ~え、美樹さんて言うのか。突然こんなこと訊いて失礼かもしれないけど、慎也とはどうやって知り合ったの?」
無言のうちに広司が咎める。
美樹と慎也が顔を見合わせて困った顔をしたからだ。
だが、美樹はその質問に自分から答え始めた。
「慎ちゃんと会うのは今日が初めてなんです」
「えっ、ナンパなの?」
驚いた声をあげた紗季に、笑いながら美樹が首を振る。
「いえっ、そういうわけじゃあ・・・。どちらかと言うと私のほうから声をかけたって言うか・・」
「すごいね。美樹ちゃんてそんなに行動力のある娘なんだ」
「普段は別にこんな事しないですよ。ただ、相手が慎ちゃんだったから・・・」
そこまで言って、美樹の顔が真っ赤になった。
見ると慎也も同じ状態になっている。
そんな二人を見て、紗季が意味ありげな笑みを浮かべた。
慎也が何かを言うのを制すると、そのまま言い返す。
「あのさあ慎也、ここであったのも何かの縁だし、何かおごってくれない?私喉かわいちゃってさあ」
「何で俺がお前なんかにおごらなきゃいけないんだよ!第一、俺、今買ってきたばっかだぞ!」
「いいじゃない、けちねえ。美樹ちゃん、こんなけちな男と一緒にいないほうがいいわよ。絶対に不幸になるから」
あまりの言い方に反論しかけた慎也を、冷静にきいていた広司が止める。
「慎也君、黙って買いに行ったほうがいいよ。どうせ言い出したら聞かない奴なんだから」
そのあきらめたような言い方に、知らず知らずの内に慎也の口からもため息が漏れる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
そう言い残して、闇の中に二人の姿が消えていく。
そして後には美樹と紗季が残された。
なにを話してよいものかわからず、二人の間に沈黙が広がる。
そして、沈黙に耐え切れないほどの時間が流れたとき、先に口を開いたのは紗季だった。
「ごめんね、せっかく二人でいるのに邪魔しちゃって」
いいえ、そんな、と答えつつ、美樹は紗季の様子が変わったことに気づいた。
先ほどまでの陽気な雰囲気が薄れ、かわって柔らかな雰囲気を身にまとっている。
「でも、どうしても言っておきたいことがあるの。・・・・あのさ、慎也の初恋の話し、聞いた?」
何も言えず、ただ黙って頷く。
「そっか。あのね、慎也は彼女が死んだことを自分のせいにしてたんだ」
驚いて振り返った美樹を、静かに微笑んで見つめる。
「わかってる。彼女が死んだのはあの子のせいじゃないってことは。多分本人も、そんなことは痛いほどよくわかってると思う。彼女が死んだのは病気のせいで、あの子はなにもしていないし、何も悪くない。だけど、慎也はそう思わなかった。彼女が死んだのは自分が彼女のことを好きになったせいだからって、ずっと思ってた。ずっとそう思い込もうとしてた。・・・あの子の両親は、あの子が小さい頃、慎也の元から去っていった。それは人の力では本当にどうすることもできない、運命みたいなものだったんだけど、慎也は自分のせいだと思い込んだの。自分が悪い子だから、神様が罰を与えたんだって。だから、自分の大事なものは、自分のせいでみんな無くなっちゃうんだってそう思ってた。それから、慎也は好きになることをやめたの。本当に大切なものが、無くなってしまうなんて事嫌だったから。それから、慎也は人と距離をおくようになった。人に愛されないように、わざと嫌われるようなことをして。そうすれば、その人はいなくなってしまわないから。そして、そんな慎也が初めて愛した娘が、あの娘だったの。本当に嬉しがってた。やっと、自分は人を愛してもいいって、人から愛されてもいいってことを教えてもらえたから」
美樹はその時の慎也を容易に想像することができた。
やっと、自分の気持ちを素直に表現することができた嬉しさ。
それは、美樹自身がたどってきた道でもあったから。
その喜びが、まるで自分自身のもののように感じることができた。
「だけど、彼女もいなくなってしまった。私には、その時の慎也の気持ちを感じることはできない。想像することはできても、心の痛みなんてその人にしかわからないから、そんな簡単にわかることなんてできないよ。でも、慎也を見ていれば、その時の絶望感は本当にすごいものだったんだってわかる。あの子、両親のときのようにふさぎ込まなかった。周りの人に心配かけないように明るく振る舞って、でも、それが逆に痛々しくて」
美樹の目から涙がこぼれ落ちる。泣くのを我慢したために、くしゃくしゃになった顔のまま、紗季が美樹の頭を撫でる。
「ごめんねー、泣かせるつもり無かったのにねー。なんか私まで泣いちゃって、なにやってんだろ。でも、美樹ちゃんが優しい娘で、よかった。あの子のために泣いてくれる娘で、よかった」
なおも泣き顔のまま、美樹の顔を見つめる。
「慎也のそばにいてあげてね。あの子には、ただ、それだけでいいの。飾り付けた言葉や、高価なプレゼントなんか無くても、好きな人のぬくもりさえあれば、いいの」
美樹が紗季の顔を見つめる。
何か大切なことを言いたそうな、それでも言うことをためらっている顔。
でも、答えた。
「はい、わかりました」
それは美樹自身の正直な気持ち。だから答えた。
たとえそれが、決して叶うことの無い夢であったとしても、そう答えたかった