想い
地面がゆっくりと離れていく。
それと共に視界が広がり、遊園地の全景が見えるようになってきた。
短い冬の昼が、夕焼けとなって山の向こう側に消えていく。
真っ赤に染め上げられた景色が、心に刻みこまれていく。
まるで祝福されているみたいだ。 そしてここにも一人。
祝福された者がいる。朱に染まった横顔が美しく愛しい少女。
僕の向かい側で壁にもたれていた美樹が、眩しそうに目を細めて窓の外をみていた。
観覧車が、上がっていくたびに微かな音を立てる。 それは時が過ぎていく合図のようで少し寂しい。
昔から、楽しいことが終わりを告げるときは、空気の中に哀しさが融けて広がっていく。
下を覗き込むと、小さくなった人々が帰り支度を始めている。
その姿はどれも満足げで、とても嬉しそうだった。
人の幸せそうな顔は、冷たくなった僕の心を癒してくれる。
多分、自分があげることが出来なかった微笑みの代わりとしているのだろう。
そう考え、苦笑する。
まだ若いのに何を考えているのだろう。これじゃあ、恋をすることもなくなった老人のようだ。
だが、恋を出来なくなった、という点では老人と大差ないかもしれない。
自分の中に住んでいる少女の面影が消えてしまうまで、新しい恋を始めることなんかできそうもなかった。
「慎ちゃん」
それまで落ちかかる夕日を見ていた美樹が、静かに語りかけた。
落ち着いた大人のような、あどけない子供のような、不思議な声だ。
その声に答え、僕の顔も彼女と向かい合う。
「女の子といるときに、つまらなそうな顔しちゃ、いけないんだぞ」
口調だけならばふざけているように聞こえる。
だが、声が驚くほど透き通っていた。 言葉ではなく、声自体が何かを語っている。
強い気遣い。
僕自身を想う深い祈り。
「ごめん」
沈黙に耐え切れなくなった僕が顔を背けようとすると、細い手が僕の肩をつかんだ。
そして、そのまま抱き寄せる。
頭に回された腕の中で彼女の鼓動が聞こえる。
恥ずかしさから引き離そうとする僕を、彼女の声が止める。
「やっぱりダメだよ。慎ちゃん、このままだと壊れちゃうよ。なんだか、すごく自分を責めてる。私に言って。すごく大切な思い出も、自分を傷つけるだけのものなら、捨てなきゃいけないの。すごく辛くて、泣きたくなるほど悲しくても、話して。背負ってあげるから。私が一緒に背負ってあげるから」 美樹の瞳から涙が溢れた。
怒ったような表情で、必死に泣くのをこらえている。
迷いが生まれた。美樹に話すべきかどうか。
目を閉じて深呼吸をし、再び目を開いたとき、ゴンドラが地上へと舞い降りた。
訝しんでいる係員を後にして、僕たちは無言で歩き続けた。
夕日が山の中に姿を消し、最後の輝きが藍色の空に残っている。
雲がその光を受け紫色に染まる。
それを見た僕は、後ろを振り返った。
しゃくり上げている美樹に笑顔を向ける。
「俺、お前に半分荷物持ってもらうことにした。だから、話すよ。今までのこと全部」
涙が伝わる頬に、そっと触れた。
「もう泣くなよ」
コクン、と頷いた美樹の手を引き、手近にあったベンチに座らせた。
その隣に腰掛け、ゆっくりと語り出す。
「何から話せばいいのかなぁ・・・」
そう前置きして、僕は語り始めた。自分が今までに体験したことを。
小学校五年生のときだ。僕の親父が借金を作った上に女を作って逃げた。
家のことを省みず、その女に貢いだ結果の出来事だった。
親父が返せなくなった借金は、必然的に母さんが返すこととなった。
母さんはその細い腕で必死に働いた。自分を裏切った親父を恨みもせず。
子供だった僕の目から見てもはっきりとわかるぐらい体がボロボロだったのに、僕に心配をかけまいとしていつも笑っている人だった。
そして母さんは死んだ。
最後まで後に残される僕のことを心配していた。
自分はガンに侵され、死ぬ寸前の苦しみを抱えていたのに。
母さんが、この世を去ることでやっと苦しみから逃れることができた後、僕は母さんの実家に預けられた。
祖父母は本当に優しくて、どうしようもないくらいに良い人たちだったけど、僕の心にはいつも嵐が吹き荒れていた。
母さんを裏切った親父のことが許せず、人を信じることが出来なくなっていた。
いつも独りぼっちだった。友達なんていらないと思った。
友情なんて偽りだと思ってた。
そんなときだった。彼女が転校してきたのは。
その女の子は小さくて、いつも寂しそうに微笑んでいた。
彼女は僕と同じ匂いがした。なぜかわからない。
自分の前に絶望の色をした未来しか無い事をわかってしまった者の匂いが、彼女の周りにも漂っていた。
転校してからしばらくして、彼女はいじめられ始めた。
最初はお調子ものの男子が、物静かな彼女をからかった程度だったと思う。
でもそれがしだいにエスカレートしていき、クラス中の女子が彼女のことを無視し、悪ガキ達が少女を取り囲んだとき、僕は走っていた。
今でも不思議に思う。
何故あのとき少女を助けたのか。
今までどんな奴がいじめられていても無視していた自分が、彼女だけは助けたのか。
他の奴等を強引に追い払った僕が荒い息をついていると、彼女は僕に近付き、小さな声で、ありがとう、と言った。
それは僕の呼吸に紛れてしまいそうなほど微かな声だったけど、今まで聞いてきたどんな言葉よりも強く心に響いた。
なによりも、それまで寂しそうにしか笑わなかった少女の、本当に嬉しそうな笑顔が、ありがたかった。
簡単にいえば<スキ>。
だけどそんな言葉だけでは全然足りなかった。
母が死んで以来、初めて人を信じることが出来るようになったのだから。
それから僕たちは急速に仲良くなった。
はっきりとは言えなかったけど、僕の気持ちは彼女に伝わっていたと思う。
そして彼女も、きっと僕のことを・・・。
その頃から、僕は人に優しさを与えることが出来るようになった。
何よりも僕自身が、彼女から優しさを分けてもらっていたから。
人の心の底に眠ってるぬくもりに気づくことが出来たのだろう。
そして、あの日がやってきた。
12月24日、クリスマス・イヴ。
冬休みが始まる前に、彼女と待ち合わせをしていたのだ。
その日、僕は彼女に告白するつもりだったのだ。
緊張のあまり震える手で、ありったけの想いを込めたクリスマスプレゼントを落とさないようにしっかりと握り締めながら、彼女がくるのを待った。
待ち合わせ時間が刻々と過ぎていき、雪が降りだす頃になっても・・・彼女はこなかった。
・・・・雪の降りしきる中、僕は必死に走っていた。
途中、クリスマス気分に浸る人々に何度もぶつかりながらも、必死になって走った。
綺麗な輝きを灯すイルミネーションが泣きたくなる気持ちを溢れさせる。
懸命に涙と戦いながら静まり返っている病院の入り口に飛び込み、思い切り病室のドアを開ける。
そこには泣きくずれる夫婦と、ベッドに横たわる少女の姿があった。
ふらついた足取りでベッドに向かう。
頭の中がぼうっとして何も考えられなかった。
震える手で彼女の頬に触れる。
あんなに自分の心を温めてくれたぬくもりが、今は雪のように冷たかった。
悲しすぎて涙もでなかった。
彼女の両親が部屋を出ていったのも、押し殺したすすり泣きが遠ざかっていくのも、感じることが出来なかった。
ひんやりとした少女の顔を改めて見つめる。
何も変わってなかった。
柔らかな肌の感触も、つややかな髪も、少しだけ明るくなった微笑みも何もかも。
死んだなんて信じられなかった。少し低い声も、手の中のぬくもりも、二度と感じることが出来ないなんて信じたくなかった。 僕は手の中の袋を丁寧に開け、少女の手に握らせた。
ガラスでできたクリスマスツリー。
僕の想いのこもった、彼女にあげる最後のクリスマスプレゼント。
窓の外から入ってくる月の光が、透明なツリーのイルミネーションに変わる。
暗闇の中で青白い光に包まれながら、僕達は初めてのキスを交わした。
彼女は転校してきたときすでにガンの告知を受けていたらしい。
もう手遅れで、長くは生きられないと。
彼女は知っていたのだ。自分の前に未来が続いていないことを。
それでも彼女は戦っていたのだ。絶望と。
その日から僕は三日間泣き続けた。
少女のどうしようもない運命と、何も変えることが出来なかった自分の非力さを嘆いて。
そして、涙が枯れ果てたとき、その記憶を心の奥深くにしまいこんだ。
もう誰も不幸にしないように・・・もう誰も好きにならないように・・・硬く誓いながら。
美樹の瞳から涙がこぼれた。ふくよかな頬を伝わっていく。
何も言わずに涙をぬぐってあげた僕の手を、少女の小さな手が包みこんだ。
とても暖かい。僕の冷えきった心に染みていく。
「だから慎ちゃん、いつも悲しい顔してたんだ。その子が苦しんでても、何もしてあげれなかったから。でもね、何もしてもらえなかったなんて、その子は思ってなんかないよ。絶対幸せだったと思う。残り少ない日を、慎ちゃんと過ごせて。最後に、慎ちゃんと出会えてうれしかったんだよ」
「そうかな・・・・・」
「絶対、絶対そうなんだから」
なおも泣きじゃくる美樹の頭に手をおくと、そのまま僕は抱き寄せた。
「うん、わかってる。・・・ありがとな」
誰かが自分のために泣いてくれるって、良いものだと思った。
無駄じゃなかったって、自分は決して無駄じゃなかったって思うことが出来る。
それがたとえ嘘で、気休めにすぎないとしても、信じたかった。
僕の胸に顔をうずめていた美樹が、涙をぬぐいながら顔をあげる。
「慎ちゃん」
「ん?」
「クリスマスの夜、その子になんていいたかったの?」
彼女の目があの頃の記憶を呼び起こす。
精一杯の想いをこめたあの言葉。
「まあ、いいじゃん、そんな昔のことは」
「よくないよ!」
おどけた僕の言葉は、美樹の言葉に掻き消される。
「私が聞いてあげる。小さな女の子と、その子を好きだった男の子のために」
僕は迷って、でも。
「好きだ・・・・」
小さなその声は、風に消されてしまって、自分を抱き締めてくれる少女に聞こえたかどうかはわからない。
けど、天国にいる少女にはきっと聞こえたと思う。
あの頃の、想いと共に。