少女
「キャーーーーーー!!」
内蔵が浮かび上がるような感覚の後、少女の悲鳴が僕の耳に届いた。
しかし、なぜかその声には歓喜が含まれている。
そして、それを聞いている僕はというと、少女のとなりの席で顔をひきつらせていた。
あの後・・・見知らぬ少女に手を引かれていった後のことだ。
「ちょっと待ってくれよ」
「んっ?」
首をかしげながら僕のほうを見る。
「どうかした?」
「どうかしたじゃないだろ、どうかした、じゃ!!お前、いったい誰なんだよ?何で俺のこと知ってる?」
「えっ、と・・・・」
「お前いったい・・・・」
何考えてる、という言葉は僕の口からは出ていかなかった。
少女の目を見てしまったから。
それは、おびえた子供の目。信頼していた者に裏切られた時の、哀しみを帯びた光。
少女の心の入り口に触れてしまったとき、僕は深い罪悪感に襲われた。
「・・・まっ、いっか。今日はクリスマスだもんな。どうせ一人で暇なんだから付き合ってやるよ」
僕の言葉に不思議な力でもこもっているかのように、硬かった少女の顔にほほ笑みが浮かぶ。
曇り空が晴れるように。閉じていた蕾がほころぶように。
「とりあえず、名前を教えてくれよ」
恥ずかしくなってしまった心を隠そうと、僕は少女に尋ねた。
「私?私はね、美樹。今村美樹っていうんだ。昔慎ちゃんと会った事あるんだけど・・・覚えてない?」
「ん~と、ごめん、覚えてないや」
でも・・・・何処かで会ったことがある気がする。それも、自分にとってとても大切な人だった気が。
「そっかぁ、もう忘れちゃったのかぁ」
美樹の顔に寂しそうな微笑みが浮かぶ。 それは刃のように僕の胸を貫いた。
「ごめんな」
「ううん」
そう言って小さく首を振った少女は、独り言のように呟いた。
「しょうがないよ、すごく昔の事だもん。忘れて当然だよ」
そして、弱々しく笑った。 再び胸に痛みが走る。
これ以上少女のかなしそうな顔を見たくなかった。
理由はわからない。 僕の中の何かが、悲しませることを拒絶していた。
それは男としての本能なのか、忘れられた過去が関係しているのか。
「本当にごめんな。お詫びになんかおごるから」
「えっ、本当!」
「あっ、ああ、本当」
今まで静かだった少女が急に元気になったことに対して、何だかだまされたような気がしてくる。
「・・・・・・」
複雑な想いで顔を見つめる僕に気づき、それまで欲しいものを連呼していた美樹が顔を上げた。
「どうした?」
「決まったよ、欲しいもの」
嫌な予感から思わず身を引いてしまう僕に、無邪気に笑いかける。
「やだなぁ、そんなに身構えないでよ。私、そんな嫌な女じゃない」
「だって、おもいっきり怪しく笑っただろ、今。俺に無理難題を言って金を搾り取る気なんだ。そしてボロボロのグニョグニョのヘロヘロになったところで、喰っちまう気なんだー!!」
「あのね・・・人を化け物扱いしないでくれる?それに、おごってもらおうなんて本気で思ってないよ」
「でも、欲しいもの決まったって・・・・」
少しだけ真面目な顔になって、かぶりを振る少女。
「私の欲しいものは物じゃないの。笑わないで聞いてくれる?」
「ああ、絶対に笑わない。約束する」
その言葉を聞くと、美樹は照れ臭そうに唇を動かした。
「思い出が欲しいの」
「思い出?」
「そう、慎ちゃんとの思い出。今日一日を慎ちゃんと一緒に過ごしたんだ、そう思える証が欲しいんだ」
変な願いだった。普通の娘がそんな事を言うなんて思ってもみなかった。
でも、本気で言っている彼女の願いをかなえてあげたくなった。
たとえ、彼女が何者であろうとも。
「いいよ」
僕が答えると、意外そうに顔を見つめる。
「どうしたの?」
「絶対馬鹿にされると思ったのに」
「約束だからな、笑わないっていう。それに・・・」
それに、理由がありそうだから。
そう言おうとして、やめた。 少女が明るく振る舞って隠そうとしている努力を無駄にしたくなかったから。
心のガラスケースの中に土足で踏み込むようなことは、僕にはできなかった。
「それに、何?」
僕が口にしなかった言葉を彼女が訊ねる。
「何でもないよ。だけどさあ、俺って変だよな」
「どこが?」
「だってさ、普通、こんなわけわかんない女と話したりしないぜ」
「ひっどーい!私、わけわかんなくないもん!」
「俺、新手のナンパかと・・・いてっ」
まるで漫画のように、腕を振り回して美樹が僕を叩く。
「バカバカバカバカバカバカ」
「いてててっ、わかった、わかったからやめろって」
耐え切れなくなった僕は、美樹の魔の手からダッシュで逃げ出した。 当然のごとく美樹が追いかけてくる。
大騒ぎしながら走っている僕たちをみて、道行く人たちが苦笑を浮かべていく。
しょうがないなあ、という感じで。
端から見ると痴話喧嘩に見えるんだろうなあ、そう思うとなぜか悪い気はしなかった。
でも、かなり恥ずかしいことにはかわりない。
そろそろ息が上がってきだしたとき僕は急に立ち止まった。
そのため、後から走ってきた美樹が、僕の背中に突っ込む形になる。
「いったーい、急に止まらないでよ」
鼻をさすりながら文句を言う少女の口を押さえると、そのまま物陰へと押し込んだ。
「なっ、なに、どうしたの?」
とっさのことで狼狽している美樹をほうって、僕の視線は前に向かって注がれたままだ。
ビルの壁と壁の間にはさまれた視界の向こう。
そこには彼氏と一緒にいる紗季の姿があった。
紗季は僕より二歳年上のいとこで、年上ということもあって小さい頃から何かと馬鹿にされ続けてきた。
今、女の子と一緒にいるところなんて見られようもんなら、一生の弱みを握られるようなものだ。
何かある度にからかわれるに決まってる。 そう思った僕は、考えるより前に行動していた。
「あの人、もしかして慎ちゃんの彼女?」
恐る恐る訊ねてきた美樹に、僕は苦笑を返す。
「違うよ、ただのいとこ。女の子と一緒にいるところ見られると、からかわれるから」
ああ、そうなの、と納得した美樹が、「ところで・・・」と何か言おうとする。
「ん?」
「いつまでこうしてる気?ちょっと恥ずかしいんだけど・・・」
そこでやっと気づいた。
美樹の華奢な体をおもいっきり抱き締めている自分に。
「ごっ、ごめん」
慌てて体を放した僕に無表情な顔を向ける。
「今、胸触ったでしょ」
ばれた、と思った。
男の悲しい性で、無意識のうちに胸に顔をうずめていたような気がする。
彼女に対してどういうリアクションをして良いかわからずに、内心どきどきしていた僕は彼女の瞳が笑っていることに気づかなかった。
人生最大のピンチに対し、なす術もなく翻弄されていた僕は少女の笑いでやっとそれがからかいであったことに気づく。 「慎ちゃん、おっかしー。すごくこまってんだもん」
「おまえなあ・・・。今、すっげえあせったぞ。いいかげんにしろよなあ」
「でも胸触ったのはほんとだよ」
また不利な話題を出され、沈黙する僕。
「今度慎ちゃんの学校で言いふらしちゃおうっかな、私。そうすれば慎ちゃんみんなに避けられちゃうんだろうね。変態、とか呼ばれるんだろうなあ」
そんなことになったら、知識人として通っている自分に対しての信頼が無くなってしまう。
しかもその場合、義秋と同類ということになってしまうではないか。
それだけは絶対に避けなければならない。なんてったって、すけべ大魔人の義秋と同類なんて。
失礼極まりない思考によって悩んでいた僕に、美樹が譲歩の条件を出してくる。
「もしそれが嫌だったら、私のいうこときいてくれないかなー?」
一応疑問形になってはいるが、はっきりいって脅迫だ。
「・・・・鬼」
「えー、こんな可愛い娘のどこが鬼なのかな。美樹、わかんないー」
こいつ殺してやろうか、と半ば本気で思ったりもするが、僕に抵抗する手段は残されていない。
「・・・・わかりました」
かすれた声で答えると、子供のように美樹がはしゃぎ出す。
あまりにもはしゃいでいるので、僕は、まあいいか、という気持ちになっていた。
どうせ一年で一度のことだし、こいつのことももっとよく知りたいし。
「じゃあさ、遊園地に行きたい、遊園地!」
「ああ、いいよ」
再び少女が騒ぎ出す。
「そんなに嬉しいか?遊園地なんか何度も行ってるだろ」
そんなに貧乏だったのか?と失礼なことを考えていた僕に向かって。
「わかってないなあ、慎ちゃんは。私は遊園地じゃなくて、慎ちゃんと行くことに喜んでるの。女の子って、好きな人といればそれだけで楽しいんだから」
じゃあ遊園地じゃなくってもどこでもいいじゃん、というつっこみは、僕の口から出ていかなかった。
顔が真っ赤になるほど照れてしまっていたから。
そんな僕を知ってか知らずか、美樹が僕の顔をのぞき込む。
「どうしたの、黙りこんじゃって?」
僕は赤い顔を見られたくなくて、そのまま歩き出す。
「ちょっと待ってよー」
ちょこちょこと追いかけてくる美樹を無視して、僕の足は遊園地の方向に向かっていた。
・・・・・美樹の頼みで乗ったジェットコースターががくんと揺れ、そのまま停止した。
いっときのスリルを味わった乗客達が楽しそうに笑いながら降りてくる。
その中で僕は一人で伸びていた。 やっとの想いで階段を降り、近くのベンチに腰をおろす。
「ねえ、大丈夫?」
倒れそうになっている僕に肩を貸してここまではこんでくれた美樹が、心配そうに声をかけた。
だけど、あまりの気持ち悪さに返事を返すことさえ出来ない。
真っ青になっている僕を、彼女はいきなり自分のほうに引っ張った。
全身に力が入らない僕は、彼女の力でも簡単に倒れこんでしまう。
そのままベンチに横になった僕の頭の下には、美樹の膝があった。
恥ずかしくて起き上がろうとした僕を少女の細い手が押さえ込む。
「ほら、具合が悪いんなら無理しないでこのままでいる!」
美樹の強い静止に折れ、僕は全身の力を抜いた。
少女のぬくもりが、疲れ切った心をなでていく。閉じていた目を開けると、美樹の瞳にぶつかった。
彼女自身も僕を優しい色を浮かべた目でのぞき込む。
「少し休んでこ。まだ時間はいっぱいあるし」
指が僕の髪をすく。何だかとても心地好くて、もう一度目を閉じた。
僕たちのいる場所は遊園地の端のほうで、人の喧騒から離れている。
スピーカーから流れる音も、わずかに聞こえるのみ。
そのぶん風の音が聞こえた。葉を全て落とした枝が揺れる音。 季節が流れていく音。
「なんか、情けねえ・・・」
「ん?何が?」
「ジェットコースターぐらいでへばっちまって」
「そんなことないよ。向き不向きがあるし。それに無理矢理付き合わせたの私だもん」
「けど・・・」
言いかけた僕の口を彼女の手が塞いだ。目を開くと、美樹と視線がぶつかる。
「私は情けないと思わないよ。人には必ず苦手なことがある。けど、それを乗り越えようとしてがんばったり、得意なことを生かしたりすればそれでいいじゃない。それに、こうやって弱いとこ見せてくれたほうが私は嬉しいよ」
なんか嬉しかった。そんなこと人に言われたことなかったから。
「なあ」
きいてみたかった。
どうして僕に声をかけたのか。どうして僕を知っているのか。
どうして僕が・・・彼女のことを好きになりかけているのか。
けど、声が出なかった。きいてはいけないような気がした。
全てを知ったら一緒にいられないような気がして。
言葉の続きを美樹が待っている。
決して無理に催促するでもなく、突き放しているわけでもなく。
静かに僕を見つめながら。
「何でもないんだ」
彼女は僕の言葉に、そう、と言った。
他には何もきかずに、黙って僕の手を包んでくれた。
このとき僕は美樹のことを好きになりかけていたんだと思う。
けどそのことを認めると、胸の中に住んでる女の子を忘れてしまうんじゃないかって思って・・・怖かった。
あんなに好きだった娘を忘れるなんてしたくなかった。
時の流れが、思い出を砂のように崩していくことを認めたくなかった。
「ねえ、慎ちゃん」
寂しい気持ちを持て余していた僕は、美樹の声をきいて彼女のほうに向き直った。
今まではしゃいだ子供のようだった美樹が、大人びたものに変わったからだ。
「何か悩んでる?」
「別に悩んでなんか・・・」
目線を逸らせようとした僕の顔をつかむと、大きな瞳で僕の瞳をのぞき込んだ。
僕の心の中の痛み感じようとするかのように。
けど僕も心をのぞき込まれるのが不快ではなく。
「慎ちゃん。私、慎ちゃんが苦しんでるとこ見るの嫌だよ。そんなに苦しみを背負わないで。慎ちゃん優しいから、誰かのために苦しんでる。そんなところすごく好きだけど、悲しいよ。私、何も出来ないけど、それでも・・・」
一生懸命に自分を励まそうとしている美樹をみて、泣きそうになった。
何だかわかんなくて、嬉しいのか悲しいのかさえもわかんなかったけど、きっとうれしかったんだと思う。
自分がこれまで背負ってきた悲しみを、わかってくれる人に逢えて。
それでも。
それでも自分のことをいえなかった。
美樹に心を許したくても、その瞬間に自分の大切にしてきたものが壊れてしまいそうで。
そんな自分がたまらなく嫌だった。
自分を信頼してくれている少女を欺いてる気がしてたまらなかった。
「ごめん。俺、まだいえない。大切な、思い出だから・・」
絞り出す想いで僕が言うと、彼女の目が寂しそうに細まる。
その姿が僕の心を揺さぶる。また心が苦しくなる。
「そんなに困らないで。私まで悲しくなっちゃうでしょ。本当に大事なことなら人に言えなくたて当たり前だよ。それに、慎ちゃんは私にとってとても大事な人だけど、慎ちゃんにとって私は大事なんかじゃないんだから、自分のこと言う必要なんてないもん」
違うんだ、必要ないなんてことない。
僕の想いが言葉になる前に、彼女が口を開く。
「でもいいなあ。慎ちゃんにそんなに大切に想われてる人がいるんだ。なんか、うらやましい」
瞬間、僕は少女の体を強く抱き締めていた。
これ以上何も言わないように。これ以上悲しみを増やさせないように。
こわばった彼女の体から、次第に力が抜けていく。体を預け、眠るように目を閉じる。
「やっぱり慎ちゃんは優しいね」
彼女の声が体に伝わってくる。僕が何もいえずにいると、そのまま話し続けた。
「初めて会ったときもそうだったよね。慎ちゃんはもう覚えてないかもしれないけど。でもね、私にとっては大切な宝物なんだ。・・・小学生のときだったかな、私の両親が離婚しちゃったの。すっごく悲しかった。大好きなお母さんが家をでてっちゃったんだから。どうして離婚したのか今でもわかんない。子供の私から見てもすごく仲の良い二人だったから。しばらくして、お父さんは再婚した。テレビとかだったらここでいじめが始まるんだろうけど、そんなことなかった。新しいお母さんはとても優しかったから。自分は子供産んでなくて、いきなり他人の子供である私が自分の子供になったのに、全然嫌な顔しなくて、自分の子供のように育ててくれた。赤ちゃんが生まれてからも、同じようにかわいがってくれたの。でも、どうしても、お母さんて呼べなかった。本当のお母さんのことが忘れられなかったから。それでね、私がおばちゃんていうと寂しそうに笑うの。悲しかったなあ。自分のせいでこんな良い人を悲しませてるんだと思うと、自分が嫌いになっちゃって、毎日泣いてばかりいた」
僕は彼女の気持ちがよくわかった。
どうしても壊したくない想いを守ろうとして、他の人を傷つけている時の苦しさ。
今の僕がそうだから。頭ではわかっていても、心がうまく働かないときの悲しみが。
「その日も、誰もいない教室で泣いてたの。そして、外が暗くなって、寂しさからまた涙があふれてきたとき、ドアが開いて男の子が入ってきた。その子はクラスでも無口で、みんなから敬遠されてた子だったんだ。私が泣いてるのをみて驚いたみたいだったけど、そのままツカツカとあるいてきて小さな手を差し出したんだ。その手の中にはキャンディーが入ってた。私、びっくりして黙ってたんだけど、男の子は怒った顔で私の手に握らせると、そのままどっかいっちゃったんだ。でも、その何でもないようなことが、嬉しかった。不器用な優しさが、とても温かかった」
そう言った彼女の瞳が優しさを帯びる。とても愛しいものを包みこむ暖かさが彼女の中にあった。
ここで言った少年というのは多分僕のことだろう。
小学生の頃の僕は、彼女の話し通りにクラスの中で浮いていた。
様々な出来事が心の中でヘドロのようにたまり、友情とか愛情とか、そういった綺麗な部分を腐食していった。
信じられるものなんて何一つなかった。 人に優しさをかける余裕すらない毎日。
何よりも自分自身が優しさに飢えていたから。
人に与えなければ、自分のところに返ってこないなんてことわからなかった。
小さいときのことだから、あまりよく思い出せない。それに、辛いことが多過ぎて、思い出したくもない。
けど、もし、本当に彼女の悲しみを少しでも軽くしてあげられたのだったら・・・その時僕は、きっと救われたのだろう。
まだまだつづきまっせ~